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PuPPet  作者: PM
第四幕 memento novus nihil ~記憶せよ 新たな無を~
15/32

(4)


 常夜に咲く橙の薔薇。

 遮光カーテンで月灯りさえ締め出し、完全密室となった暗い談話室に燃える色を届けるのは、とびきり大きくて絢爛豪華なシャンデリアだった。表の歴史が描かれた絵画は壁一面に。隠された凄惨な過去を炙り出そうとする蝋燭のような悪趣味な光を、蓄音機がその古めかしい音色で丁寧に煽った。

 そんな仄暗い気配の満ちた室内。ふかふかと柔らか過ぎるくらいのソファーで、まん丸の蜂蜜色の目が奇跡のショーを待つようにじっと見つめる先には、水色と紫のグラデーションの美しいグラスと、栗色の髪の薄幸そうな女の横顔があった。

 蓄音機から流れ出る不正確なクラシックを聞きながら女はグラスを傾け、白ワインの澄み切った色と香りを楽しむ。

 真冬のブリザードの中を何時間も歩いてきたみたいな冷たい紫の唇の間からそっと芳醇な香りを零すと、慣れない手付きで注いでくれた少女の気持ちの分だけ、女の口内はやや暖かくなる。酸味を解きほぐしつつそれを飲み下す間、少女は片時も女の喉元から目を話さなかった。


「どう、レナ?ココの名前言ってみて?」


「……ホッ……ホッ…………オ……、ン、……」


 小さく始まり、キンと弾ける弱い声色。しかし大半はシューシューとドライアイスが揮発するような音でこそあれ、およそ声と呼べる代物ではなかった。

 虚しくクラシックに呑まれたたった四文字の言葉達は何とも哀れで、少女は眉尻を下げ、天真爛漫な表情を曇らせる。すると女は少女のハニーオレンジの髪を優しく撫で、彼女の声のように消え入りそうな程儚い笑顔を浮かべた。


『ごめんなさい。駄目みたい…』


 そして、見本字の如く整った字をいつも携帯しているメモ用紙へ記した。


「ううん、いいの。ごめんなさいはココだよ。治してあげられなくてごめんね」


 少女は女の冷えた指先をきゅうと握り、微睡むように女の胸へ抱き付いた。


「ばっかじゃねぇの。いくら《総譜》の課題だからって聖杯そのものは魔道具でも何でもないただのグラスだぜ」


 くだらねぇ。と罵倒するボーイソプラノの声の主は、つなぎにアビエイターキャップのような被り物という出で立ちのた少年だ。


「だって歌姫の聖杯なんだよ!声を失くさなかった人魚姫のなんだよ!レナだってきっと」


「はぁあ~、ガキはおとぎ話が好きでやんなっちまうぜ。そんな非科学的なもん信じてるなんてさ」


 一人掛けのソファーの上に胡座をかいてミルクを二つ程入れたコーヒーをかき混ぜている彼は、この所の製図作業で寝不足気味らしく、疲労を色濃く残した顔でやれやれ呆れたという仕草をした。


「ココもう十歳だもん!おねーさんなんだから! トレミーだってレナとおしゃべりしたいでしょ?」


「んな焦らなくても直に喋れるようになるさ。《総譜》が帰ってきたらすぐだぜ」


「むぅ……だって早くしゃべりたい」


「なら急ぐよう頼んでこいよ。お前の大好きなハーくんにさ」


「ダメだよぉ。ハーくん今めーそー中だもん」


 フルートの息が消える頃、トリルに乗ってクラリネットが哄笑する。


「へぇ―……てことはまだ堕ちてなかったんだな、人形使い」


 少年はにまりと片側の口端を釣り上げ、意地の悪い笑みを作った。


「そうみたい。でもハーくん、とっても嬉しそうだったよ!」


「《支配の指》を持つ者同士か……。ククッ、《総譜》を手に入れ支配の指が同じ向きを指した時、漸く腐った世界は正しき祈りの前に平伏すんだ」


 耽美に酔う詩人のような緑の瞳が歪む。


「在るべきものを」


「在るべき姿に」


 上の句を少年が。下の句を少女が。呪いの旋律はダ・カーポをなぞった…――



***



「――っう゛……あ……!」


「ラテ様……?」


 伏せていたベッドから立ち上がった瞬間、息を詰まらせたような小さな悲鳴を上げてラテの体はぐらりと崩れた。

 急に起立した事による立ち眩みかと思われたが、その場にうずくまるラテは左目を押さえていて、クリーム色の髪の間から垣間見える顔は苦悶に満ちている。


「……左目が痛むのですか?」


「ズキズキする……なんか、気持ち悪い……」


 ラテはよろよろと立ち上がると、またすぐにベッドへと戻った。


「ただいま冷やすものをお持ちしますね」


「ありがとメージュ……」


 ラテが倒れたのはペット同伴可・予約なしの五人を一度に受け入れてくれる都合の良い宿での事である。

 夕食と入浴を済ませ後はもう寝るだけという時、何となく飲み物が欲しくなって起き上がったところ、目眩を伴う左目の痛みに襲われたのだ。

 収縮と弛緩を繰り返す痛み。吐き気を伴うそれに耐えるラテの背をさすりながら、「ラテさん……病気なんですか……?」とベヴェルはおずおずと尋ねた。

 深い蒼の右目は苦痛で潤み、オーロラの輝きがより一層広がって見えた。


「んん……大丈夫だよ。病気みたいなものだけど、病気じゃないから」


 左目を覆っていた手を離すとラテはやや引きつった笑顔でふふっ、と。どうしてだか自虐的にも聞こえる声を漏らした。


「……時々こうなるんだ。ちょっとすれば治まるけどね。ベヴェルは喉だいじょぶ?」


 寝苦しいからと包帯を緩く巻き直そうとしていた時だったので、だらりとベヴェルの首に掛かる包帯には黄色のシミが爪痕を滲ませ広がっている。瘡蓋になるまではヒリヒリと空気が染みるが、ベヴェルには痛みそのものよりそれに纏わる出来事が決まり悪くてサッと雑に巻き直して傷を隠した。


「大丈夫です……このくらい。そのうち治ります」


「そっか……治ったらベヴェルの歌、今度聴かせてね」


 歌姫の名を継いだ声を。大切な人に希望を与えた心を。聴かせて欲しいとラテは言った。

 そのラテの声があんまりに優しくて、父と母と妹の顔が脳裏に浮かんで、胸が詰まって……。ベヴェルはすぐには言葉が継げず、込み上げた涙を鼻の方へ落とし込むのがやっとだった。


 《総譜》も見つからず、組織の手掛かりもない。当面はリベイグに滞在する事になるだろう。警察の捜査がそれ程進展しているとは思えないが、まずは落ち着いて情報を集めなければならない――その間にこの傷はきっと治っている。

 治って、跡形もなく。外からは分からないようになるのだ。

 記憶がなくても昨日まで普通の少女だった自分のように。今も外面上はただの人間で、魔術師検査にも引っ掛からない自分のように。

 癒えた傷の下は膿んでいても分からない。どす黒い思いを韜晦していようと気付かれない。だからこそ何ともなかったように取り戻せる物は多かった。けれど……。それでも……。ベヴェルの腹はもう決まっていた。


 組織を潰す――その為ならこの声だって……


「はい、聴いてて下さいね。あたしのとびきりの歌」


 闇を称えた聖女の声は高らかに。さながら銃声のように……




***



「くぁあああ~やぁあっと着いた―…」


 ボルガがグイッと背伸びをすると、心地良い潮風が吹いて真っ赤な花が踊るようにさらさらと髪が靡く。


 一行は馬車を乗り継いで、昼前にはリベイグに入り、やっと出立したジェボール教会への長い丘を登り切ったところであった。

 遠く見渡す海は煌めいていて、この景色を見るとあぁ帰ってきたのだなぁという気分になる。たった三年しかいないのに、ベヴェルにはここから見える風景がすっかり懐かしいものになっていた。

 シスター達に見送られてバイトに行き、一生懸命働いて、疲れて、また帰ってきて。時々売れ残りのパンやケーキを持ち帰ってみんなでお茶を飲む一時がとても楽しかった。休日だってミサの準備を毎週手伝ったし、神様なんて信じていないけれど、賛美歌を歌うのは嫌いじゃない。みんな誉めてくれたし、笑顔になってくれた。

 ベヴェルとして過ごした時間はかけがえのないものだったと、記憶が戻った今強く思うのだ。あの日々がなければ、きっとウィンメリーの記憶が戻った今正気じゃいられない。シスター達がいるから一人ぼっちの孤独からも救われていた……

 

「ベヴェル――!皆さ――ん!」


 感傷に浸りながら何となく海を眺めていると、慌てた様子でシスターがやって来た。


「シスター、ただい」


「ベヴェル、聞いてちょうだい!戻ってきたのよ、聖杯が!」


「へぇっ!?」


 ベヴェルの言葉を遮って、舞い上がったシスターは興奮気味に言った。


「あら…?貴方その包帯は?」


「い、いいのよこれは!それより聖杯が戻ってきたって本当!?」


「えぇ。今朝届いた小包に入ってたの。また盗まれるといけないから今は金庫に保管してあるわ」


「あの、小包の送り主は?」


 ラテが尋ねると「それが無記名だったんです。犯人が悔い改めてくれたのかしら」とシスターは満面の笑顔を作った。


「シスター、すぐに聖杯を見せて」


「何ですか帰ってきて早々。先ずはお部屋に荷物を置いてから」


「急ぎの用なの!緊急なの!」


「俺達からもお願いします」


 アドニスとエルディーが頭を下げると(心なしかばつが悪そうだった)、シスターはきょとんとして「はぁ…それでしたら…」と半ば流されて皆を先導した。



***



「こちらへ」と案内されたのは初めに来た時とは違う棟で、シスターはその一室に皆を通すと、「ここでお待ちください」と言ってその部屋のさらに奥へと続く扉に消える。

 カチャカチャとダイヤル式の金庫を開ける音がして、シスターが「お待たせしました」と持って来たのは、水色の透明感のあるグラスだ。淡く紫が入っていて神秘と幻想の流れが混ざり合ったようなグラデーションには、芸術に疎い者でも十分引き付けられる魅力がある。


「聖女ベヴェル・アクアがエクアレ王国より賜った品です」


 どうぞお手に取ってご覧下さいと言われ、ラテは巻き貝のようにくるくると捻れた柄の部分を持ってみた。

 光に透かして見ると青い色合いは海の中にいるような錯覚を覚える。

 美しい色だ。歌姫と称された彼女の声もこんな風に穏やかに透き通ったものだったのだろうか。

 ついうっとり青と紫の境界に目を奪われていると「なぁなぁ、それで『歌姫の生誕を祝え』って何すんだ?」とボルガがラテの肩を叩く。


「ん~…――あ!すみません、そこのグラスもお借り出来ますか?」


「えぇ、いいですよ」


「メージュ、こっち持ってて」


 シスターが食器棚から出してくれた方のグラスをメージュに渡すと、コホンとラテは咳払いし、


「それでは歌姫、ベヴェル・アクアの生誕を祝して」


 乾杯、と。軽くグラスとグラスを触れ合わせた。すると泡が弾けたような小さくも透明な音が響いて、その涼やかな音色が具現化したかのように空のグラスの中から蒼い蛍光色の音符が溢れ出した。


「おぉおおおお!すっげぇ!」


 ――課題クリア。


「これで次に進めるな」


 ラテの手首へと吸い込まれていった音符に、良かった良かったと皆ハイタッチしたり安堵の溜め息を吐いたりと、それぞれに《総譜》が完成に近付いた事を喜び合った。


「シスター、こちらのグラスありがとうございました」


「何だかよく分かりませんが……お役に立てて何よりです。ところで皆さん今日は教会で休んでいかれますか?」


「…あ…えっと……」


 楽譜を得るという目的は達したので直ぐにでも次の町を目指す事は出来る。しかしベヴェルが……

 今朝朝食の席で、彼女ははっきりと《総譜》完成の旅に自分も付いて行きたいと明言していた。けれどその彼女に、当分はリベイグに足留めされるだろうから結論を急ぐなと言ったのは自分達なのだ。旅に加わるにしても今日いきなりというのは余りに急だった。しかし――


「みんな先に食堂にいっててもらえませんか?話をしたらあたしもみんなと一緒に行きます」


 ――ベヴェルの決意は揺らがなかった。


「…分かった。行こう、みんな」


 心に決めたベヴェルの変わらぬ思いを悟り皆が部屋を出ると、ベヴェルは三年の月日を振り返るようにゆったりとした口調で言った。


「シスター、話があるの」



***



「お待たせしました~!長くなっちゃってごめんなさい」


 次の目的地へ向かうための段取りが進められていた食堂の戸を開く声は飲食店で聞いたのと同じ、明るくてさっぱりとしたものだった。けれどその目は泣き腫らされ、擦り切れたように鼻は赤い。


 ――あれから二時間。たっぷり時間をかけて、ベヴェルは教会にいる間一番世話になったシスターに旅立つ決意を告げた。

 記憶が戻った事と半分魔女になった事。言葉じゃ伝え切れない感謝の意。組織の事を曖昧にぼかす分別も当然弁えていた。

 あの馬車の中で、とうにベヴェルは何をどう話すか決めていた。けれどいざシスターを目の前にすると「シスター」と呼び掛けただけでぽろぽろと目から熱いものが零れて止まらない。ふと気付いたら胸の奥がずんと重くて、清らかな手に頭を撫でられながらひたすら噎ぶ事しか出来なかった。

 嗚咽に近い言葉は一つ一つが喉に絡まりなかなか出て行ってはくれず、やっと少し声に出来ても綯い交ぜになった感情のせいでちっとも上手い説明にはならない。元来の能弁で知恵の働く彼女の姿はどこへやら。泣きじゃくりながら片言で紡いだ言葉は子供の言い訳のように拙く。そして込められた感情がよく伝わるものだった…。


「いいのか……本当に?」


 椅子の背もたれに当たる木枠に乗ったアドニスが体ごとベヴェルの方を向いた。ドアを塞ぐように立ったベヴェルの後ろには大きなトランクがあるのも彼には見えている。


「えぇ。だってあたし、やられっぱなしは性に合わないんだもの。ウィンメリーの時からずっと。ベヴェルになっても。…生き残りとして組織をこのままにはしたくない」


 瑞々しい睫毛に縁取られた目に迷いは無かった。幼くも逞しい生命力に溢れている――だから生き延びたのだと思う。

 一人で耐え抜いたのだと。それが記憶喪失という形であっても、今日の今日まで彼女は生きた。

 シスター達の祈りの中でベヴェルは一人で立ち上がった。その支えをこんな形で手放すなんて彼女は不本意に違いない。

 だが沢山の物を失った事実を認めた彼女がそうすると決めたのだ。

 ならば自分達がしてやれる事は――


「ベヴェル、お前に渡す物がある」


「?」


 アドニスが言うと、ヘラヘラとした笑みの消えたエルディーが神妙な面持ちでベヴェルの前へ進み出て、すっ、とガンホルダーごと拳銃を差し出す。滅多に使う事がないが手入れだけはきちんとされていたような銃は新品同様の状態で、その禍々しい銀の光沢にベヴェルは言葉を失った。


「人間もマウスも同じに考えてる連中と戦うんだ。丸腰って訳にはいかねぇだろ」


 戦う――つまり、殺し合いだ。武器など触った事もない少女と、命を物のように扱い、花を摘むより罪の意識がない組織。無謀でしかない。しかし覚悟を決めたベヴェルは心変わりなどしないだろう。

 ベヴェルの気持ちはアドニスにもエルディーにもよく分かった。十二年前の自分達がそうであったのだから。

 頼りにする者が無くて。悲しんでいる余裕も無くて。この先生きて行ける気もしないし生きたいかどうかも分からなくなって……

 だから知っている。今のベヴェルに必要なのは信頼し合える仲間だという事も。


「……うん。ありがと」


 じっと何かを思案するような仕草をした後、ベヴェルは穢れなき手に銃を取った。


「それとこれもお前にやる」


 トップに指輪のついたネックレスがベヴェルの首に掛けられた。


「魔道具だ。こいつは扱い辛いが嬢ちゃんは器用だし根性もあると見た。きっと使いこなせるようになるぜ」


「……………」


「使えるようになるまで練習なら幾らでも付き合う。……俺も実験を受けたが、魔術師にはならなかった。だからこいつの世話になってる」


 エルディーの指には右手に二つ、左手に三つ指輪がはめられている。彼の風貌に馴染んでいたので単なる装飾品かと思われた指輪は、これまでも戦いを共にしている列記とした魔道具であった。


「実験で受容体が作られても、酵素活性が弱いままの嬢ちゃんじゃエネルギー不十分で基本的に魔法は使えない。その銃と魔道具でこれから戦うんだ」


 優雅に胸元で煌めくネックレスを暫し眺め、ガンホルダーに銃を固定したベヴェルは力強く頷いた。


「出発しましょう」


 様々な思いが詰まったトランクを持ち、ベヴェルはシスター達に見送られながら向かい風の中教会を立った。

 鐘は黙したかのように静かで、彼女に振り返る言い訳を与えはしないのだった。



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