(3)
美術館との交渉は半時間ほどで終了した。
チュスロの町とギルドの契約は未成立のままなのだが(町の合意は得ているが、書類上、町議会の承認を待たなければならないため後数日かかるとの事だ)、今回はMr.アンナローロが議会に取り計らってくれるらしい。お陰でどうにか美術館からの依頼という形で絵を届ける任務を受けられる事になったのだ。
美術館側は、時間通り無事に運んでくれさえすれば全てはこちらの自由に任せるとの事で、エージェントでないニコラシカ達の同行にも許可が下りた。
それには担当エージェントのボルガがライセンス持ちという事も当然関連しているだろうが、Mr.アンナローロが保証を手厚くしてくれた事は大きい。
世話になりっぱなしで頭が上がらない二人は感謝に讃辞に終始ペコペコしていたが、当のMr.アンナローロはというと
「イジアールにパイプ作っとくと後々役に立つかもしんないじゃ~ん」
と爽やかにおどけては緑風のように去っていった。
何はともあれ美術館から色好い返事を引き出すのに成功したニコラシカは、夕食の席で持ち帰った予定を伝え、その後は皆と一緒に男子部屋へと向かった。
シャワーの順番がアドニスとエルディーが先で、次にニコラシカ、ボルガに決まると、荷物の整理もそこそこにニコラシカはふかふかのベッドへ転がる。今は腹も満たされ、非常に良い気分だった。
(ルキ……僕、君に近付いていってるよ)
夢心地で枕に顔を埋めると、そのまま意識が吸い込まれてしまいそうだった。
剣の手入れが終わったらしいボルガから「女部屋へ行ってくる」と聞いたのを最後に、いよいよ瞼は重たくなる。
「……っふわぁ~…………」
夜風がカーテンを揺らす度、鏡台に据えられたサシェから零れる果実のような香りもニコラシカの眠気を誘う。
数分と経たぬうちに、ニコラシカは眠りの底へと落ちていった。
布団に潜ってどの位した頃だろう。
「――ンッ……!? ンッ、ンン!」
唐突な息苦しさに襲われ、ニコラシカは目を覚ました。
鼻と口が布のような物で塞がれている。――声が、出せない。
ハッとした時には身動きが取れなかった。寝起きで力の入らない手足はいとも容易く拘束され、枕に頭を押し付けられる。
限定された視界の端でギラリと刃物が光るのが見えた。
「……ッ…ンンンッ! ……ンッ、」
ダメだ――……。
どんどん力が抜けてくる。それにこの強烈な眠気。
意識がぼんやりして、現実感が遠ざかっていく。
睡魔には抗えない。
やがてニコラシカは深い眠りの淵へと落ちていった――――
***
「っあ~~! いい湯だった」
「長湯に付き合わされる身にもなれ。すまんなニコラシカ、シャワー交代だ。……ニコラシカ?」
「あれ? ニコルのやつどこいったんだ?つかボルガもいない……?」
湯上がりの蒸気を放つエルディーは、ワシャワシャと長髪を拭きながら部屋を見回した。
ベッドにはついさっきまで人のいた痕跡があるのに、ボルガとニコラシカの姿がない。ついでに二人の荷物も残っている。
「お前がシャワー室を占領するから、二人ともトイレを借りにでも行ったんじゃないのか?」
「え~っ」
フェイスタオルにくるまったアドニスが非難の目を向けると、ちょうどそのタイミングでドアがノックされた。
「俺だ―。鍵開けてくれ」
バスローブ姿のままエルディーが出ると、ドアの前にいたのはボルガだった。
「ボルガ、ニコラシカを知らないか?」
「えっ、いねぇの? ん~……俺が部屋出るまでは居たんだけどなぁ? トイレじゃね?」
「……………」
「なっ、なんだよ! ちょっとシャワーが長いくらいで。髪長いんだからしょうがないだろ!」
――と、冗長な事を言っていられたのも初めのうちだけだった。
ニコラシカは待てども待てども帰ってこなかった。
次第に心配になり、女部屋にも声を掛けて宿中を捜索したが見つからず、フロント係に尋ねても宿を出るニコラシカは見ていないという。
つまり、彼は忽然と消えてしまったのだ。
治安が不安な見知らぬ土地で、しかも夜間に外出するなんて不用心な真似、ニコラシカがするとは考えにくい。
「黙っていなくなるなんて……やっぱり変だよね。ニコルなら置き手紙くらい書いてきそうなもんだけど?」
「武器を置いていってるのも引っ掛かります」
ニコラシカの双剣は、他の荷物同様ベッドサイドに放置されていた。
「ベヴェルお前さ、もしかして昼間ニコルにまたキツい事言わなかったか?」
「言ってない! あたし、ニコルの事誉めたわよ」
「ならば、何か変わった出来事はなかったか?」
「変わった事? 特には……あっ、そういえば――――」
***
「……ん……っ…………」
ぱち、ぱち、と瞬く。
(此処……どこだろう?)
横になった状態で見えるのはコンクリートの壁と床。ガラステーブルの上に投げ出されている破廉恥な雑誌。飲みかけのウイスキーボトル。
目に映る景色は、泊まっていた部屋……ではなないようだった。
物置……?
いや、違うか。階段があるし、出入り口は二階だし。
(それにしても……)
どうして自分は縛られているんだろう。ついでに布を咬まされているため、助けを呼ぶことさえ出来ない。
どうも記憶が曖昧だった。
えぇと……美術館から宿に帰って、夕食を食べて、それから部屋に行って……それで……それで、どうしたんだっけ?
「よぉ、支部長さん。お目覚めかい?」
記憶に掛かった靄を懸命に晴らそうとしていると、二階のギャラリーから男に声を掛けられる。
(誰……?)
色黒で顎髭が整った壮年の男は、カツカツと鉄板の階段を降りてニコラシカの側へとやって来た。
「ガンビーノファミリーへようこそ。支部長さん」
“支部長さん”。
不貞不貞しい表情で髭を撫でつけながら、彼はニコラシカを見下ろして繰り返し言った。
(ガンビーノファミリー……?支部長って……僕の事知ってる?)
男はさらにニコラシカに近寄ると、キツく縛られた彼の口布を解き始めた。
しかし自分の置かれた状況がよく分からないニコラシカは、口が自由になっても話す言葉を見つけられずにいた。
此処はどこで、この男は誰で、宿にいた自分は一体なぜこうしているのか。その疑問を、男から漂う葉巻と整髪料の匂いにめを潤ませながら考える。
「ギィアァアアアアアア!」
突如、意識を覚醒させるような絶叫が響いた。
「おい、っせぇぞ。もう少し静かにやれねぇのか」
男が二階に向かって怒鳴る。するとドアが開き、若い男がもう一人男に肩を貸して部屋に入ってきた。
「すんません、ボス。――ギャアギャア喚くな……ッ!」
ドスッ、ガダガダガダガダ!
若い男は担いでいた男を乱暴に床に落とすと、思いきり腹を蹴り飛ばした。
男は階段から落ちても転がり続け、ガッシャーンと壁際ドラム缶にぶつかって漸く止まる。
「っがはぁ……! う、っ……ぐ、は……」
頭からの流血の酷い。
着衣の乱れや苦しみ方からも、彼はたぶん相当な暴行を受けているに違いない。
頭と腹を抑えて縮こまる彼の血に染まった顔は――
「――――!」
その男の顔を思い出した途端、急速にニコラシカの頭が冴えてきた。
そして一気に蘇るここまでの記憶――彼は露天商に絡んでいたあの時の男だ!
「どうしました支部長さん? 顔が引きつってますよ」
感情的になっていた……。
うっかりイジアールの人間だと言ってしまったから……。
これは紛れもなく軽はずみな発言が招いた結果で、冷静な判断を欠いた自分の過ちだ――。
怒りに任せてマフィアの組員なんかに喧嘩を売らなければ良かった……。
やっぱり理想に群がる連中なんてろくなもんじゃない――そこで微睡む自分にも反吐が出る。
「……なぜ僕を誘拐したんですか。彼と口論になったからですか?」
「フハハハハ! とんでもない。資金集めも出来ないクズの面倒なんぞ見る必要ありませんよ。あんたにわざわざ来てもらったのは取引のためだ」
「取引? 取引相手を選ばないイジアールでも、社員の誘拐なんてすればただではすみませんよ。何らかの報復は覚悟してください」
「おっと、我々は平和的に解決しましょう?って提案してるんですがねぇ」
(どの口が言ってるんだ……)
男はまるで悪びれもせず、さっきまで葉巻を持っていたのをグラスに持ち替え、一口にウイスキーを煽る。
その不遜な態度にイラつきながらも、ニコラシカは落ち着き払って答えた。
「……とりあえずお話は聞きましょう」
「流石はイジアール。賢明なご断だ」
「断っておきますが、イジアールの信用に係わる事なら承伏しかねます」
「それはご心配なく。なに、単純な事ですよ。イジアールが我々に大量の武器を卸したとレオーネファミリーに証言してくれればいい」
「……どういう事ですか?」
「今我々はレオーネファミリーと戦っているが、これがなかなか決着がつかない。おまけに最近じゃうちの町にもギルドが建つって話だ。あんたにはレオーネの気力を削ぎ落として、ギルドが余計な口を挟まないようにして貰いたいのさ。支部長のあんたにゃ簡単な事でしょう?」
――早い話、自分はマフィアの小競り合いにまんまと利用されてしまうという訳だ。
自らの不用意な言動が元とは言え、この男の傍若無人っぷりには腹が立って仕方がない。
それにしてもギルドの介入か……。
Mr.アンナローロは話の分かる人だから、頼めばきっと此方の意を汲んでくれるだろう。
しかし彼とてこの地の地固めをしたい筈……。むしろその為に赴いたのだ。
イジアール支部長としても、彼から恩義を受けたニコラシカ個人としても、彼の足を引っ張るような真似はしたくない。
さて、どうしたものか――
「我々も本気でイジアールとやり合おうだなんて思ってやいません。ただほんのちょ~っとお力を貸して頂けたら十分なんですよ」
沈思黙考するニコラシカにも男は強要の手を緩めなかった。
「では、もし断るなら?」
が、ニコラシカも問い返す。
ギルドにまで迷惑が及べば、自分の責任問題だけでは済まされなくなる。
しかし首を縦に振らないニコラシカの強気の態度にも、男は余裕の笑みを崩さなかった。
「断るなら~……そうですねぇ……――」
「それ……っ!?」
カシャ、と男の背広の内ポケットから銀色のタグが出てくるや否や、ニコラシカの顔がみるみる焦りの色に変わる。
「返して下さい! それは僕のです!」
「おやおや。そんなに貴重な物なんですか?しかし純銀のネックレスとは、支部長さんは良い物をお持ちだ」
「人の話を聞いていますか!? 僕は返してと言ったんです!」
ネックレスチェーンを指に引っ掛け、ぶらぶらと自分に見せびらかすかのような男を、ニコラシカは自制出来ずに怒鳴りつけた。
「取引に応じてくれるならお返ししましょう。もちろん支部長さん、あんたの身も解放しよう。どうです?」
「誘拐だけでなく、恐喝、窃盗もですか!」
「フハハハ! 何とでも言ってくれて構いませんよ。ただ我々が聞きたいのは取引の返事だけだ」
勝ち誇ったような男の表情――。
彼の姿は地下に巣喰うドブネズミの本性そのものと言っていい程醜悪だ。
それでも、その憎たらしい生き物の前に屈するしかなかった。
「……分かりました。取引しましょう」
拒否を示していたニコラシカは、遂に折れた。
「フハハ。有難う御座いますよ。――おいテメェら、全員今すぐ集合しろ!」
男が声を張り上げると、男達が雪崩のように押し寄せた。
次から次へ部屋から溢れんばかりの人数が集まって、男はその集結した部下達へ言い放つ。
「イジアールが俺達についた! 遠慮はいらねぇ! ビビってるレオーネの糞共をぶっ潰しに行くぞオォッッ!」
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
その地鳴りのような雄叫びを皮切りに、男達は続々と決戦に備えて用意を開始した。
忙しく動き回る彼らをニコラシカはソファーから監視しつつ、小さく胸の中で囁いた。
(ピノ……。ねぇ、聞こえる?)
そっちがその気なら、こっちにだって覚悟がある。
(力を貸して欲しいんだ。総譜だけは……ルキとの約束だけは絶対に取り返す)
(――……我、聞き届けたり)
***
「――話は分かった。俺もベヴェルの言うようにニコラシカはマフィアに連れ去られた可能性が高いと思う」
「どうする?俺らマフィアの事なんてさっぱり分かんねぇし、警察とか呼んじゃう?それともギルドにフライング出動してもらうとか?」
「それは……ニコルを攫ったのがレオーネなのかガンビーノなのかにもよるよね?どっちのマフィアに攫われたかで、協力を頼む所も変わるんじゃないかな。合併前だから、警察なんかもそれぞれの町で別だろうし」
「連れ去ったマフィアの特定だけでも時間が掛かってしまいますね……。とりあえず全ての機関に声を掛けてみるというのは大雑把でしょうか……?」
「そうだな……――それも一つの選択肢だが、しかしそれだと……」
ニコラシカの失踪は、十中八九、彼をイジアール幹部と知った上でのマフィアによる犯行だ。
身の代金目的か、それとも単に昼間の報復行為かは分からないが、決して安い人質ではないから、向こうも慎重にならざるを得ない。すぐに危害が及ぶ可能性が低いのは幸いだった。
「ごめんなさい。あたしが注意してたらこんな事には………」
ベヴェルは取り乱してこそいないものの、激しく自省し唇を噛み締めている。
「よくよく思い出したらなんかあの時なんかニコル動揺してたみたいだし、それもあたしのせいかもしれない……。美術館に着いた頃には全然普通だったから気にしてなかったけど」
「あっ……! そうだよ、美術館! 明日どうすんだよ」
すっかり忘れてたという顔でエルディーが言った。
「ニコルは心配ですが……でも約束も反故には出来ませんし……あの、二手に分かれてみてはどうでしょう?」
「道理だな。ではニコルの件は俺とエルディーで担当しよう。お前達は美術館の方を頼む」
「ちょっと待った。それって、俺も? 俺も美術館なのか!?」
「そのつもりだったが?」
今まで議論を聞いているのみで口を挟む素振りすら見せなかったボルガが、急に慌てたように尋ねた。
「当然だろ。エージェントのお前なしでどうやってギルドの仕事するんだよ?」
「だってニコルが危ない時に仕事なんかしてらんねぇだろ!」
「まぁまぁ、そう我が侭言いなさんな。心配なのは分かるけどよ」
「少し頭を冷やせ。ニコラシカならきっと大丈夫だ。僅かだが猶予もある。だからニコラシカの事は俺達に任せて、お前はエージェントとしての務めを果たしてこい」
「大丈夫かなんて、そんなの分かんねぇだろ! 早くしないと! 早く助け出さないと、手遅れになるかもしれない!」
「ボルガ、落ち着こう。ね?」
「ラテ、止めるなよ。俺はニコルを助けに行く。早く、早く助け出さないと」
「落ち着くんだ。俺とエルディー二人だけでは心許ないというなら、ラテも連れていこう。人形使いが同行すればお前も早期解決を信用出来るだろう?」
「……ラテは、ダメだ」
「なんでさ~? 戦力としちゃあこれ以上ないってくらいだぜ?」
「なんで、って……それは…………」
言葉を詰まらせて助けを求めるようにラテの方を見るボルガに、皆の視線が集中する。
なんで?と。
皆が浮かべた疑問符を散らせずにボルガが困っていると、ラテが口を開いた。
「あっ、あのね。ワタシ基本的にパフェレイトの外での戦闘はNGなんだ。その……軍法規則で……。違反って程ではないんだけど……」
「ふぅん? そんじゃ仕方ないけど……でもだからってボルガの我が儘は聞けないぜ?」
「エルディー、お前分かってるか!? そんな程度の問題じゃない! 誘拐だぞ! ニコルにすぐ危害が及ぶとか及ばないとか、それじゃ済まなくなるかもしれないんだ!」
「分かってないのはお前だろ。せっかく楽譜が手に入るのに、もしドタキャンして二度とチャンスが与えられなかったらどうすんの? それじゃ俺やお前の目的も果たせないし、ニコルだって友達の手掛かりを失う事になるんだぞ」
「……ッ。だけど……!」
ジリリリリリリン! ジリリリリリリリン!
ボルガの叫びを遮って、キャビネットの上で電話が跳ねた。
「…………おい」
「あいよ」
アドニスに目で促されたエルディーが受話器を取る。
「はい……はい。……どうもこんばんは……え!? マジっすか、どうしてそんな……えぇ、……はい了解です。直ちに向かいます。それじゃ」
「誰からだ?」
「Mr.アンナローロだよ。それより今からすぐ支度してくれ。ニコルの居場所が掴めた」
「本当か!? どこだ!」
「隣町との間にある原っぱだよ。詳しい話は移動しながら……って、おいボルガ! お前何しようとしてんだ!」
「ごめん、俺先に行ってる!」
「おい待てって……あ~ぁ、みんなで来てくれって言われてたのに」
赤いマフラーはもう宵闇の向こうだ。
勝手はよせと制止する前に、ボルガはさっさと窓から飛び降りて行ってしまった。
「気が急くのは分かるが、あぁもせっかちでは一人で行かせるのが不安だな」
「ボルガ……昼間ちょっと思うことがあったみたいで、今は暴走気味なんだと思う。ワタシ達も呼ばれてるなら早く追い掛けないと」




