(6)
終末が支配しているかのような黒い空に時折稲妻が走り、波は遥か遠くまでが戦慄いている。
皆が出発してから随分経つが、依然として嵐は続き、海王を助けに行ったニコラシカ達も海王真珠を探しに行ったラテ達も一向に戻ってくる気配はない。
暖かい室内から見えるのはザッブーン、ザッブーンと腹を減らした怪物の口みたいな波に襲われるビーチだけ。
ベヴェルはなんだか窓を打つ雨粒に警告されているような気がした。
「大分“系”の維持が安定してきましたね」
「うん、ちょっとはイメージを固定する感覚が分かってきたかも」
ずっと側で熱心にコーチしてくれたシャンエリゼのおかげだ。
始めから聞いていた事だが、イメージの仕方を知っている魔術師が魔道具を使うのは比較的簡単なのに比べ、イメージを形にした事のない人間にはなかなかそれが難しいらしい。
ちなみにラテの槍もシャンエリゼの鎌も魔道具で、二人とも労せず必要な時にアクセサリーから変形させている。練習にとベヴェルもシャンエリゼのを借りて試してみたけれど、何度やっても鋭い切れ味を生む滑らかな曲線は、スプーン曲げに失敗した残骸のような形にしかならなかった。
「本当に素晴らしい成果です。きっとみんなびっくりしますよ」
「そうかな。まだ全然力にはなれないと思うけど」
最低でも刀の形に出来ないと、実践での魔道具使用は厳しそうだ。
「それでも進歩は進歩です。みんなが帰ってきたら御披露目しましょう」
「うん。みんな早く帰って来ないか……えっ」
「どうかしましか……?」
「ねぇ、メージュ……あれって」
カーテンを一枚捲った先には、信じがたい光景が広がっていた。
天まで届きそうな黒い波――大荒れだった海はとうとう極限を迎えた。
折り重なった波が積み上がり、ほんの数分前までの様相とは一変。街に向かって高い壁が押し寄せてくる。
「ここで待っていてください!」
「待って、あたしも――」
とてつもない大津波を認めるや、シャンエリゼは即座に窓から飛び出すと、大鎌を担ぎビーチへと走り出した。
しかしその間にもどんどん高波は速さを増して街へと迫り来る。
「空間捻転」
ビーチの端から端へ走り、シャンエリゼが
叫ぶ。
波が街を飲み込む寸前。
鎌で切り裂かれた水平線はシャンエリゼの呪文と共に断裂し、ビーチ上空に大きな空間が現出した。
陸と海の境界線上に広がった亜空間。そこへ崩れかけた波が飛び込んでいき、裂け目はまるで海を飲み下すかのように、ドォオオと押し寄せる海水をごくごくと吸収した。
「すっごい、メージュ!」
「いいえ……、この水量はマズいです……」
自らが築いた防波堤を見つめ、シャンエリゼは眉を顰める。
「私が今開いた空間は、私の居た国を一部模した限られた範囲のもの。入る体積は限られています」
「えっ……!?それじゃあ――」
「再現した空間より溢れた分は、エクアレの街に降り注ぐ事になります……」
「そんな……!だってこんな量の水が一度に襲われたら……っ!」
「ベヴェル、出来るだけ街の皆さんを遠くへ逃がしましょう」
「無理よ今からなんて!」
「ではどうするんですか!」
「どうって……」
思考は濁流の中。
こんな大津波を止める方法なんてある訳がない。
どこへ逃げるにしてもこの規模ではすぐ飲み込まれてしまう。街はおろか城中に心の準備をするよう伝える事さえ遅過ぎた。
もし自分が力ある魔女だったなら。せめて魔道具が使えたなら。
「やれる事をやりましょう! 最善を尽くすべきです!」
そう、それは分かっている。
でもこの短時間で賭けられるような望みなんて――。
やれる事。
出来る事。
今の自分にある可能性は――
「そうだ……!」
一つだけあった。
まだ未完成だが、恩人達から授かった力が、たった一つ。
「……一か八か。やってやろうじゃない」
ネックレストップを握り、ベヴェルは大気を吸い込み、決壊寸前の空を仰ぐ。
「……っっ!容量オーバーです!」
次の瞬間、ダバァッと滝の如く亀裂から水が溢れ出した。天のバケツを逆さにしたような大量の水が一気に街へと降り注ぐ。
「真理展開!」
しかし、水は街に落ちる前に、“見えない傘”に弾かれた。
街を包む透明な壁。半円形の壁があるように、落下してきた水は何かを伝うような不自然な流れで海へと還っていく。
「やった……!出来た!」
「ナイスです、ベヴェル!」
間一髪、満杯になった空間から吐き戻された水をベヴェルの意思で受け流した。
――だが、それも長くは続かない。
途切れる気配のない大津波に、次第にベヴェルの心も揺らぎ始めた。
「ベヴェル、頑張って!」
想像以上に水の勢いが激しく、水圧は秒刻みで強くなっていくようだった。際限なくぶつかり落ちる水流に、壁が押し潰される光景がチラチラとベヴェルの脳裏を過ぎる。
一旦浮かんだイメージはそうそう消えるものではない。たとえ予感めいたものであっても、それが意思を保つ、惹いてはイメージを保持する事には多大な影響を与えるのだ。
“出来る”という動機付けも曖昧なベヴェルが魔道具を使い続けるのに、イメージの割り込みは絶対的禁。
「……っぅ…う……」
「ははははは、沈め陸よ! 私が海の底まで導いてやる! ハハッ! ハハハハハハハハ!」
どこからともなく聞こえてきた声に、さらに彼女の意思は浸食される――もって後数分。
「ハハハッ! ハハハハハハハハ」
集中が乱され、マイナスの意識にどんどん引き摺られていく。
「もっ……無理……!」
パッ、と維持していた系が解き放たれる。
世界を隔てていた膜が消え、押し留めていた海水が上空にぶちまけられた。
降ってくる。
見上げた空は水で覆われ、とても逃げ切れない範囲に広がっていた。
神のバケツがひっくり返されたような大量の水。
――お仕舞い、なんだ……。
雨が襲ってくる空を呆然と見つめた。
しかし、その刹那。
洪水のように降り注ぐ筈だったそれは、空から氷柱が生えたように一瞬にして凍り付いた。
「……これは! ラテ様!?」
「ほんとだ! ラテさんだっ!」
凝固した波の上には白皙の少女。
水は瞬く間にダイヤモンドダストへと姿を変え、ラテの周りをオーラのように舞っている。
全身水に浸った白服の彼女は、禊ぎを終えた後の聖職者のように、凜として波間の海獣を見下ろした。
「……ッギィ。貴様か人間! 海王が意を退けるか!」
海上の渦の中から、王と名乗る海獣が逆上して喚く。
奪い取った真珠を翳し、ラテへの害意を剥き出しにした。矢のような水が迷わずラテへと飛んで行く。が、それはラテが一睨みした途端、瞬時に結晶化されガラスの破片のように砕かれた。
「沈みなさい、逆賊! 王は既に選ばれた!」
「黙れ黙れ黙れ! 力を得た我こそが王!」
「直接的な力なんか問題じゃない。正しき者はいずれそれ以上を手に入れる。魂から腐ってるアナタには、その力さえ相応しくない!」
「黙れと言っている――!」
怒れる波がラテへと迫り来る。けれどもラテは力の前に平伏するどころか、大波へ向かって飛び込んだ。
「悲嘆ノ結晶」
刹那。
海の真ん中に氷の華が咲く。ラテが触れた箇所から波は凍っていき、深海の魔物を封じ込めた。
模様のような飛沫の筋を槍で突くと、ビキビキと運命を裂くような音で罅が入り、もう一打を叩き込んだ途端に花弁は氷の欠片として砕け散った。それと同時――華が種子を残すが如く真珠が虚空に吐き出され、砕氷が潮風に吹き流される中を落ちていった。どうにか腕を伸ばし、ラテは冷たい真珠をその手に掴む。
「っ……ふぅ……――」
その直後。辛うじて動いていた彼女の意識はふつっと途切れた。
真っ逆様に空から離れていく。
重力に引かれるまま、黒い海面が近付いてきた。
冷たさも痛みも、衝撃さえも伝わらない……。
機能を停止した体は麻痺し、沈みながら荒波に流される。
まるで一つになるように深海珠を抱きすくめ、ラテは海の深くまで沈んでいく。
と、その時。
暗黒に引き込まれつつある彼女を押し上げる者があった。
「ラテ!? ラテっ!?」
「ソ……ノラ……」
空気が肺を満たしていくのに合わせ、緩やかにラテの意識も浮上する。
「ふふっ……ありがとう……、ラテ。ほら、深海珠。ラテが取り返してくれたから」
あどけない姫君は、両目に涙をいっぱい溜めて感謝に咽いだ。
海に漂う二人にキラキラと幻の残滓が降り注ぐ。
陸海の平和を祝福するように二人の周りで煌めくのは、何十年も海面下にあった怨念を祓った確かな証。
「……――よかったぁ」
光を失った目で眩しそうに呟くと、ラテは再び意識に幕を下ろした。
***
勝利は朝日を連れてやって来た。
全員が深海から地上に戻って数時間後。
その頃には、まるで人魚姫の涙で清められたかのように、エクアレの海はかつての静かな姿を取り戻していた。
別れの挨拶にはお誂え向きに、太陽が今まさに昇っていく所だ。
ずらりと整列した深海からの遣いが見守る中、今回の功労者一人一人とソノラは握手を交わす。
「それじゃあね、ソノラ」
「お前達も元気でな」
「頑張って王様継げよ」
「あぁ! お前達が守ってくれた深界だ。あてしが必ずいい世界にしてみせるよ。真珠も厳重に管理するから心配しなくていいぞ――ところで、本当に謝礼はいらないのか?」
側で控えていた家臣は珊瑚や水晶がぎっしり詰まった宝箱を恭しく差し出すが、ううんとラテは首を横に振った。
「楽譜を手に入れられただけでワタシ達は十分だよ」
「……やっぱり、それを集めてる理由は言えないんだろ?」
「うん……ごめんね」
「……いや、いいんだ。でももしお前達が困った時は、次はあてし達が力になるよ!」
「頼りにしてるね。また、どこかで」
「うんっ! じゃあな!」
嵐の過ぎ去った細波の向こう。
平和な深海へと還っていく彼らが見えなくなるまで、ラテは朝日が照り返す海を見つめ続けた。
***
「ライト―!あーそーぼー!」
バァアアンンとドアが開いたと同時に飛びこんできたのは、黄色い弾丸のような少女だった。
ハニーオレンジの甘い香りのする髪をちょこんと小さな王冠で飾った少女がくるくると回ると、膝まであるドレスがふわっと膨らむ。
アン、ドゥ、トロワ。
しなやかにステップを踏んで、少女はその男の座るソファーへ飛び乗ってきた。
ライトと呼ばれた三十代半ばと見られる男はマグカップに珈琲を注ぎながら、
「ごめんなさいココ。まだ研究の区切りが付かないので」
と取り繕った笑みを浮かべる。
すると少女は「え~…」と桃のように頬を膨らませ、不満を露わにした。
人里から隔離された霧深い城に閉じこもっている生活は、大人にとっては静かで落ち着けると感じられても、齢十の遊び盛りの少女には退屈そのものである。
定常的な居住者が少女と男を含めても四人しかいない上に、子供は少女と自分の研究室からなかなか出て来ない偏屈で嫌味な少年だけでは息が詰まるのも仕方のない事だ。
「ハーくんは“めーそう”してるし、レナは花壇のお手入れしてるし、トレミーには無視されちゃったんだ……。スペールはね、お友達のホームパーティーに行くんだって。いいなぁ~」
きゅうとスカートの裾を掴みしょんぼりと少女は肩を落とす。
「……分かりました」
遊び相手にさえ不自由する環境は、やはり教育には良くないだろう。
寂しそうな色を帯びた少女の姿が不憫に思えて、男は机の上の問題を先延ばしにする事を決めた。
「でも珈琲を一杯飲む間待って下さい」
「ほんと!? やったぁ―!」
「フフッ。ちなみにスペールは何方のパーティーに行かれたのですか?」
「うんっと―……主催は政治家って言ってたかなぁ? 確かスタウト・ブラックマン……?」
「スタウト……ブラックマン……?」
男の眉がピクリと上がった。
「ライト、知り合いなの?」
「えぇ、まぁ……。ハーと会う前にお付き合いがありまして」
「ふ~ん?」
「そういえばココ、近頃は《総譜》の夢は見ていませんか?」
赤褐色の瞳を細め、男は涼しい顔で笑んだ。
「最近は見てないよ。……でもね、大丈夫! ココ達の願いはきっと叶うよ。ハーくんが言ったもの。『運命は託してある。全ての因果はやがて彼を導くだろう』って!」
「フフッ、それなら我々が案ずる必要はありませんね」
「ね―っ!」




