匂いのする男、しない男
サバはそれから何度かそのベーカリー、『ビエランカ』にパンを買いに行った。
そこまで晩熟、というわけでもないので、少し通うようになってから店主にライナーのことを訊いてみたことがあった。ねえ背の高い、栗色の髪を後ろでひとつに縛った若い男の人、ここを教えてくれたんだけど、よく来るの? ライナーという名前らしいけど、知ってる?
店主は風が隙間から洩れてしまう手風琴のようなはっきりしない声で、いいや、覚えがないね、と答えた。
学校では自然文化史のコースを取るように指示され、実際にクラスにも参加した。
背の大きな学生たちにじろじろと見られるのが嫌で、いつも一番最初に教室に入り、最後に出ていった。授業中はできるだけ目立たないように、ずっと下を向いて教科書を真剣に読んでいるふりをした。
教授はたいがいおおまかな事情を知っているせいか、積極的にサバを指名することはなかった。たまに何かのはずみで発言する機会が回って来ると、可愛げのない太い縁の眼鏡を押さえ、俯き加減になって早口で答えた。
ある日、教室を出ようとした時、一番後ろに座っていた男子学生が急に立ち上がったのが見えた。
たまに見かけることがあっても、たいがいが数人でたむろしている学生のひとりだった。大柄で身なりもよく、どちらかと言えばサバが近寄りたいと思うタイプではない。
それが目の前に立ちふさがろうとしている。
サバは席から立ち上がりふり向いた時から彼の存在に気づいていたが、今さら向きを変えて前側のドアから出る気も起きない。
ついにあと二歩ほどの位置になって、サバは足を止めた。相手は金髪に吹き出物の多い顔、いかにも傲慢そうに頑丈そうなあごを上げている。もちろん上背もあるので、いきおい、サバを見おろす形になった。
「お前、」党幹部、もしくは軍人の息子だろうか、物言いに不遜な響きがある。
「ブラウンと言ったな。サバ・G・ブラウン」
「そうだけど」
「施設出身か」
この国の児童養護施設出身者には全四か所の施設ごとまとめて、グレイ、ブラウン、ブラック、ホワイトのどれかの姓が与えられる。国内にだって元々これらの姓を持つ者もいるが、元は英語圏からの移住者だというのは明白なのでたいがいはすぐに出自が知れる、というのがこの小国の素晴らしい仕組みのひとつだった。
「施設出身者で、しかも飛び級だって?」
金髪の青年は小鼻を膨らませる。自分が普通、他の学生が知らないことを知っているのがさも自慢げな様子だった。
「施設出なんて、珍しくも何ともないけど?」
珍しくサバは反論してみた。豚のような鼻と疑い深そうな青い小さな目に生理的な嫌悪感を覚える。相手は予想外の反応にいっしゅん目を見開いたが、あごを上げて斜め上を向いたまま鼻先で笑ってみせた。
もしかしてコイツは自分がいい男だって思いこんでいるのだろうか。
サバはそう感じ、急激な殺意を心にしのばせる。
「頭が良いんだろうな、なりは地味で、暗そうだけどな」
急に男が眼鏡の奥を覗き込むように頭を近づけたので、サバはつい顔をしかめて後ずさる。嫌がらせなのか、口説こうとしているのか、その両方なのかも判然としない。
だがこれだけははっきりしている。
コイツは豚だ。危険な豚だ。
豚は命令口調になった。
「教えろ、身元保証人は誰だ? どうせ教授のうちの誰かなんだろうがな」
そういう例がよくあるのだろう。
「施設内学級で少しばかり成績が良かったのか? たまに来た視察の教授に拾われたのか? それよか色仕掛けかもな。オマエみたいな子どもが好きだって言う変態もいるだろうしな。教えろよ、どうやって若い教授をたぶらかして、愛人に仕立てたんだ? いや、それともジイサンを誘惑したのか?」
しかしそれを訊いてこの男はどうするつもりなのか。サバは逆に問い返した。
「あんたは何? 何の権利があって私にそんな事を訊いているの?」
「はぁ?」まさか逆らってくるとは思っていなかったのだろうか、男が顔をゆがめる。
「オレが、何者か、ってか?」
知らないのか、と言った口調で彼は尊大に続けた。
「国民党副書記官補佐のコールマーを知ってるだろう、いくら施設出だと言っても」
もちろん知っている。
副書記官イェーナは党の中でもかなりのやり手だが、それは補佐のコールマーがかなり影響力を持っているというもっぱらの噂も。
「俺はコールマーだ。この学校を出たらすぐに入党して親父の秘書をやる」
「補佐官の補佐ってわけ」
「物言いに気をつけろ」急にコールマーの脂ぎった顔が面前に近づいた。真顔になったのは脅しているつもりらしい。急にきつい体臭がする。こぎれいなクリーム色のシャツにスマートなスラックス、見た目はいかにも清潔そうだが、中から腐っている、そんな印象だった。
「国家権力の頂点に一番近いと言われているんだ、お前の身元保証人なんて簡単に消すことができるぞ、そうしたら寵愛を失ったオマエは即、収容所送りだ」
コールマーは一歩引いた。最初に見た時のにやついた笑みが戻っている。
「今度夕飯に誘ってやる。前日までには連絡するから、しっかり化粧して服もそんな野暮なものは止めてせいぜい洒落て来い。眼鏡も外せよ」
サバは、去っていく後ろ姿を半ば呆れ顔で見送った。
脅迫じみたデートの誘い、相手は慣れたものなのだろう。親の七光りをタテに、かよわい女子を半ば脅して無理やり付き合わせ、我が物にする。
しかし、サバは口の端だけで軽く笑って、ふん、と息を吐いた。
彼の誘いに応じることはたぶん一度もないだろう、今後永遠に。
冷たい雨が続いていた、ある日のこと。
「また会ったね」
革命広場の南口近くに彼が立っていたのが見えた。こちらを向いて大声でそう言ってから、大きく手を振った。
「ライナー」
つい弾んだ声が出てしまい、サバはあわてて口を押さえ、それでも急ぎ足で車道を横切った。せっかちな車がクラクションを鳴らし、サバは駆け足になる。
「うれしいな」
ライナーはそう言いながら彼女の手を取って、歩道との境にある浅い溝を飛び越すのを手伝ってくれた。ゆるやかな傾斜がついた溝はふたがなく、たいしたことのない降りだと言えども、少し水が溜まっていた。
サバは靴を濡らすことなくバレリーナの跳躍のように歩道に降り立った。勢いがついて、サバはつい彼の胸元に飛び込んだ形になる。
「え? 何か言った?」
焦って身を引き離す、頬が燃えるように熱い。
あの豚野郎とは全然違う。彼からは何の匂いもしなかった。ただ、湿って熱をおびたウールのどこか懐かしい香りがいっしゅん鼻をかすめた。
「名前を覚えていてくれたんだ」
「まあね、あれからパン屋で……」あなたのことを訊いたの、と続ける前に彼が言う。
「君とは一度も会わなかったね、僕は何度か店に行ったんだけどな」
「私もだよ」ようやく勇気を出して言ってみる。
「パン屋さんにライナーという人を知らないか訊いたら、知らないって」
ライナーは笑っている。「僕はそこまで有名じゃあないからね」
それからいたずらっぽい目をしてこう訊いてきた。
「この前別れてからずっと悩んでいたんだ……」
「何を」
「名前を訊いてなかった、ってね」
サバはますます赤くなる。少しうつむきがちになりながら、小声で名を告げた。
「サバ、良い名前だ」
初めてそう言われた、それも小声で伝えるとライナーが言った。
「僕の母の故郷では、サバは魚の名前なんだ。僕が一番好きな魚のね。ところで」
ライナーは少しだけ眉根を寄せて、彼女の顔に自分の顔を近づける。
「その傷」
「えっ」ライナーは、彼女の顎に指をのばす。「痛そうだね」
「ああ、ちょっとね」
サバは、ライナーの指を顎の下に感じる。乾いた、温かい、彼の指を。触れているのによくよく気をつけていないと分らないくらいの、やさしさを。
「学校でちょっとひっかけちゃった、ドジだから」
「あごを?」
ライナーが心底驚いたように目を見開いた。