雨の中、パンを齧りながら歩く
小雨とは言え、傘がなければ確実に濡れるだろう。しかも冷たい雨。身も心も凍えるにちがいない。
そんな中、石畳の広場を突っ切るように大股で、彼は歩いていた。
何かがサンドされたパンをかじりながら。
かじる、というより大口で喰らいついて、噛みちぎっている。サニーレタスらしい淡い緑のフリルが口の傍でいっしゅんひらめく。歯が良いのか、バゲットを短くカットしたようなパンが見た目より柔らかいのか、噛み切る動作に何ら無理をしている様子がない。ごく自然に、ひとくち頬張って、そのまま咀嚼して、呑み込んでいるようだ。
晴れた日ならば特に目立ちそうもない、慣れた動作なのにどうして奇異に思えたのは、やはり、雨のせいだろう。向いの石造りの建物の輪郭がかすんでいるようなこんな天気の屋外で、彼のように傘もささず、防水コートもまとわぬ状態で平然とパンをかじりながら歩いているのは、いくら傘をさす習慣があまりない国とは言え、つい二度見したくなるのも不思議ではない。
パンをかじって歩く若い男は、大股のまま勢いを落とさず、サバの方に向って、まるで引き寄せられるかのようにやって来た。しかし視線はこちらに合っていない。彼はどこも見ている様子もなく、ただ、障害になりそうなものだけを避け、これから行く先のことと、口の中に広がるやや湿ったパンの風味だけに注意を集中させているかのようだった。
三メートルも離れていないような所、多分一番近づいたあたりだろうか、ふと、視線が交差し、彼はパンを口から離すとサバの顔を見おろした。淡いオリーブ色の、どちらかと言えば優しげな目だった。口の中からちょうど食べ物が消えたのか、もぐもぐと噛んでいる様子もない。彼女の物問いたげな目に口角をわずかに上げ、「何か?」と言った表情を作ってみせた。
サバは口を開く。そんなことは今までほとんどなかったのに、なぜか、彼のどこか親しくも寂しげにもみえる表情が目に入った時、何か話しかけなければ、と勝手に心が動いてしまったのだった。
「サンジェリというお店、どこにあるか知ってますか」
「はて」
見た目はかなり若そうに見える。二十五まではいっていないようだ。が、口調はゆったりとして、どことなく年寄りじみていた。
くせになっているようで、無意識のように空いた方の親指と人差し指とで軽く口をぬぐい、彼はわずかに斜め上の空を見上げる。
「それは何のお店なのかな」
「カフェです、広場の近くの」
「広場、というと革命広場?」
「え? 革命、広場ですか? そういう名前の広場が?」
「君は外国人? 観光客かな?」
嫌味で聞いたのかと思ったが、相手の目はあくまでも労わるような優しい光をたたえていた。
「いえ、でもつい最近引っ越してきたので」
「学生?」
「はい」こちらが訊いていたのに、いつの間にやら質問攻めに遭っている。
「というと、そこの美術アカデミー?」
「いえ……」僅かにイラつきが出てしまったのか、サバは早口になる。
「来月から国立中央大学に」
ほお、と彼はわずかに目を見張った。少しは見直したのだろうか?
「失礼した、アカデミーに入るくらいの年齢かと思ったので」
「はあ」
単純に、もっと子どもに見えていたらしい。
実際のところ、大学に入る十八歳にまだ達していない、十七の誕生日もまだだった。飛び級できたからという理由もあったが、表向きは大学生としてこの街に住むことになっていた。もちろん、十五歳から入れる美術アカデミーならばあまり目立たず潜り込めただろうが、サバにとって芸術活動というのは対極に近いくらい、縁がないものだった。
それでも、そこまで彼に告げる必要もなく、彼女はあいまいに笑ってみせた。
特に年齢にこだわることもなく、彼が宙を眺めて眉をかすかに寄せる。
「サンジェリという名前には心当たりがないが」
「そうですか、」サバは軽く肩をすくめる。「他で聞いてみます」
「誰かとランチの約束をしているの?」
「えっ?」まだ質問があるのだろうか。何と答えていいのか彼女はいっしゅん躊躇した。
「いえ……大家さんから、そこのパンがおいしいと聞いたので」
サンジェリという店でパンを扱っているのかすら知らなかったが、とりあえず彼女はそう答え、
「では、」
きびすを返そうとした時、彼がこう呼びかけた。
「だったら、お勧めのパン屋を教えてやるよ、僕も今、ひとつ買って来たんだ」
すでにひとつ、という程は残っていない切れ端を彼は軽く持ち上げて見せた。切れ端は傍から見ても雨のせいでぐったりとしていた。お勧めというには、少し湿り過ぎているようだ。
「腹が減ってたんで、帰りつくまでに終わりそうだけどね」
「戻らせると悪いし」
「いいよ、もう一つ買って帰るから。でも君、急いでいるの?」
「ええまあ」
「大丈夫、ここの近くだし、この辺りの店にしては対応が早いからすぐ買えるよ」
案外しつこい男のようだ。
しかしなぜなのか、表情からはあまり悪気を感じない。
日頃は他人に対してあまり心を開かない自分が、なぜ無理に振り切らずにここまで会話しているのかも、サバは自分自身にもよく分かっていなかった。
じゃあ行こうか、と言いながらも彼はまず片手でサバを押しとどめ、手に持っていたパンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。
何度も噛まなかっただろう、また親指と人差し指で口をぬぐい、両手をぱんぱんと払ってから、さあ、と彼女を促す。
大股で通りを横切る彼に引かれるように、彼女は向きを変え、後を追った。
彼はライナーと名乗ったが、サバに名を訊ねることもなく、無事にパン屋の店先に彼女を導いてから、
「狭い町だからまた会えるかもね、それじゃ」
それだけ言うと軽く手を上げて、結局新しいパンは買わずに元来た道を去って行った。
下心があったわけではないらしい。サバは肩透かしを食らったような軽い虚脱感に陥り、街かどに消えてゆく彼の後姿を見送っていた。
本当ならばパンを買いたいわけではない、サンジェリという最近できたばかりの外資系カフェの隣の、名もない古本屋――そこが連絡所のひとつになっていると聞いていたため、仕事が入る前に場所を確かめたかっただけだ。
他所者に妙に親切な若者のおかげで、とんでもない寄り道をしてしまった。
サバは小さくため息をついたが、あわてて胃のあたりを押さえた。
また、かすかな音が鳴る。急に朝起きてから何も食べていなかったことに気づいた。
パン屋のドアの前で少し考えてから、重いドアを押しあけて中に入る。
店はあまり大きくなかったが、空気は温かくかぐわしかった。店主らしい白衣の男が、わずかに目を上げて口の動きだけでこんちは、と挨拶をした。
サバは、ライナーと名乗った彼が食べていたのと同じサンドイッチをひとつ買ってみた。迷いようがない、サンドはベーコンとレタスの挟まったそれ一種類しかなかったから。
私も雨の中で食べてみよう、サバは口の端だけで笑って、茶色い薄紙に包まれたパンを受け取り、外に出た。
雨の中でパンを食べているような人とまさかその後ずっと付き合うことになるとは、サバは全然想像もしなかった。