(3)
「――エーギルって言ったっけ?」
こぽりと泡と一緒にラテが吐き出しのは疑問符だった。
「どうして彼は陸を支配したがってるんだろう。広大な海と比べたら陸なんて、狭くてちっちゃいし、あってもなくてもな物なのに。住んでる生き物だって海の方が多いんでしょう?」
言いながら、ぷにぷにとつついたり引っ張ったりいじくっているそのニジクラゲもまた(毒はないので触っても問題はないらしい)立派な海に住む生命である。
神殿へと繋がる道は、海水によって完全に隠されていた。洞窟内が暗い事もあり、普通に見る限りは海水が溜まっているようにしか見えないのだが、潜ってみると人一人通れるかどうかという小さな空洞がある。そこを泳ぎが得意なソノラに続く形で、ラテとボルガは通ってきたのだった。
初めはトンネルのようだったその一本道も次第に広くなり、今浮いている場所は端から端までは有に8メートル以上はあるだろう。そして広くなった空間にはピカッピカッと光が散っていた。光を放ち、ニジクラゲが浮遊する姿はゆっくりと流れる流れ星のようで、海底から見上げるならここはきっと空なのだ。
陸であれば届かない空の星だって、手を伸ばせばほら、こんな風に捕まえられる。
ここには地上とは違う生物がいて、地上とは違う生命の営みがあって、だから地上とは違う環境なのだ。とても似ているがまるで違う。
けれどそれが海というもので、海という世界はそれで完結していた。
――陸には陸の、海には海のバランスがあって、それらは既に均衡して整っている。
たとえエーギルが深海珠とやらを用いて陸を沈めようとも、海に堕ちた陸などただの藻の生えた岩盤に同じ。陸上の生物は死に絶え、眩しい太陽に育まれた環境は死滅する。それはもう陸であった頃の陸ではない。
陸に上がれない深海人が陸を陸のまま手に入れる事なんて出来ないのだ。
陸が未開の地であった昔なら征服しようと大望を馳せる者があってもおかしくはないが、深海人の上陸を許さぬ大地と分かった今、どうしてそれを欲しがるのか。
「あてしにも分からん」
小魚でも誘うように優雅に尾鰭をはためかせて、困ったやつだと溜め息混じりにソノラは頭を振った。
「知らない世界にはあてしも興味はあったから、いつか魔道具でもあれば上陸してみたいとは思っていた。ベヴェルのように地上の景色を見てみたいという憧れもあった――だけどエーギルの陸への憧れは、あたしとは別段違った意味合いの物だろう」
「っていうと……?」
「あいつはベヴェルの血統なんだ。あいつの母親がベヴェルの妹の娘。つまりアイツはベヴェルの甥ってことだな。ベヴェルが裏切った事で結果的に陸への侵攻がなくなって、深界としても無駄な血を流さなくて良かったんだけど、ベヴェルが王家を裏切った事実が帳消しになった訳じゃない。ベヴェルの家の者ってだけで、あいつは生まれた時からずっと他の王族達から目の敵にされてきたんだ」
「親戚の失態なんてそいつにはどうしようもねぇじゃんか……。しかも自分が生まれてもない頃の事なんて」
ボルガからは共感めいた声が漏れる。
音楽家の一族。ウォッカ家の人間でありながら学芸都市から離れ、賞金稼ぎを生業にしているボルガにとって、それは全くの他人事とは思えなかった。
「海王はあいつも含め自分の子は平等に可愛がっていたみたいだけどな。でもやっぱり深界を納める立場として、国民や王族達の反発を押しのけてエーギルを海王に薦める事は出来なかった。いかにあいつが長兄であろうともな。ずっと子供を授からなかった正妻の所にも、ついにあてしが生まれたから、とうとうエーギルは海王の座を諦めざるを得なくなった」
「それじゃあ次の海王は、ソノラ、アナタなの?」
「あぁ。エーギルが自分を蔑んできた連中を“権力で”見返すチャンスは潰えた訳だ。ベヴェルが犯した罪によってな」
「ふぅん。そうだったか」
「――あてしも知りたい事がある」
急に改まった調子でソノラは二人に向き直った。
「どうしてあてしに味方してくれるんだ? 陸を救う他にも何か理由があるんだろ」
――鋭い。
静かすぎる海の異変を感じてか、陸を離れて以来ソノラは真摯で真面目な発言に撤している。思慮の足りなさそうな小娘の顔は形を潜め、深海の姫として事態を案じていた。
住み慣れた環境に戻って落ち着きを取り戻した今になって、少し気になってきたのだろう。成り行きで手助けをしてくれている相手の動機が――
城から嵐の中に飛び出していくまで、そう時間はかからなかった。
敵はエーギルと彼の率いるかなりの軍勢。任務は海王の奪還と海王真珠を敵より先に回収する事。
救出班はまず海王軍(さらに減った可能性が高い)と合流し、状況の把握。その後の行動は状況次第。任務が完了し次第浜辺で待機。回収班はエーギルが岩盤を掘削し終わる前に速やかに海王真珠を見つけ、その後陸地へ非難――
僅か10分あまりの打ち合わせでは作戦に直結する事柄のみが話し合われ、だらだらと双方の背景を語っている暇はなかった。俄然ソノラからもたらされる情報が多く、此方の事情は伝えていないに等しい。
大まかな行動内容と役割を決定した後もすぐに別れて活動し始めてしまったので、ソノラが知っているのは全員の名前。それと、せいぜい仲間内での力関係ぐらいだろう。
命運を預ける相手が何者かも知らずに助力を乞ったのがそもそも早計ではあるのだが、ソノラが自分一人で状況を打開出来ない以上、下した決定は変わらなかった。
しかし、相手の動機を知っているのといないのとでは、付き合い方が変わってくる。言わば信用の問題だ。
「ワタシ達がソノラに協力するのは、ワタシ達も深海真珠を探してるからだよ」
「探して、それから深海真珠をどうするつもりなんだ」
「どうもしないよ。ただ――」
ラテはぽいっとニジクラゲを緩やかな波へ解き放って、小さく手を振りそれを見送ると、輝きを吸い取られたような水色の目でソノラを見る。
「“海に還れなかった人魚姫”が誰を選ぶのか、それさえ見届けられたらワタシの目的は達成だから」
自分には灯らない光を見つけたように、まるで眩しそうににっこりと。
「それは、どういう――あっ……!」
――見えた。神殿。
真上から眺めても人工物だと分かる角張った建造物が行き止まりになった空間にどっしりと構えていた。崖のようにそりたった外壁は、海底に立った時こそその荘厳な印象を最も強く与えるだろう。
前海王が統治していた頃の名残か、古い深界の紋章である三又の槍が外壁や門柱の至る所に描かれている。ヒカリ苔がびっしりと付着しているせいで、それらの陰影もぼんやりと浮かんで見えた。
とても閉鎖的な。四方を厚い岩壁に囲まれた空間は、いかにも神秘を司る場に相応しい。
出入り口とて今や自分らの通ってきた一つしかない。ベヴェル・アクアが塞いだらしい深海側からの入り口には岩が積み上がっていた。あれが崩れれば海の戦場はもう目前である――
「あそこに深海真珠があるんだな?」
「あぁ。たぶん」
神妙な面持ちで、キュッとソノラは下唇を噛んだ。
「行こう。きっと光が待ってるのはアナタだよ」
浮游する光の間をすり抜け、ラテはソノラの手を引くと、そのまま流れ星と一緒に天の川のような世界を流れた。
堂々と厳かな石柱の並ぶアーチ用の通用門から神殿内部へと進む。中も光りゴケが常灯となり、想像していたより遥かに明るかった。
水草の生えた隅の方は魚達が巣を作るには格好の場で、海水で満たされた静謐な空間を毒々しいまでに鮮やかな深海魚が此処は自分の庭だと主張するが如く旋回していた。
色とりどりの海藻や泳ぎ回る魚――まるで熱帯魚の水槽にでも入れられたような感覚だ。
入口の扉を潜ってすぐ。各部屋へ至る通路が集まった広間の壁は、ほぼ一面がその通路の分だけ穴があき、およそアナゴやウツボなどウナギ目の巣を連想させた。
階段やそれに付随する昇降手段を備えず、床から高位の場所や足場なしにはいけないような場所にも平然と入口が存在する。
――いや、泳げばどこへでもいけてしまうのだからそんな物があってはかえって不自然か。
上下左右の感覚にも敏感でない海の生き物にとって、そも天井も床もないのだ。
外から眺めた感じと広間の面積で考えるとこの神殿はそんなに広くもなさそうだが、部屋の数は相当多いと見える。
「さて、どうやって探すんだ? ソノラにも正確な場所分かんないんだろ?」
「分かれて探すと後で合流が大変かもね。纏まって行動した方がいいんじゃないかな?」
「うむ……そうするか。しかしラテ、お前は何か手掛かりを知ってるんじゃないのか? 随分意味深な発言をしてたろ」
「残念だけどなんにも。『泡沫の歌声を聞け。光の導きのままに海を治めよ』。ワタシが知ってるのはこの文言だけだし、これだって、誰かが深海真珠で海を統治しろって事にしかならないもの。ベヴェルがどこに隠したかは彼女本人しか……」
「しょうがねぇよなぁ……。一丁片っ端から……――ん?」
ガツン――ッ…!
「ボルガ?」
「……っあ、いや――」
一瞬、ボルガはピクリと眉をひきつらせた。
(なんか……音がした気が……?)
固い物同士が衝突したような。重さを含んだ低い音…・…。しかしそれは一度きりで、耳を澄ませてももう何も聞こえはしなかった。
(……気のせいか)
「――何でもない。行こうぜ」
大きく水をかいて、ボルガは最上段の通路へと泳ぎ出し、ラテとソノラもそれに続いた。
――……ガツッ………ガツンッ、…ガツンッ…………
***
幾つもの海流がぶつかり合ったかのように、海の中は海上と同じく酷い荒れようだった。
獰猛な黒い流れから流れに乗り移り、海王救出班として選抜されたアドニス、エルディー、ニコラシカは一路深界を目指す。ニコラシカが水中で生み出した風はジェットバスのように水を掻き分け、荒い流れを掴んで三人を海の底へと誘った。
「海を潜る鳥なんて人類は一生見られないかもなぁ~」
「その奇跡の瞬間を見られないようにしてやろうか?」
限られた範囲を照らしていたエルディーの魔道具が茶化すようにアドニスに向けられた。
近過ぎる光の先で、ニコラシカの鞄から頭だけ出したアドニスは黒々と尖った嘴を心無し突き出し、エルディーを見ている。その眼光たるや鋭利な刃物そのものである……。
自分をからかうなら痛い目に合わす、との分かりやすい啓示から反射的にエルディーは目を逸らし、ソノラから預かった深界のある場所を指す方位磁針(のような魔道具)を確認するフリをした。
やれやれ……。この人達は地上だろうと水中だろうとお構いなしなのだな。全く仲の良いことだ、と微笑ましく眺めていたニコラシカに、
「あっ、そうだニコル」
とエルディーから声が掛かった。
「なんでしょう?」
「注意事項を一つ言っとくぜ」
「注意事項?」
「そっ。もし俺とアドニスが怪我しても、絶対に血には触れるなよ。血が水中に拡散しても必ず避けろ」
「はい……?」
話題を変えたかったのは分かるが、なんでまたそんな話なのだろう。指示の内容もいまいち分からないし。
変なの、と思いつつニコラシカが曖昧に返事をすると、さらにアドニスまでもが先程とはまた違った剣呑な空気を纏い、
「どんな場合でもこれは優先しろ。俺からも言っておく」
と言うのだ。
「えぇ、分かりました……?」
二人の主張はニコラシカには少し不自然に感じられた。
血液に触れて感染する病気がある事を知らない訳ではないが、わざわざ忠告する程の事だろうか? 喋り方こそ普段通りの砕けた言い方だったが、エルディーもアドニスも真剣な表情をしている。
まぁわざわざ忠告を無視する理由もないので、それに習って行動しても良いのだが。
ニコラシカが首を縦に振ると二人は少しホッとしたような浮かべ、また言葉尻を捕らえた応酬が始まった。
暗黒の海を潜水する。
ゆうらりと海亀が目の前を横切っていったり、何か巨大な生き物の影に入ってしまったり、思いがけず魚群の中に突っ込んでしまったり。
一寸先は闇を我が身を持って体験しながら深界へ近付く。
音も光もない世界。五感を惑わし、分厚い水のカーテンで人類を阻んできた未知の場所。深界とはどんな所なのだろう……。
(あ……)
「エルディーさん、ちょっとライト消してもらってもいいですか?」
「えっ?」
「下の方、あの辺何か光ってませんか」
黄色っぽいライトの灯りとは違う、青白い光が見えた気がした。
カチリとライトを切ると、互いの姿も確認できない真っ暗闇に包まれる。
一切の光は失われ、上下左右の区別が曖昧になり、沈むという表現さえ下がどちらか分からない状態においては適当でなくなった。
どこかへ吸いこまれている――当て所もなく流されているのはなんとなく分かるのだが。
ふいに暗黒に呑み込まれそうな感覚に襲われる。深海本来の姿にニコラシカは僅かに畏れを抱いたが、闇の中ぼうっと浮かび上がった青いグラデーションには自然の神秘も感じた。
幻想的な光の列はゆっくりと光を強め、かと思えば徐々に萎んでゆく。ゆらゆらと辺りを動き回る光はなんだか人魂のようであった。
近くまできて(流れに任せて漂った)ようやくそれが海月の集合体だと分かる。そして不可思議な光の正体に気付く頃には、周囲の状況は一変していた。
「わぁ……」
「どうやら深界に着いたようだな」
そこには思わず息を飲む光景が広がっていた。
間接照明のような淡い光を灯し、鯨程はあろうかという大きな巻き貝が岩壁から幾つも互い違いに生えだしている。巨大な貝殻が森の木々のように重なり合って、一つの街を形成していたのだ。
「すごいですね……これ、全部貝殻なんでしょうか」
ここが深界人達の暮らす世界――。
先入観から竜宮城のような所をイメージしていたが実際はそれとは全く異なり、水晶の鉱山に近いものだった。
半透明に透き通る貝殻の影に隠れながら(隠れられていないかもしれないが…)、さらに沈んで行くと、一際大きな貝殻の周りに兵士らしき男(下半身はソノラと同じように魚の尾鰭のようになっていた)が密集しているのが見える。
兵士はあちらこちらに配備されているようだが、明らかにそこだけ守りが堅い。
「えっと、十字に振ればいいんだっけか?」
ソノラから味方の合図として教わった通り、ライトで十字を切りながらゆっくりと近づいていく。
海王を攫われ後で空気がピリピリしているせいか、大丈夫と分かっていてもなんだか緊張した。
「お―い!」
こちらから存在を明かせば少しは友好的に見えるかと思い、エルディーは声をかけてみた。すると、銛のような武器を構えた兵士達の暴力的な目が一斉に刺さる。
「うわぁ……おっかねぇ~。こんなんで大丈夫なのか?」
「も、もっと大きく振れば平気ですよ。たぶん……」
尖った武器の先が並んで迫ってきて、さながらシャチの口に飛び込んでしまった気分になる。
ソノラに似た青や紫の装束を纏った厳つい深海人達がこちらに気付き、どんどん押し寄せてきた。
「お待ち申しあげておりました」
しかし、出会い頭に銛で一突きされるんじゃないかという不安とは裏腹に、見掛けこそ
怖そうな深海人達は、三人に向かって恭しく傅いた。
「ソノラ姫様に手を貸して下さった方々ですね? 姫は無事に陸へ上がられたのですか?」
「お、おう。今は別行動だけど俺たちの仲間と一緒にソノラは海に戻ってきてるよ」
あとこれ、預かりもんな。とエルディーは例の方位磁針を彼らの眼前に晒すと、波紋の如くざわめきが広がった。
感極まって泣きだす者まで現れ、あんな頼りなげな少女でも、深海人達にとっては大きな希望だったのだろう。
「海王が攫われたと知って、ソノラさんもとても心配していましたよ。しかし自分の役目を果たすために、彼女は海王真珠を探しに行っています。それで、海王の件は僕達が代わりに」
「そうそう。今戦況はどうなってんだ?」
「はい……。情けない事に、我々の兵力ではもう長く持ちません。海王を攫われた事で民の間にも絶望感が蔓延し、兵の士気も下がっております。もう一度全軍で攻め込まれでもしたら城は堕ちるでしょう……」
そう言って兵長らしい男は沈痛な表情を浮かべた。
――彼らは全滅の危機に瀕している。
他の兵も反論しない。それだけ戦況は逼迫しているらしい。
「オーケー、分かった。俺達が何とかしてやるぜ。なあ二人共」
「はい。そのために深界まで来たんですから」
「恐らく現在エーギルの軍は兵力の多くを岩盤の掘削に割いているだろう。加えて城に攻めいった直後では奴の兵も相当消耗している。海王を救出するには今が好機だ」
「海王は僕達で必ず助けます。ソノラさんもきっと深海珠を持ち帰ってくれますよ」
「有難う御座います……。我々は命ある限り最後まで深界のために戦います。何卒、お力添え下さい」
青や紫の頭が三人の前に整列する。彼らの表情には泡になる事を是とする儚さはない。奔流に抗う生命の群に対し、アドニスは満足そうに言った。
「これより国王を奪還する。全員、覚悟はいいな」
***
人が減って急に静かでがらんとしてしまった客間。そこに留まるベヴェルとシャンエリゼは沈黙の中で互いの不安を取り交わしていた。
「メージュごめんね。あたしのせいでメージュまで留守番させちゃって」
情けなく眉を下げ、しゅんとした表情でベヴェルは言う。
物静かなシャンエリゼは言葉には出さないが、やはり気が気でない様子で、始終意識は部屋の外に向けられていた。
「私の事なら気にしないで下さい。これもラテ様のご命令です」
「でも一緒に行きたかったでしょ?」
「それは……まぁ……」
アドニスとラテが中心になって作戦を立案し、それに沿って二組みに分かれて行動する事になったのだが、ベヴェルとシャンエリゼは作戦から外され、城で待機するよう命じられた。
戦闘経験もなく、訓練すらした事のないベヴェルを戦禍の大海原に連れて行ける筈もない。それに、ここを無人にする訳にもいかなかった。
けれど、自分のせいでシャンエリゼにまでただ待つばかりの時を過ごさせているのは、ベヴェルには心苦しかったのだ。
年下のニコラシカは能力を買われて海王救出に向かったというのに、自分ときたら少しも魔道具を使えず、役に立たないばかりか足を引っ張っている。せめて一人で留守を任せられるくらいになれたら……。そう己の非力さを悔やんだ。
「本当に気にしないでください。誰だって練習期間は必要なんですから。それに、随分と扱いの難しい魔道具だそうじゃないですか?」
「…………」
「大丈夫、きっと使いこなせます。そんなに難しそうな本まで読んで頑張っているのですから」
ベヴェルの膝の上。
青い無地の知性的な表紙に『基礎化学入門』と黒い文字で大きく印字された本をシャンエリゼは指差す。
時間を無駄にしまいと、みんなが出て行った後もせっせと読んで、綴じ込んだ栞は気付けば中程まで進んでいた。
難解な記号や図に苦戦を強いられながらも、エメラルドグリーンの目は忙しく紙面の上を動き回り、やっと無機化学の範囲を読み終えようとしていた所だ。
それでも、知識が身に付いているのかは自分では分からなかった。書いてある内容そのものは分かったけれど、使い所の見えない知識は果たして必要な場面で適切に扱えるか、といった問題とは別個である。
シャンエリゼは大丈夫と言ってくれたが、現時点でベヴェルには魔道具を使いこなせる気が全然しなかった。
魔道具を使うのに必要なのは鮮明なイメージ。
取り分けベヴェルの魔道具は、光る、温める、凍る、溶かす、弾く、尖るなど様々な効果を引き出せた。
その点では《総譜》に似ていなくもないが、それに必要なイメージは大きく異なっている。
この魔道具の効果は、反応が起きる環境を最適に整える事。
魔道具で作り出した理想状態下で、目的の生成物を得たり、反応の過程で発生する熱や光を利用したりする為に使うのだ。
要は玉ねぎ、人参、ジャガイモなんかを鍋に入れてカレーを作る際、火力を調整したり、鍋の種類を圧力鍋に変えたりするのがこの魔道具の役割なのだが、最高のカレーを作るには玉ねぎが焦げやすい事もジャガイモが煮崩れしやすい事も知っていなければならない。どのタイミングで弱火から中火にするのか、何分煮るのか。それも当然。
使い手がイメージしなければいけないのは、より効率的に目的の反応を起こす為の反応条件で、材料となる物質の性質や反応後の物質の安定性なども、条件を設定する上で大切だ。
言ってみれば《総譜》は注文するだけでいいカレー屋のカレーで、ベヴェルの魔道具は手作りカレーなのだ。
どちらもカレーには違いないが、注文するのと自分で作るのとでは、必要とされる技術量がまるで違う。
つまりこの魔道具の使用にあたっては、イメージ=知識と成る得るのである。
正しい知識で反応をイメージ出来れば、いくらでも応用が利く。
ただ、自ずと使い手は知恵ある者に限定され、大衆にとっての汎用性は低いと言えた。
実際、エルディーも持て余していたのだ。調理器具として用いる他は滅多に使っていなかったらしい。
読み書きがやっと出来る程度のベヴェルに比べたら知識も豊富な筈なのに、それでも使いこなせずにいた。それをどうして自分なんかが扱えようか。
「あたしに出来るのかな……」
役立たずはいやだ。また何も出来ずに終わってしまうのは……
「不安ですか?」
「……うん。というか……悔しい」
なんて情けない。
目標に届きそうもなくて不安になっている自分が。
組織への憎しみだけでやる気になっていたけれど、少し頭を冷やしてみたら自分は非力な子供。誰かと戦った事などないし、戦う力もない。
魔術師には魔術師なりの苦労があるのだろう。でも今は生まれつき力のある魔術師が羨ましくて……――
「――……魔道具は他人に譲渡出来る魔法」
「え……?」
「自分を危険に曝すかもしれない物です。だから信じた相手にしか渡しません。まずは貴方を信じてくれたエルディーやアドニスの気持ちに応えようとするだけでいいんじゃないですか?」
そう言ったシャンエリゼの声はとても落ち着いていた。
虚像の世界で苦しい毎日を送り、魔術師やそれを取り巻く環境について知った時期は自分と大して変わりないのに、少しも狼狽えぬ様子の彼女はベヴェルには力ある者の姿として映る。
「もし使えなかったら他にも方法はあります。銃なら魔法よりいくらか上達も早いでしょう?」
「だけど……」
負けん気だけではどうにもならない。実力をつけない事には自力で前へ進む事など……
「心配しなくても貴方の努力にいつか実力が追い付いてきます。魔術師として助言するなら、自分を信じる事も上達の近道ですよ?」
信じる……?知恵も経験もない今の自分を……?
漠然とした言葉にいまひとつ自信が持てずベヴェルは俯く。
するとシャンエリゼは、
「ベヴェル、自分では気付いてないかもしれませんが、自分より遥かに強い相手に立ち向かおうとするのは難しい事なんですよ?」
少なくとも私は出来なかった、と含羞んだように笑った。
「……少し前までの私は、自分の中の反発心さえ服従させらていたんです。ラテ様とボルガに助けてもらわなければ、ずっと諦め以外の感情を持たず、本当の世界を知る事も無く滅びを見つめるだけの一生を終えたでしょう。だから組織に立ち向かおうとするベヴェルの闘争心はすごいと思います。すぐに旅に加わった決断力も、自分の能力をわきまえて行動しようとする所も。それに目標に対する意識も高い。今のベヴェルには確かに技量や経験はないかもしれませんが、今後の戦力として十分見込みはあります。何も引け目を感じる事なんてない」
「メージュ……」
「ちょっと魔道具の練習してみませんか? ただ留守番しているより気が晴れますよ」
「……うん。ありがとう」
力強く頷いた表情は、嵐を晴らすようなエメラルドブルーだった。




