(5)
――通路の先にあった部屋を改める事しばらく。
隣、隣、そのまた隣、最上段が終わってその下の段の通路。さらに下がって…というように、順繰りに可能性を潰していき、ようやく捜索済み通路の数が、未捜索の通路を上回った。
丁度その頃から奇妙な音を明確に認識し始めたのだが、音は鳴っては止んでという感じで、ずっと続いている訳ではない。早く深海珠を探さないといけないし、今は瑣末な事に拘っているより一秒でも早く目標を達したい――だからボルガは特に気にせず、その事を告げもしなかったのだ。
たまに部屋同士が繋がっているような複雑な構造の罠にかかり迷子になりかけたが、団体行動のおかげでどうにか広場まで戻って来られた。そんな動作を何遍も何遍も繰り返し、そうしてようやくやっと残り一つまで通路を絞り込む。
「ここまで来たら後少しだね」
「もう一息だ、頑張ろう!」
残り一つ。
展開に終わりが見え始め、三人は安堵と高揚に顔を綻ばせ、ばた足を再開した。と、その時。
(――あ…まただ…)
ガツン、ガツンと地を掘り進むような音をボルガの耳が拾った。
水を介した音は尖った感じはしない分衝撃を伝えてくる。
「――なぁ、」
「なに?」
「妙な音がするんだけどさ、」
――ガツン…!ガガガッ…!ガツン……ッ!
地響きのような静かに迫ってくる感じがどこか不気味だった。しかも今度は音の間隔が短い。
何十秒かすればすぐに音は止んだのに、まだ聞こえている。
今までとは何かが違う。そんな印象を受けた。
「音……って、どんな……?」
ソノラが小首を傾げる。
「……っ!まさか――」
ドガガガガガガッ!ドシャァンンン!
「なっ、なんか!なんかすげぇでかい音したぞ今ッ!」
「やっぱり……!」
「すごい人の声だ! 何人いるんだッ!?」
騒いでる。
叫んでいる?
雄叫びのような、咆哮のような――
「ソノラ、隠れて!」
「へぇっ!?」
声が近くなった。何かが、何か沢山の物が此方へ向かっている。
押し流すような水の流れ。それが幾つも。
「早く! どこでもいいから!」
水を伝わる怒りの感情。これは、きっと――!
「見つけたぞソノラ」
――静かな赫怒が深海の底に染み渡った。
「その様子では、まだ深海珠は手に入れていないようだな?どうせ貴様の手には余る物だ。そこで大人しくしていろ」
大軍勢を引き連れた真っ青な長髪の男は忌々しそうにソノラを睨み付け、仮にも次期女王である彼女に対して不遜な台詞を吐いた。
美貌の持ち主というなら正にその通りの美男子。まるで女性の如く痩身で、眉はキリリと細く、桜貝のように淡い唇の色をしており、瞳は左右とも深い青色。落ち着きのある優雅な所作は、喜怒哀楽の激しくて騒々しいソノラよりも余程人魚姫のイメージに近い。
だがしかし、陸を臨む彼の眼は泥海だった。
受けてきた毒を飲み込んで自らも毒を放つ穢れた魂。想いを遂げられぬ事を良しとして泡となった人魚姫の内面とは天と深海程の隔たりがあった。
「先に行け。ここは任せろ」
炎を宿した瞳は回廊を埋め尽くす兵士を前にしても、威風堂々と正義に煌めいた。
ボルガは一歩前に進み出て、鞘から剣を引き抜く。エーギルに向かって戦闘の構えを見せると、ラテは「お願い」と言って踵を返した。
「行くよ、ソノラ」
「でも……っ!」
「ボルガに任せよう」
「……うん。頼むぞ」
最後の通路――深海珠の在処へと向かう二人の姿を見届けると、ボルガは一気に剣の周りに炎を纏わせた。
「さぁ、来るなら来いよ」
「水の城に焔の騎士か。海王に挑むには不向きな場所だが?」
「ヒーローには場所なんか関係ねぇんだよ。それにお前は、海王になれない」
「ソノラめが戯言を抜かしおったか……フンッ。まぁいい――」
剣の柄を手に、ジリッと怒りを込め、エーギルは叫ぶ。
「そこのソノラの手先を斬り伏せろ! 勝利を真の王たる我が手に!」
「通すか! 煉獄ノ騎士ッッ(レーヴァテイン)!」
剣から放たれる炎が大挙して押し寄せり人波の前に高い壁を築く。
青い海が赤く照らし出され、熱い光の中で溺れたように兵士達はもがいた。けれど、やはり状況的に不利なのはボルガの方だ。
水中の酸素を燃やし尽くし炎の壁はすぐに消えてしまう。
「……やっぱ厳しいか」
もし…――もしこの人数とやり合う事になったら、ラテはきっと魔法を使ってしまう。
「――なら、俺がやらねぇと」
ここで進軍を食い止め、何としても時間を稼ぐ。
「怯むなッ、進めェエエ!」
「通さねぇって言ってんだろ!」
火山が噴火するようなイメージを指先へ送り込むと、閃光を放ち大剣はゴォオオと燃え上がる。
「ラテの邪魔はさせない! 正義を守るのが俺の仕事だ!」
ちょっとくらい魔法が効かなくなったからなんだ。それ以上に磨いてきた剣技が俺にはある!
炎に炙られた水は気泡が弾けて白く濁り、忽ちボルガの姿を覆い隠した。靄のようなそれに紛れれば動きの鈍る水中でだって
「デヤァアア!」
でたらめに突っ込んでくる兵に、思い切り剣を振り下ろす。一瞬でも敵の反応を遅らせられたらそれが斬り込むチャンスだ。
ちまちまと間怠いのは得意じゃないが、そんな事も言っていられない。
ボルガは孤軍奮闘し、ついには敵軍の中に分け入り片っ端から剣を交えた。
「クゥ……貴様らそれでも深海の覇者か! もういい、そいつを此処で留めておけ!」
数を減らす部下を見限り、エーギルは一人戦線離脱しソノラ達の跡を追う。
「あっ!? テメェ、待て!」
しかしガンッと脇から鋸のような剣に制止され、水を掻く手を引っ込めた。
「――……っ、ちきしょう!」
噛み付いたそれを払い、追い掛けられない歯痒さを不完全に燃焼させる事でしか、今は――
(ラテ……使うなよ。絶対、使うな……!)
***
白波を残して深部へ進む。速く、速く――
焦る胸の鼓動よりも速く。恐ろしい予感、残像を振り切って。
「ラテ、ラテっ! ボルガは本当に大丈夫なのか!? あんなに沢山……沢山エーギルの兵士がいるのに!」
――だけど、迷いがあった。
忠誠を誓ってくれていた兵士には裏切られた。あれ程気丈に振る舞っていた父も捕らわれてしまった。
もうこの先の展開など未熟な自分の推測なんてとうに超えている。
もし防ぎきれなかったら陸にまで甚大な被害が及んでしまうだろう。海を統べる責任も陸海の運命もこの身に託された。
国民の希望が海王から自分になった瞬間の戸惑い。混乱。突然過ぎて喜ばしい感情には届かなかった。
でも夢中で泳ぎ出していた。自分に何か出来る事があるのなら、やろうと思ったのだ。
でも自分一人で出来る事なんてなくて、結局地上の人間を巻き込んでしまった。
自分が情けなくてギュッと目を瞑る。すると
「心配しなくても、ボルガはやられちゃうようなヘマはしないよ」
繋いだ手を握り返される。
温かい、穏やかな微笑みを浮かべ、ラテはそう囁いた。
「頑張れ、お姫様。ワタシはアナタを応援するよ」
「でもあてし、得意なの泳ぐのだけだし……すまない。本当にこんな事になるなんて、本当にっ――」
「ソノラ、他人を助けたいと願える事をもっと誇って? ワタシなら……ワタシでさえアナタを選ぶよ。大丈夫。ワタシもみんなも、自分からアナタに味方したんだから」
「だけど、」
「アナタはただ使える力を正しく使えばいい。守れるものを最大限守るために躊躇っちゃダメ」
「……うん」
躊躇わない――確かに海王は躊躇などしていなかった。経験不足の自分を後継に指名した時も、怖じ気尽いたのは自分の方だった。
務めを、果たしたい。
海も陸も守り抜かなくては――!
「あった! 深海珠!」
祭壇中央の水龍の口の中に供えられた、海を結晶化したような青い石――鱗模様の光沢が珍しい球体は聞いていた形状と一致する。
ごくっ、と唾を飲み込む。
小刻みに震える指をゆっくりと真珠へと伸ばした。
祭具のようなそれの表面に触れる。すると龍の口が開き、まるで地上のような眩しさで真珠が輝き出した。両手で抱えた真珠は見た目よりもずっしりと重たい。
「これで真珠はソノラの物だね」
「あぁ……。これで……」
これでエーギルの野望は終わりだ。
最悪は防げた。深海珠さえあればエーギルにだって負けないし、海王を取り返せる。
やったんだ…これで、これで――
「ほう――それが深海珠か…」
「……ッ!? お前どうして……!」
執念は何処までも追い掛けて来た。
衣服が焦げ、防具が一部溶けているボロボロの姿で、それでも一人通路を塞ぐように彼はそこに立ちはだかる。
「ボルガは…!? ボルガはどうしたんだ!」
「あの業腹な騎士が気になるのか。陸の者に情けを掛けるとはやはり甘いなソノラ。どうせ深界と一つになるのに、そんな縷言が何になるというんだ」
クツクツと嘲笑する声は冷え切っている。
祖先を誑かした陸の人間が憎い。深海人を裏切った祖先が憎い。自分を侮蔑し続けてきた深海人が憎い―――まるで憤懣を凍り付かせたような残忍で凶悪な人格。それを表すかのようにギラギラした瞳がソノラを見据え、じりっと躙り寄った。
「それはそうと、お前が今抱えている深海珠は我が先祖が海王より預かりし品。此方へ渡してもらおう」
エーギルは血の通っていないみたいな青白い腕を差し出すが、
「断る! ベヴェルの手から離れた以上、深海珠は元の持ち主である海王の物だ! お前のじゃない!」
ソノラは真珠を強く抱え、断固拒否の姿勢を取った。
するとエーギルは柳眉を逆立て、一瞬とてつもなく憤ろし気な表情を浮かべたが、すぐに取り澄まして言葉を継ぐ。
「仮にもしそれが海王の所有物だとして…今は全ての支配権が海王から私に移っている。ならば実権を握る者が所持するのが筋ではないか?」
「違う……違う……っ! 海王はお前なんかに降伏したりしない!」
「降伏しているとも! 海王は捕虜となり私が海と陸を統べるのを指をくわえて見ているしか出来ないのだから!」
「それでも海王はお前を認めてない! 誰もお前を海王とは認めない! どんな力を手にしたって絶対に!」
「黙れッッ! 海王は降伏した! 圧倒的力の前に! この私の前に膝を折った! 今こそ地上を! 権威を我が手にするのだ! さあ渡せ! 渡せ、渡せ、渡せッッ!」
「……しょうがない人だねぇ。アナタは」
感情的に捲し立てる聞き苦しい限りの声に、ついに今まで静観していたラテが口を開いた。
「変えられない過去に固執して、救われないからと意固地になって……。そんなのまるで……」
レース模様の純白のチョーカーに触れ、返しが付いた槍へ形状変換させながらラテは問う。
「ねぇ、人魚姫のどこがすごいか分かる?」
ふわふわと夢の中を漂うように虚ろな瞳で、泡沫が囁くように寂しげな声で。
「それはね、自分から力を放棄した事だよ。数いるお姫様達の中で唯一、力を手にした後も報復を誓わなかった。海へも還れず、陸で生きるための脚は消え……、だから陸と海の見える教会から、最後の平和の在処かもしれない天に向かって祈りを捧げ続けた」
「ひょっとして貴様はベヴェルの事を言いたいのか?」
「そう。アナタの叔母はとても賢明な判断をしたんだよ。正しくない人が力を求めちゃいけない。……そんな事、あっちゃいけないの」
「陸の娘如きが、王に逆らうか」
「力は正しく使わなくちゃ。アナタは正しくない。正しくもなれない。だからこれを渡す事は出来ない」
「訳の分からぬ事を抜かす娘だな……ッ!」
ガシャンッ、と槍と剣が真っ向からぶつかり合う。
「ソノラ、支えて!」
「わかった!」
先手を取ったラテが続けざまに突きを放つ。
腕の振りを最小限にして手数を増やし、水抵抗により落ちる威力をカバーし、加えて、泳ぎの得意なソノラに引っ張ってもらえば飛躍的に移動スピードは跳ね上がる。
「アナタは海王になれない。助かるチャンスはあったのに、自分で台無しにした」
白刃は皮膚を掠めた所から肉をこそぎ取り、距離を取ろうと動かした尾の、それに近い場所の鱗を剥がれ落とした。
「海王に認めてもらえる方法だって他にもあったよ。忠誠を貫く事で、信頼を得る事も出来た。なのに――」
斬撃は続く。
一方的に逃げ回るエーギルを追い回し、反撃の隙を与えない。
「っのれ……貴様ァア!」
防ぎ切れなかった斬撃が徐々にエーギルの体積を失わせる。
辺りにはエーギルの鮮血が広がり、尾鰭がもげそうな程に細くなっても、ラテは槍を振るい続けた。
「泡になるのは、アナタの方だっ!」
大きく振り回した槍で一突き。流れは完全にラテのものだった。しかし、
「――……っう…ッ!?」
ズキンと、急に左目が熱を持った。
「……っく……ッアアァアアアァァア!!!」
唐突に襲ってきた吐き気と頭痛を伴った痛み。左目の奥で何かが拍動するような感覚に耐えきれず、ラテはエーギルから目を離した。
すると、その刹那。
白刃の届く範囲から逃れたエーギルがラテの背部に回り込む。
「きゃっ……!」
「ソ……ノラ……っ!?」
猛悪な形相のエーギルが、ソノラから深海珠をひったくった。
気付いたラテがブンと槍で振り払った時には、既にエーギルの姿はそこにない。鱗の剥けたボコボコの尾を、鮮血が吹き出すまで酷使して、通路すぐ手前まで泳ぎ切っていた。
「ふはっ! ……ははっ……ははははは! 深海珠、ついに手に入れたぞ……! 先祖の悲願を成し、陸海の覇者となるのだ! ははははは!」
「待て……っ!」
狂ったような笑い声を残し去った彼の後には、血で汚れた道が続いていた――……




