(1)
朝特有の静謐な空気の中、エルディーを囲むように椅子を並べた面々を見渡してからアドニスはゆっくりと語り出した。
「俺達の住んでいた町も組織の実験場にされた事はもう話したよな?」
「うん」
「今までお前達は、俺とエルディーは実験を免れたから生き残ったんだと思っていたかもしれないが、俺達は二人とも組織の実験を受けている。さっきエルディーの血を被った奴を見ただろ? 俺達の血に触れるとああなってしまうんだ……。奴らに打たれた注射のせいで、俺達の血は毒を持つようになったらしい」
「毒……?」
「血に触れた部分からどんどん侵されてやがて腐り落ちる――。どういうわけか俺達は互いの血に触れても何ともないが、人間に限らず他の動物でも、血に触ってしまえばああなる。経験上、正常な皮膚より傷ついた皮膚からの方が毒の回りが早い事は分かった。でもこの毒が一体何なのかも、治療するにはどうしたらいいのかもまだ分からない」
「じゃあベヴェルに初めて会った時、血の事を聞いてたのは……」
「――あぁ。ベヴェル自身や他人にも害が及ぶ事を危惧していたからさ。杞憂に終わって本当に良かった……。出来ればお前には黙っていたかったんだがな」
アドニスもエルディーも、ベヴェルを見て口惜しそうな顔をした。
「お前の体が何ともないなら、わざわざ俺達の事は知らなくても、」
「何考えてんのよ、バカッ! そんな……そんな大事な事黙ってるなんて!」
ここが病室だと言うことも忘れ、ベヴェルは声を張り上げた。
わなわなと肩を震わせ、激しく動揺しているのか、今は達者な口が回っていない。
「……――お前は妹が死ぬ所を見ている。自分も同じようになりかけた恐怖は消えていないだろうし、いつか悪影響があるかもしれないと不安を抱えたまま暮らすのは俺達の望む所じゃない」
「そうじゃなくて! あたしより自分達の心配しなさいよッッ!」
「ベヴェル……」
「本当に血液だけで、他はどこも悪くないのね? 痛かったり苦しかったりしないのよね?」
「あぁ。痛くも苦しくもないさ。……だが」
僅かに逡巡して、アドニスは続けた。
「――毒以外にも不都合はある。……俺は人の姿に戻れなくなった」
「…………え?」
「変化できるのは鳥に限定されるが、俺もニコラシカのように身体変化の魔法が使えるんだ」
元は人だった。しかも魔術師であったと話すアドニスに、彼の過去をある程度予想していたラテまでもが言葉を失った。
皆一様に衝撃を受け、驚いた顔のまま固まる。
するとエルディーがへろりと笑って、
「俺はさ、ただの人間だから血が毒になっただけだったけど、こいつは組織から逃げるために魔法を使って、今の今までずうっとこの鳥のままなんだ。別に魔法が下手くそだった訳じゃないんだぜ? でも、実験を受けた後は、何度人に戻ろうとしても無理みたいだ」
ちょん、と慰めるようにエルディーが漆黒の羽根に触れると、思い切り振り払われた。
「ついでだから話すが、俺達の故郷は当時では珍しく魔術師を移民としてどんどん受け入れる政策を執っていて、財政や実績は上々だったものの、近隣の街からの風当たりはすごく強かったようだ。町の内部でも便利な魔術師の受け入れに賛成する者と、信用できない者との間で意見が分かれ、些細なトラブルから住民同士の暴動まで起きてしまった」
「俺達もまだガキだったから、詳しくは分かんねーんだけどさ、結構な騒ぎになってたのは覚えてるよ。外で遊ぶのも親から禁止されて、家に何日も籠もってたっけ。デモだ何だって町中物騒でさ。そんな時だったよ。混乱に乗じて組織がやって来たのは」
「――後はベヴェルのいた村と同じだ。ちなみに町が丸ごと焼け野原になったのは、全部魔術師のせいにされていて、組織が絡んだ事実など誰も信じやしなかった」
「んで、俺達は二人だけで組織を潰す事にしたわけ」
「そうだったんだね……。あれ? ベヴェル、」
「あっ、いいです。僕がいきます」
暗い目をしたまま、よたよたと病室を出て行ったベヴェルをニコラシカが追っていく。
「……やはり傷付けてしまったな」
重く息を吐くアドニスの顔には後悔の色が浮かぶ。
しかし、
「ベヴェルは……大丈夫だと思います」
シャンエリゼが呟くように言った。
「エクアレで一緒にいた時、ベヴェルは自分が役に立てない事にやきもきしていました。たぶん今も、エルディーが怪我をした事やニコルが誘拐された要因となった自分が許せず、自身がとてももどかしいのだと思います……。だけどアドニスもエルディーもベヴェルを信頼して、全てを話してくれました。庇護の対象から対等の立場になったというのは、ベヴェルにとって大きな一歩なんです。だからきっと、ベヴェルはその事に気付いて、ちゃんと帰ってきます」
「メージュ……。そうだね、今はそっと見守ってよう」
「んじゃ、エルディーも一応無事だったし、俺達も休もうぜ? ふぁあぁあ~……もうだめ。眠すぎ……限界……」
ぼふぅ、とボルガは椅子に座ったままエルディーのベッドへと倒れ込んだ。
「おい、無事だけど怪我人だぞ! もっと労れよ」
狭くなんだろうが、と突っ伏して動かなくなったボルガを足蹴にする。
「ワタシも眠いや……エルディー、ここら辺借りるね……」
「では私はこの辺を。おやすみなさい」
「お前らはホテルに戻ればいいだろ。……って、もう眠っちまったか……」
「そのようだな」
すぅすぅと小さな寝息を立てる仲間達を、アドニスとエルディーは暫くの間穏やかな表情で眺めていた……――
***
「ベヴェル、ねぇベヴェルってば。待ってよ」
診療所を出て、行き先もなく朝靄の町へとずんずん進んでいく背中に話しかける。
「アドニスさんの事、怒ってるの?」
息を切らせたニコラシカがベヴェルの手を掴むと、やっと彼女は歩みを止めた。
しかしニコラシカと顔を合わせようとはせず、
「……怒ってるわよ」
と、俯いたまま低く唸るように言った。
「エルディーもアドニスも、もっと自分を優先すべきだわ。ギルドのエージェントだって言わなかったら、治療拒否されてたかもしれないのに。……せめてあたしが刺された後でカバーに入ってくれれば良かったのよ。怪我をするなら、あたしで良かった」
「何言ってるんだ! そんなの良いわけないよ!」
さも当然のような言い草に、ニコラシカの方がムキになって叫んだ。
「戦力にならないあたしが今怪我したからって、どうってことないじゃない」
「そういう問題じゃないよ。エルディーさんは経験があるからあの程度で済んだんだ。急所に刺さっていたら君は――、いや同じように腕に刺さっていたとしても、怪我の程度が全然違ってたよ。……ねぇ、ショックだったのは分かるけど、やけっぱちにならないでよ」
「……あんな三下に殺られるようじゃ、いつか仇を打つ前にあたしは死ぬわ。あんたこそ、あたしに足元掬われちゃったくせに慰めるなんてどうかしてる」
「イジアール幹部だと漏らしたのは僕が迂闊だったんだ。僕が未熟だったからだよ。……だから君が自分の未熟さを理由に、今回の事を許されたくなかった気持ちも僕には分かる」
ニコラシカはベヴェルの手首から手を離した。
「本当はベヴェルだって気づいてるはずだ。責任の取り方はもっと他にあるって」
「………………」
「……僕達はみんなに比べて知恵も経験も足りない。それでも成し遂げたい事があって、絶対誰にも譲れない理由があって、みんなと一緒に旅をするって決めたんだよ。だからもっと強くなろうよ。一緒にさ」
振り向いたベヴェルの前に、ニコラシカは手を差し出す。
「僕は君と、仲間になりたい」
迷いの晴れた緑色の瞳がベヴェルを見つめる。
恥ずかしくって純粋な台詞。
だけどそれがニコラシカの率直な気持ちだ。
「……あたし、性格きついわよ」
やや当惑しながらも、改めてベヴェルは警告する。
「ふふっ、もう知ってるよ。でも僕に誤魔化されずにいてくれる人がいると、僕も大事な事を見失わずに済むからさ」
「あんた……すっごく面倒くさそうね……」
「人に言われたのは初めてだな。自分でもそう思うんだけど」
億劫そうにベヴェルが差し出された手を取ると、ニコラシカはとても嬉しそうにその手を握った。
「はぁ……露悪趣味とか……。あ、そういえばあんた、昼間何か言いかけてたわよね? あれはなんだったのよ?」
「あれは…………。――ごめん、みんなに聞いて欲しいから、また今度ちゃんと話すよ。もちろんベヴェルにも聞いてもらいたい」
「そっ、分かった。約束よ」
「うん」
***
――翌々日。
負傷したエルディーを除く全員で絵画の移送にあたる事になった。
昨晩の事を聞きつけた美術館スタッフに総出で出迎えられ、こじんまりとしていながらも優麗な館内の一角に通されると、そこには空の額縁が掲げられている。
『寄贈:チュスロ美術館』という寂しさを誘う題字の上。
漸くそこに絵がはめ込まれた。
すると無事に目的地に着けた犬の喜び
が弾け、額縁から楽譜となって溢れ出す。
楽譜はしばしその場を飛び回ってから、ありがとうと感謝するようにラテの《総譜》へと吸い込まれた。
《総譜》を起動すると、次の目的地――シュマロマがヒカッ、ヒカッと手招きしていた。




