(2)
昼下がりの大通りは買い物客でそこそこの賑わいを見せている。
行き交う人々に混じってニコラシカも歩いていると、ふとある建物の前を通り過ぎた時にふわっと芳ばしい香りが漂ってきた。満腹になるまでご馳走されたばかりなので食べる気にはならないが、そのどこか懐かしい匂いにはついうっとりとしてしまう。
小麦とバターのような甘い匂い――パンの焼けるいい匂いだった。
レンガで組まれた建物の戸には、煤の色をした金属の扉と、店そのものが石窯みたいな造りをしている。
カランカラン。
小気味良いカウベルの音がして、扉の奥から大きなバゲッドの飛び出した小麦色の紙袋を持った婦人が、小さな子供と手を繋いで出てきた。
擦れ違い様、「ぼくがパンもつ」「落としちゃだめよ?」という親子の会話が聞こえ、何だかほわほわした温かい気分にさせられた。
緩くカーブを描く石畳の道には建物と建物の間に点々と露天が並び、道行く人からは笑顔が多く見てとれる――Mr.アンナローロが言う通り、この辺りはまだ大丈夫なのかもしれない。 ニコラシカは長閑な周囲の景色を何となく眺めながら、自分と同じようにして歩くベヴェルの隣に並んだ。
寝食を共にするうちニコラシカはだんだんと皆に打ち解けてきたが、実はベヴェルとだけは今も距離を縮められずにいる。
馬が合わない――という事はたぶんないと思う。
比較的ベヴェルは、ニコラシカの好きな部類の人間だった。
折り合い悪くも一緒にいて思うが、ベヴェルは堅実で要領が良く、(自分には冷たいけど)人当たりもいい。それに思想が透徹している所も信頼出来る。
しかし。
社交術には自信があるニコラシカだったが、嫌われていると分かっている相手では気安く話し掛けるのは躊躇われる。――ビジネスとしてではなく、プライベートな関係であるなら尚更。
日常での手厳しい指摘の数々に萎縮し、抜け目なく世辞や虚礼を見抜く心眼に牽制され。なんだかんだと溝が埋まらぬまま此処まで来てしまったのだ。
だが今回、偶々組み分けが一緒になり、仲良くなるきっかけを窺っていたニコラシカに好機が訪れた。
蟠りを解消すべくニコラシカは話題を探している。と、以外にも先に沈黙を破ったのはベヴェルだった。
「あんた、スゴいわよね。ギルドのトップに顔覚えてもらえてるなんて」
「えっ……?う、うん、ネームバリュー……かな? ははは……」
「別に皮肉ってないわよ。本当にスゴいと思ったの」
さらりと。大した抑揚なく彼女は言った。
てっきり何か嫌みを言われるんじゃないかと内心構えていたニコラシカは肩透かしを食らう。
「あ、ありがと。……でも、僕はベヴェルの方がスゴいと思うよ。あんな短時間で魔道具使えるようになったんでしょ?」
「一応使えたには使えたのかしらねぇ……」
でも、本来の使い方じゃないし……。と、ベヴェルはどこか物思いするように答える。
「範囲を決めて、その中に含まれる物を反応させるのに必要な条件を作り出すのがあたしの魔道具だけど……でもあんなに大きな津波が来て、どうすればいいか分からなかったの。だからとりあえず、街中を囲んで何も“反応しない”ようにしただけ。それだって本当にちょっとの間だけだし……」
悔しいのか悲しいのか、ベヴェルの声は冷静だった。
「あんたなら風で吹き飛ばしたり、ミスティって子になって、あの深海人もやっつけられたでしょうけど。あたしは何も出来なかったわ……」
「咄嗟の判断でそんな選択が出来るんだから大したものだよ。君だって街を守るのに協力したんだから、もっと自慢したっていいくらいさ」
現場にいなかった自分には、ベヴェルが何をしたのか正確には分からない――だがラテやシャンエリゼが「良くやった」と言っていたからには、何も出来なかったなんて事はないと思う。
むしろ彼女が魔道具を発動させた状況を聞く限り、戦闘経験ゼロの少女が出した結果としてはファインプレーだ。
けれど当の本人は満足いかないようで、静かに睫毛を伏せている。
「……あんたは、あたしが勝手に張り合ってきて面倒くさいって思ってるかもしれないけど、あたしはあんたに追い付きたかったのよ。最初は普通にムカついてたし、まぁそれは今もなんだけど、あんたの能力については素直に認めるわ。あたしは自分で決めてアドニス達に付いて来たのに、自分だけ何も出来ないから、自分の意思を実行出来るあんたが羨ましかった。イジアールの支店長だし、世界で大活躍のあんたと、妹一人助けられなかったあたしじゃ全然違うのは分かってるけど」
弱音とも取れるその発言を受けて、ニコラシカはお座なりにされていた魔術師登録制度の件を思い出した。
管理局の公務代行と称して魔術師を追い回し、彼らの自由や名誉を縛り付けようとしていた事を。
ベヴェルのこれまでの経緯を知った今なら、あの時ベヴェルが激昂した理由もよく分かる。自分がどんなに酷い事に手を貸していたのかも、目を背けていたイジアールの陋劣な本性も――。
「イジアールは……そんなに素晴らしい組織じゃないよ」
「え?」
「初めて会った時、君が僕に言った事は何も間違ってない。何故ならイジアールは――」
「ヒッ……! や、やめて! 落ち着いてください」
「「?」」
ニコラシカが言いかけた時、突然、数軒先の建物の影から悲鳴が上がった。
「っせえ! さっさと金返せよオラ! テメェのせいで貴重な瞬間撮り逃したんだから、勿論倍は払うよなぁ? ぁあ?」
「ヒィイ! どうか、ご勘弁を……!」
胸元のはだけたシャツにジャケットを羽織った人相の悪い男が、露天商に掴み掛かっていた。
ピアスだらけの耳や胸元を飾るチェーン状の金のネックレスなど、見るからに堅気の人間ではなさそうだ。
「なぁにアレ。社長さんの言ってたマフィア……?」
ベヴェルは小声で言い、眉を顰めた。
胸倉を掴まれ慄然とする露天商を遠巻きに見守っていると、
「ベヴェル、此処で少し待ってて」
ニコラシカはつかつかと、揉み合っている男達の方へ向かって行った。
「ちょっとすみません。どうかされましたか?」
「ぁあ? なんだガキ」
露天商を突き飛ばし、男はニコラシカへ凄む。
弾き飛んだ露天商がぶつかったせいで、カウンターに置いてあった写真がバサバサと道に散らばった。
「ぼ、坊や……いいんだよ。大丈夫だから……」
子供を巻き込むまいと気丈に露天商は起き上がるが、その顔は恐怖で真っ青になっている。
構わずニコラシカは辛うじてカウンターの端に乗っているカメラを手に取った。
「このカメラ……イジアール製ですね」
「それが壊れてんだよ! だから返金しろっつってんだ。文句あっか!」
男はポラロイドカメラを指してさらに露天商を恫喝する。が、
パシャッ。
フラッシュの後、ウィンウィンとゆっくり写真がカメラの口から吐き出されてきた。
「ううん……どこもおかしな所はないようですが。正常に機能にしていますよ」
「っせぇな! 前は壊れてたんだよ! つ―かさっきから何なんだよテメェは! 大人の話に首突っ込むな!」
「これはこれは失礼致しました。私はこういう者です」
いそいそとニコラシカが名刺を差し出す。と、これまで怒り狂っていた男の表情がそれを見て一変した。
「イジアールの……支部長だと!?」
「こちらのご主人に代わりまして、イジアールが直接返金を承ります。それに就きましてはお客様のお名前とご住所が必要なのですが――?」
名前と住所――と聞いた途端、男の頬がピクリとつり上がった。
「もし宜しければお詫びの品も同封致します。新しいカメラですとか……――武器、ですとか?」
「……ッッ!」
たっぷりと威迫の込められた声に男が怯む。
「大量流通もはたまた流通規制も。弊社の商品においては支部長の判断で如何様にも出来ますが、どうなさいますか?」
「っざけんなクソガキ! 何もいらねぇよ……!」
言下に男はニコラシカへ背を向け逃げ出した。
「災難でしたね……。お怪我はありませんか?」
ホッとしたのか脱力しきってへなへなとその場に崩れ落ちてしまい、雲を霞と消えた男の行方を惚けたように見つめている露天商に、ニコラシカは手を差し伸べた。
「あ……ありがとうございます……お陰様で……」
「此方こそ弊社を贔屓にして頂き有難う御座います。今後も末永くお付き合い頂ければ幸いです」
ここでベヴェルもやって来て、「やるじゃない」と、辺りに散乱した写真を拾い集めるのに加わった。
「たまたまうちの商品だったからね」
「どうも、すみません」
と、平身低頭しつつ露天商。
「いえいえ。ところで、ご主人はご自分でも写真を撮られるんですか?」
「はい。これは皆私が撮影したもので御座います」
静物画のような絵画や、彫像。田園の風景や日常雑貨。アイスキャンディを持ってはしゃぐ子供など――カメラをアピールするための見本写真のようだ。
「あら、これ?」
と、一枚ずつ丁寧に拾っていたベヴェルの手が一枚の写真の前で止まった。
キャンバス一面の若草と野の花の中を一匹の犬がふさふさとした大きな尻尾を揺らし走っている姿が水彩で描かれている。
背の低い草はお辞儀をするように道を開き、くねくねと曲がりくねりながら左端に小さく描かれた町へと続く。
黒々と真珠のように真ん丸な葡萄を一房くわえ、そこを駆けていく犬はキラキラとした目を町の方に向けていた――町で待っているだれかへのお土産だろうか。
葉の先まで精緻に描写された草原の風景と、躍動感のあるタッチで元気に跳ねる成犬。
見ているだけで気分が安らぐような牧歌的な絵画だった。
「ははぁ、それは美術館に収められる前に記念に撮らせてもらった写真ですね~。地元の画家が描いたものなんですよ」
「自然が綺麗な絵ですね」
「えぇ。私もこの絵が一目で気に入りました。この画家、マスティフというんですけど、彼らしさが実によく現れたいい作品だと思います。彼はコンクール止まりで大成しませんでしたが、私のように地元の人間には今でも人気があるんですよ。地元の景色をたくさん残してくれた素晴らしい画家です」
そう言い切って、誇らしげに露天商は笑った。
「じゃあもしかして、この絵の場所も実在するんですか?」
「はい。隣町との間にある原っぱです。あ~……でも今はマフィアが多くてちょいと物騒なもんで、近寄らない方がいいですよ」
「そうなんですか。――絵は美術館にあるんですよね?」
「この通りを真っ直ぐ行った途中にあります。ご覧になっていかれるんですか?」
ニコラシカはベヴェルと頷き合い、
「はい。ぜひ実物を」
「そうですか、そうですか。では、お気をつけて」
二人は露天商に礼を言って、絵に描いたように穏やかな町の雑踏へと紛れていった。一つの手掛かりを握り締めながら――
『――待っている。待っている。原っぱを突っ切って走る犬。友誼の果実はどこへ向かう――』
***
その美術館は小さな町の美術館という佇まいで、目当ての絵を探して歩くだけなら二十分も掛からずに順路を一回り出来る広さだった。
どの展示品の前でも足を止める事なく、チラと振り仰ぐだけで通り過ぎていく子供二人は他の来館者の目には奇妙に映った事だろうが、リアリスト二人はそんな些末な事には目も暮れない。
当面の関心事はひとつ――あの絵の事だ。
「絵……無かったわね。どうしてかしら?」
「うーん……どこかで特別展をやってて貸出中なのかな……?」
地元の画家というからその線は薄いと思ったが、それ位しか思い付かない。
結論から言えば、≪総譜≫の課題に関わっていそうな例の絵は美術館内には見当たらなかったのだ。
展示は活躍した年代別にされていて、マスティフの絵もある一角にまとめて飾られていたのだが、例の絵こそ認められず。丹念に他の画家の絵も確認してきたから見落としではないし、一体どういう事かと二人は首を捻る。
それに、気になる事もある。
あの絵は犬が町へ葡萄を運んでいるような構図だったが、逆に町から草原を見つめる猫の絵がマスティフのコーナーの中に掛けられていた。注釈として隣町のリンクスという画家がマスティフへ贈った、という文言が添えられて――
ひとまず受付で話を聞いてみよう、とアーティスティックなオブジェが地面から突き出した中庭をとろとろと歩き、入口まで引き返して来た二人は受付嬢へカウンター越しに声を掛ける。
「すみません。マスティフという画家の絵で、葡萄をくわえた犬が草原を走っている作品が此方にあると伺ったんですが、どこにも見当たらなくて……」
「まぁ、それは『我が友へ』という絵ですね。残念ですがその絵は現在展示を致しておりません」
澄ました受付嬢は少し困ったように眉尻を下げた。
「どうして展示してないんですか?」
「マスティフの家から隣町の画家、リンクス宛ての手紙が見つかりまして、それによると『我が友へ』はリンクスへの贈り物だったようです。本館にはリンクスがマスティフへ贈った『我が友よ』がありますが、それは故人の意思を尊重してわざわざ隣町の美術館が本館へ寄贈したものなんです。ですから本館もそれに倣い、隣町の美術館へ『我が友へ』の寄贈を決めました。今は展示をやめて配送出来るよう地下で準備をしています」
「では隣町に寄贈された後展示されるまで、絵は見られないんでしょうか?」
「えぇと……どうしてもとおっしゃるなら、地下からお持ちして良いか館長に確認して参りますが?」
「あ、いえ。それで、正式に展示されるのはいつ頃になりますか?」
「誠に申し上げ難いのですが、今の所展示の見通しは足っておりません。配送しようとしては何度も延期になってしまって……」
「もしかして、延期の原因はマフィア同士の争いとか?」
「はい。絵を届けたくても隣町に行くには銃撃戦のある場所を通らなくてはいけないので……。悲しいですねぇ……友情の証にと贈り合った絵が、争いのために相手の所まで届かないなんて」
「どうしても配送出来ないんでしょうか?」
「美術館の職員だけでは無理でしょうね……。ギルドにでも護送して頂けるのなら話は別ですけれど」
それを聞いたニコラシカとベヴェルは同時に閃く。
しめた。と、内心ガッツポーズしているのがその目を見れば互いに理解出来た。――そうなればもうやる事は決まっている。
受付に踵を返し、すぐさま出入口から大通りへ引き返していったベヴェルを不思議そうに見ている受付嬢へニコラシカは機略を含んだ笑みを向けた。
「館長を呼んで頂けますか?」
「えっ?」
「――少々お話したい事があります」




