水族館での再会
国立自然史博物館は、国の大きさにふさわしく名前負けともいえる小じんまりとした施設だった。
いつものように偽の学生証を掲げると、受付の女性は証明書などロクに確認もせず、薄い笑いにも似た皺を片側の頬に貼り付け、わずかに首を傾けて先を示してみせた。
「あと四十分で閉館だから、急いでね」
そう声をかけられて、サバは役割に合わせ、あっ、ありがとうございます、と慌てたように声に出しておじぎをひとつ、肩かけのキャンバス地のバッグを担ぎ直して小走りに館内へと向った。
壁いっぱいに嵌めこみとなった水槽内には、大きなエイの他には目立つ魚はいない。青白い光を浴びて、初老の男の姿が水槽前の柵にもたれるように立っていた。
まだ本格的な寒さは訪れていないにも関わらず、丈の長いコート姿だった。お揃いにも見える暗いグレイのソフトを目深にかぶり、横顔は帽子から野放図に伸びた白髪に邪魔されて伺い知ることはできない。しかし、すぐに待ち合わせの人物だと知れた。
「教授」
サバが脇から声をかけ、真横に行った時に「遅れてすみません」そう言いかけた時、急に口をつぐみ、足を止めた。「え……」
「合言葉は?」白髪の男が水槽を見たまま聞いた。
穏やかな物言いだが、彼女の方は見ない。
「どうしてアンタが」
「悪いか?」
「今までどこに」
「とりあえず今はここにいる。チーフが急用でピンチヒッターを頼まれたんだ。それよか合言葉」
「……レポートの直しがあると聞きまして」
「三ページ目の冒頭から間違っている。詳しくはカフェで説明しよう。ここには」
かすかにあごを上げ、背後の壁をばくぜんと指す。
「うるさい見張りバアサンが多いからな」
壁の上方、暗がりになったあたりに旧式のカメラがいくつか取り付けられている。サバもあえて見上げることなどせず、かと言って彼の方をまっすぐ見つめ続けることもできずに水槽に目を移した。
さしわたし二メートルほどもありそうなエイが、白い腹をみせてゆうゆうと目の前を横切っていった。
「死んだと思ってた」
「案外平穏な暮らしをしていたよ、あの後ね」
「何て呼べばいい?」
「今は、イグルーと」彼女の方を向き直った時、角ばった眼鏡の奥で優しげな眼が明らかに笑みを浮かべていた。
「君も変わらないな。背が伸びてない」
「この歳になったらさすがにもう成長は止まってるよ」
「そうか。いくつになったんだっけ」
「二十ちょうど」
「そうか」
「アンタ、私の誕生パーティを二回もすっぽかしたんだ」
「そうか、悪かったよ。君のうわさはたまに耳にしていたから、元気だってのは知ってたけどね」
会いたかった、とサバは口の中でつぶやく。
「まあ、外で何か飲みながら話そう……魚を見ていたら腹も減ってきたし」
小柄なサバよりも、さらに四十センチは背が高いだろう。その彼が背を丸めるように、腰が痛いのか足が悪いのか、片杖をついてゆっくりと足を引きずるように館の出口に向って歩く、その後を彼女はあえて表情を作らず、彼のかかとに漠然と目をやってついて行った。つい足どりが軽くなってしまう。彼と並んで歩きたい衝動に突き動かされる。サバはしかし今までの経験から、仕事がらみで打合せをする相手とは分かりあえるということはないし、分かり合うことは危険以外の何ごとでもないと熟知しているだけに、今は様子をみるようにただ緩やかな足どりについて慎重に歩を進めていった。