天女の羽衣
それは一枚のぱんつであった。
男性用のとは決定的に違うぱんつであった。シルクのような滑らかな手触り、デザインも男性用とは違い触ると壊れてしまうような繊細で芸術的な装飾が施されていた。ひらひらとしたレースはまるで天女の羽衣のように宙を泳いでいた。思春期の男が女性に対して夢や憧れを頂くには十分な品物だ。
問題はそれが私のポケットに入っている事であった。私は元来、臆病な男である。女性用のぱんつを人様から拝借するような度胸などない。では、家から持ってきたのだろうか? 否、私の家族構成は父と母、それに弟だ。女性は母だけであり、母がこのようなぱんつを穿くとは考えにくい。これは一体誰のものであろうか。私は思考の旅に出ようとしていると、朝礼の鐘が鳴った。私は一旦、旅支度を片付けると、静かに背筋を正した。ぱんつについて考えるのは休憩時間でも問題は無い。私のクラスの担任は学校一怖いことで有名であった。朝礼でさえ、気を抜くと体罰を受けてしまうのだ。皆が静かに黒板の方を向いていると、鬼瓦のような顔をした教師が竹刀を片手に扉を開けて入って来た。委員長の規則正しい号令にり、一斉に鬼瓦に頭を下げる。
鬼瓦の恫喝のような朝礼が始まった。だが、私の耳には朝礼の内容は全然入ってこなかった。ポケットの中身の事を考えると不安になるのだ。心臓が早鐘を打つ。もし、ぱんつを持っていることを誰かに見つかってしまったら? もし、何かのはずみでポケットから落ちてしまったら? 我慢できず、不安と一緒にぎゅうっとパンツをポケットの奥に押し込んだ。これで大丈夫だと無理やり自分を納得させると、朝礼を聞くふりに専念した。朝礼が無事に終わると思った最後の最後で教師が心臓を握りつぶすような発言をした。
「最近、校内に刃物を持ってくるような馬鹿者がおる。お前らの中にはおらんと思うが、念のために手荷物チェックじゃ」
鬼瓦は今なんと言ったのだ? 全身から冷や汗が吹き出る。私の顔は茄子のように青く、しわしわに萎んだ。周りの生徒達が面倒くさそうにカバンの中身やポケットの中身を机の上へ並べてゆくなかで、私だけがかたかたと震えていた。このままではまずい。全身に力を入れ震えを止める。そうだ。先にカバンの中を調べればよい、その間に何か画期的な方法を思いつけば良いだけの話だ。楽観的な解決策を思いつくと、鼻歌を歌うような気持ちでカバンを手に取り、蓋を開けようとした。
いや、カバンの中に何も入ってない保証はあるのか? 開けかけたカバンの蓋を再び閉める。女性の下着とは上下セットだ。ポケットにぱんつが入っていたように、カバンの中にはブラジャーが入っているのではないか? 下着が上下揃ったところを想像しただけで、耳鳴りが聞こえ、呼吸は荒くなり、ふらふらと倒れそうになる。隣の席の友人Pが私の方をちらちらと見ていた。明らかに怪しんでいる。ここで何か言われたら何もかもが終わってしまう。それに下着が入っているのは確定しているわけではない。箱の中の猫は観測されるまで生きているか死んでいるかわからないように、カバンの中に下着があるかどうかも見てみなければわからないのだ。シュレディンガーに祈りを捧げ、化石を掘り起こす考古学者のように慎重にカバンの中へと手をいれる。ごそごそと探ったが何も手には当たらない。勇気を出して覗き込んだがやはり何もなかった。
さて、次なる問題はポケットの中身だ。画期的なひらめきなど何もなく、あるのはぱんつだけであった。友人Pが他の者にわからぬよう慎重に私に話しかけてきた。
「君は僕の友人だ、困っている事があるなら相談して欲しい」
友人Pはとても真剣な面持ちで真っ直ぐに私の目を見た。
「人間の尊厳に関わることだ。……私は今、無実の罪と戦っている。これを聞いてしまったら君の他人事では済まされなくなる。それでも相談に乗ってくれるか?」
「勿論だとも。我が友よ」
私は友人Pにぱんつの事を打ち明けた。悩み抱えた青年が神父に懺悔するかのように。
「我が友よ、君の罪は僕が背負おう。君には大学へ行くという夢があるだろう。こんな事で内申点を下げる必要はない」
「私の罪は私のものだ。君の申し出はとても嬉しいが、それはやってはいけないことだ」
友人Pは強引に私のぱんつを取ろうとしたが、私はそれを制した。友人Pの優しさに目頭が熱くなる。その時、私はこれまでの人生で一番の失敗をしてしまった。密々話に夢中で前を見ていなかったのだ。白熱する私と友人Pの間にすっと竹刀が差し込まれる。まるでロミオとジュリエットを引き剥がすかのように。気がついた時にはもう遅かった。教師は私と友人Pを立たせ、カバンの中、服の中をチェックし始める。不安と共に押し込めたはずの一切れの布が教師の手に握られる。それがただのハンカチであったなら。永遠とも感じられる時間の中で幾度も願った。願いは叶わず、頬に強烈な痛みを味わった。髪をつかまれ、ずりずりと引きづられる。だが、これから味わう心の痛みに比べれば、肉体的な痛みなど些細な事だった。
「なんじゃこりゃあ、説明せいや」
教壇の上に一切れの布が置かれる。それはハンカチではなく、紛れもなく純白のぱんつであった。助けを求めるようにクラスメイト達の方を向いた、彼らは私のことを演劇の舞台を見るかのように静かな目で見ていた。小心者の私に主演男優は荷が重かった。それでも演者は途中でやめられない。舞台が終わるまで降りられないのだ。私の心臓を潰すかのように教師の怒鳴り声はどんどん大きくなる。だが、どれほど怒鳴られても説明のしようが無いのだ。知らぬ間にポケットに入っていたのだから。
「それは僕のだ。彼には貸していただけだ。叱るのなら僕を叱ってください」
友人Pが私を庇うように手を挙げる。彼も震えていた。叱られるのが怖くない生徒などいない。それでも彼は私の為に名乗り出たのだ。
「友人Pは関係無い、これは私のぱんつです。叱るなら私だけをしかってください!」
私は教師に懇願した、無関係な友を巻き込むわけにはいかない。無実の罪を共に背負ってくれる友がいる。そのことが本当に嬉しかった。
友人Pは制服を脱ぎ始めた。演劇の舞台に立つには着替えが必要なのだろう。彼は何の役だろうか? さしずめ、囚われた私を助ける王子様といったところか。上半身の服を脱ぎ終えると、そこには男性には不要なブラジャーが付いていた。友人Pは教壇の上のぱんつを手に取り、胸元にあてブラジャーと並べる。それは一組しか無い錠と鍵のようにぴたりと柄が組み合わさっていた。このぱんつは紛れもなく友人Pのものだったのだ。
「クラスメイト諸君! 見ての通り、この下着は上下セットのものだ! これは私の下着だ、彼の無実を皆も証明して欲しい!!」
友人Pの演説に関わりを持ちたく無かったクラスメイト達も、ぽつぽつと賛同していった。困惑している教師に友人Pは言い放つ。
「朝寝坊してしまい、ぱんつを穿き忘れたのです。学校で穿こうと思っていたのですが、手違いで彼のポケットに収まってしまいました」
「P、お前、女じゃったんか……」
教師の問いに友人Pは答えなかった。俯きパンツを持ったまま教室から出ていく。私は追いかける事もせずその光景を見送った。朝礼はそのまま終わった。鬼瓦の怒りはすっかり収まっていた。私は友人Pを探しにいった。ぱんつを穿くのならトイレだろう漠然とそう思った。鍵の掛かった個室が一つだけあった。ノックをし、友人Pかどうか尋ねる。個室の鍵が開くと友人Pが顔を覗かせた。
「友人Pよ、君が名乗り出てくれたとき、私は何よりも嬉しかった。これからも良き友人でいてくれるならそれでいい」
「……良いのか友よ。だが、僕のせいで君が竹刀で打たれた事も事実だ。僕を同じように打って欲しい」
「あれは痛かった。今でも顔がジンジンしている。本当に打った方が良いのか?」
「ああ、僕なりの贖罪だ遠慮はいらない」
「わかった」
私が大きく拳を振り上げると、友人Pは目を閉じる。私に震えている友を打てるはずもない、拳を下ろし、友人Pを抱きしめた。
「なっ」
予想外の感触に友人Pは戸惑っていた。私は抱きしめている手に力を込めた。
「何も言うな。我が友よ」
私達は泣きながら抱き合った。友人Pの胸があたりどぎまぎとしたがそれは言葉にしない方が良いことだと思った。