(3)
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まるでこの世に未練を残したが如く、必死に生に縋る枯れ蔦が絡みついたアーチを潜ると、うぁああと泣き叫ぶような声が聞こえた。
「……っと、うわあ!」
大急ぎで駆けてきたボルガは、暗闇から飛び出してきた男とと出会い頭に衝突した。
「たたっ、たたた助けて!死神だ……っ!し、し死神に殺られちまうっあぁああぁあ!」
ぶつかった衝撃で一度はひっくり返るも、一目で異常だと分かる程ガタガタと震えた男は、“死神”という単語をしきりに繰り返してボルガの足に縋り付く。
ぎょろりとした目は眼窩から飛び出さんばかりに見開かれ、男が体感した恐怖の丈を物語っていた。
「離せ……って!つか、もう逃がさねぇからな!ギルドまで一緒に来てもらうぞ」
「あぁ、……あぁ行く行とも!ギルドでも豚箱でも!あの世に連れてかれるよりはよっぽどマシだ!早く連れてってくれよぉ~!」
「だからひっつくなよ!」
顔中ぐしゃぐしゃにして泣きわめく男を、ボルガは追い払おうと頑張るが、男は一本の蜘蛛の糸を掴むようにボルガのマフラーをがっちり握り締めて離そうとしない。
「はーなーせーーーっ!」
「いやだいやだいやだっっ!」
「……時間かかりそうだね……。ワタシ先に向こう見てくるよ」
「えっ!?ちょっと待って!おいてくなよー!」
空がまたごろごろと言い出し、雲行きが怪しくなってきた。
ラテはもつれ合う二人を追い越して、一人で奥へと脚を進めた。
雨の染みたような、悪を吸ったような黒い土がずっと奥の方まで続いている。
「あ……」
道理で墓泥棒が慌てて逃げてきた訳だ。
そこには明らかに異常な光景が広がっていた。
墓地を飾るかのように散らばった、白い骨。何故か鋭い刃で両断されている無数の、そして大量の骨。
人の骨格を残したものから、犬の餌に出来る程度にまでばらされたものから、様々な骨がそこらに散乱している。――そこは、さながら処刑場のようであった。
「おい、一人で行くなよ。一緒にきたんだからさ~……。って、なんだよこの骨!?」
「さぁ……その人の元同業者じゃない?」
墓泥棒達の残滓を軽蔑するように避けて進むラテの頭上では、暗い空が唸る。ゴロゴロ。ゴロゴロ。
ピカッとフラッシュが焚かれたのはその直後だった。
「!」
雷鳴の彼方。ラテの目が闇の中にあった何かを捉えた。
ロスト・イパリーベの亡霊。――死鏡。
その一瞬。薄紫の長髪から覗く目がギロリとこちらを睨んだ。
大鎌を持つ手は死人のように白く、顔の右半分を隠した長い髪。
夜を脅す者への怒りが雷となって降り注いだように、轟音が響く。
声も出せぬ程硬直した墓泥棒はうっすらと闇の深くなった場所を見つめ、ボルガは彼にしか聞こえぬ小さな衣擦れの音を頼りに剣を構えた。
ゴロゴロ。ゴロゴロ。不安を煽った空に再び稲光が走った。
「……みつけた」
ラテの口元はゆっくりと三日月を描く。
そろそろと、まさに亡霊らしい気味の悪い足取りで死神のような黒衣の人物は此方に近付いて来た。
亡霊が光の宿らない片目を此方に向ける。そして血の巡らぬ紫色の唇で言った。
「王家の宝を求めし盗人よ……。王の命により我、裁きを下さん」
纏う空気すら重たそうに。絶望に沈んだ低い声は害意を告げた。
憂鬱で酷く無気力で明らかな攻撃の意思を持った言葉からは義務とでも言うべき印象を受ける。
吹きつける寒さに心を閉ざしてしまったような冷たい表情で確かに「王の命」と言った亡霊。
噂では“死神”は王族の怨霊という事だったが……?
「ちょっと待って。泥棒はこの人だけでワタシとボルガは違っ――」
「問答……無用……」
疑問に対する答えを見つける間も無かった。死鏡が一振りした大鎌から放たれた暗紫色の斬撃が襲い掛かる。
ひゅん、とラテが交わした流線型の波動は後方に流れ、地面にズザザザと直線が引かれた。
滑らかに削り取られた傷痕を目の当たりにした墓泥棒はボルガに首根っこを掴まれた状態で気絶している。ボルガが避けなければ確実に真っ二つなっていた。やがて墓の肥やしになっている同業者と同じ末路を辿っていた事だろう。
「……いいよ。そっちがその気なら、ワタシは勝つから」
二撃目を放とうとした死鏡に相対すラテは今の一撃で迷いを捨て、純白の槍を握る。
彼女の指が触れるまでチョーカーの形を成していたそれは、殺傷能力のある武器だという事実を忘れさせる程闇の中で神々しく煌めいた。
悠久の彼方より現代まで残された魔道具。謎解き古代文明の遺品である魔道具はラテの想いに呼応して、ダイヤモンドの如き強度を誇る槍となり、死鏡が作る斬撃を次々と弾き返した。
シュン、シュン。
右からも左からも変化球のように襲い掛かる波動を次々に払いのける。
よもや死神に命を刈られようという場面で地に垂直を保てる人間はそうはいない。足が竦むか腰を抜かすかするのが普通で、切り刻まれた骨の主や気絶したままボルガに担がれている墓泥棒のように、常識を逸脱した力を前にすれば呼吸すら止まってしまう。
だがラテに臆した様子はなく豪雨のように降り注ぐ斬撃全てを受け流した。
武器を交える事にも殺意を向けられる事にも慣れた彼女は、たとえそれが亡霊であろうと死神であろうと怯みはしない。
戦闘における勝利――それが生きる上での、彼女の義務だから。
「……クッ」
予想以上のラテの抵抗に、憂いを帯びた死鏡の顔が焦燥で歪む。ここに散らばった数多の骨は全員が全員ともただの一振りで片を付けられたのだろう。“魔法”の前では、小悪党風情ではそんなものだ。
「わわっ!……っぶね~~」
飛び交う流れ弾がボルガが荷物のように担いだ墓泥棒の頭上を掠めていった。片手で担いでいたのを慌てて持ち替えきちんと背負う格好にしたが、波動が凪いだ頭髪は無残にも消し飛ぶ。
荒れ狂う凶器の嵐の中、ちらと男に同情を寄せたものの、細かい事に構っていられる状況ではなかった。
無数に放たれた波動は地面を抉る程の威力。
だがラテは果敢にもそれに自ら向かっていき、ステップを踏むように隙間を潜り抜ける。闇に映えるクリーム色の長い髪がふわり靡いた。
死鏡に見えていたのはそこまで。
瞬きを一つする間にラテの姿は視界から消失した。遠く一等星のように輝いていた姿がどこにもない。
標的を見失った大鎌の動きが止まった。その時。
「勝負あったね、死鏡」
一閃。
瞠目した死鏡の喉元に純白の刃が突きつけられる。
まるで瞬間移動だ。
死鏡が目を閉じ、再び開くまでの極短い間に、白刃を構えてにこやかに笑うラテが出現した。
濃青と水色のオッドアイに見据えられながら、今にも自分の肌をぷつりと刺してしまいそうな切っ先を前に、死鏡はラテに促されるまま大鎌を手放すしかなかった。
「ワタシ達を元の世界に帰して。それから本当に盗るつもりはないんだけど、王家の宝も見せてくれない?」
「……王が……許可を下されば……」
長いこと言葉を発していなかったような弱々しい声は、投げやりな口調とはひどく不釣り合いだった。
「……奴隷の私には王が望まぬ事をする事が出来ません。先祖が交わした契約で一族は皆王に尽くすのです。たとえこの身が骨になろうとも……」
隙を伺うでもなく完全に観念した様子で、死鏡はラテの体を通り越し分厚い黒雲の塊を見上げる。彼女の光のない紫色の目が語るのは絶望のみだ。
「なぁなぁなぁ。わっけ分かんねーんだけど、とりあえずこいつは悪もんじゃねぇって事なのか?」
ボルガは起きる気配の無い墓泥棒を抱え直しながら、物珍しそうに死鏡を眺め見る。
ボルガに問われて小首を傾げたラテを一瞥すると、死鏡はふんっと自嘲気味に笑う。
「……どうでしょうか。ここは水害の多い地域で、元は王族の分家だった我が先祖は、治水の為に堤防を築こうとしたらしいのです。――けれどその為には建設の都合上、城も潰してしまわねばならなかった。」
まるで死神に魂を奪われたように、死鏡は暗い表情で訥々と語り始めた。
「先祖は民衆と共に城の移転を請願しましたが、それを王は聞き入れてくださらまかった。さらには分家でありながら城を潰そうとした先祖に激怒し、先祖に与えられていた称号も土地も富も何もかもを全て剥奪し、奴隷としました。そして十年前。この地を襲った洪水で両親を失った私は、魔道具による契約により、両親に代わって王家の宝をお守りしています」
あの造りかけの堤防がラテの頭に思い浮かぶ。もしも堤防が完成していたなら今頃ロスト・イパリーベは人で溢れていただろうか。それとも他を顧みない王が納めていたのでは、遅かれ早かれ滅んでしまっただろうか。腐敗した水の中でもがいているような、こんな辛そうな顔を死鏡はしないで済んだだろうか……
「『王の命により』なんて言うから、なんかおかしいと思ったけど……。噂の死鏡は王族の霊じゃなかったんだね」
「ご覧の通りです……。あながち間違ってはいません」
艶のない薄紫の髪が影を作った顔は衰弱しきっていて悪態をつく姿はかえって痛々しく見えた。
一つ言葉を吐く度に命を消耗しているかのような死鏡の顔色は、ますます悪くなっている。
びゅうと強く風が吹く度、古めかしい漆黒のワンピースに包まれた体が微かに震えた。
「いくつか聞いてもいい?」
槍を持つ手を下ろしたラテがそう言うと、死鏡は「はい」と短く答え、打ち損じた首を何の想いもなく眺めた。
「アナタは魔術師? ここに通じてた鏡はアナタが“自分の力”で操ってたもの? それとも魔道具を使ったの?」
「私は魔術師ですが、あの鏡は魔道具です。実世界で鏡が存在する場所から一定範囲までの虚像をその中に作り出す事ができます」
その範囲は城周辺に相当するらしいが、両親から聞いただけで自ら確かめた訳ではない。と死鏡は言葉を添えた。
「アナタにかけられてる“呪い”は魔道具のせいなんだよね? 王様はもう亡くなってるんでしょう?」
では一体、術者は誰なのだ。
幽霊が魔道具を使うなど利いた事がない。
「王を活かし続けているのも、私をここに閉じ込めているのも私自身です。血筋を縛る魔道具で、生まれた時から体の自由なんか利きません」
問いの意味を察し、死鏡はこう答えた。
十年もの間、欲望に押し流された街を彷徨って、途方もない未来を嘆くだけの日々を過ごしてきたのだろう。
契約に縛られ永遠に哀れな亡霊として死都に住まう孤独。
自分自身で生んだ呪いにじわじわと侵されていく死鏡を、ラテは放っておけなかった。
「アナタの呪いを解いてあげる」
「…………えっ……?」
話し終えてへたりと座り込んでしまった死鏡が驚きの声を漏らす。
「……な……にを言って、」
「ワタシを信じて。きっと助けるから」
痛みを孕んだ悔やみきれない眼差しが強い誓いを結ぶ。
ザーザーと降りだした雨を弾くラテの笑顔には、強い決意が現われていた。
怪訝そうな表情を浮かべる彼女に、ラテはもう一度「信じて」と手を差し伸べると、死鏡はおずおずと手を伸ばし、ラテの手を握った。
刹那。
ウ゛ゥ……ウ゛ウゥ……
死鏡の明るい感情に反応したが如く、唸るような雑音がどこからともなく流れてきた。
ハッとして耳を澄ませば、それは低く怨念を湛えた声。
「……っひ!……あ……っ……あ……あぁあああ」
「なっ……おい、大丈夫か!?」
突然自分の体を抱き締めるような格好でガタガタと痙攣し出した死鏡は、まるで不安定な声に共鳴するように奇声を上げる。
「あぁああぁあああぁあああああ゛!」
伸びた爪が肌に食い込んでも死鏡は震えていて、精神を病んだように異常を叫ぶ。
「しっかりしろって!」
ボルガが大きく肩を揺さぶり、爪がすっかり肌に隠れてしまう程強く突き立てられた手をどうにかしようとするが、固く握られた腕は解けなかった。
「大丈夫……。この子はきっと声に反応してるだけ。それよりボルガ、この声どこから聞こえてくるの?」
「え? あ、えっと」
天から降ってくる雷鳴が邪魔で、声が発せられた場所が特定できない。
「ボルガ?」
「……ならン……ナらんゾ……」
極々小さな聞き取りづらい声。だがボルガの耳が今度はハッキリと音を捉えた。
「下だ! 地面っ!」
「儂の宝にハ何人たリとモ触れサせんゾォオオオ!」
ボルガが叫んだ直後、地面が噴火したように盛り上がり、白くて巨大な何かが飛び出してきた。湿った土は泥の塊になって降り注ぎ、泥を被った皆の上からはさらに暴かれた墓の遺骨がごっそり落ちる。
「なっ、なんだ!? 骸骨の親玉か!?」
周囲が腐った土の匂いに包まれ異常な臭気が満ちる中、土を降らせた空を見上げると直径十メートルはあろうかという髑髏を中心に幾多の骨が空中を舞っていた。よく見ればその髑髏を構成するのも骨で、ゴォオオオという音を立てて骨が動く度その形相は醜い感情を次々に浮かび上がらせる。
骨を軋ませてがなる髑髏が、死鏡を庇うように全身に泥を浴びたラテを、目玉の入っていない目で見降ろした。