(2)
「思い……出したの。あたしは、ここに住んでた」
破壊された町にあった唯一の生命の葉を撫でると、ぽたりと葉脈を伝い露が零れた。
黒く灰となる前、ここは商店も数える程しかない小さな田舎町。生き物を愛し、自然の力を借りて農園を営む人々が暮らした場所だった。ウィンメリーと名付けられたベヴェルも、日々家族と大地の生命と共に囁かな幸せを育んでいたのだ。
家族は父と母と妹。果物や花が大好きな両親はとても穏やかで優しくて、今思えば少し甘やかし過ぎなくらい娘二人に構ってくれていた。だから妹のミメリーはあんなに我が侭で聞き分けのない子になってしまったのだと思う。おまけに寂しがりで甘ったれで生意気で、自分の真似ばかりして張り合うから引っ張たいてやればすぐ泣くし。なのに両親ときたら自分よりも妹に構うから、ベヴェルはいつもそれが悔しかった。
けれど両親が妹に関心を払わねばならない事も本当は分かっていたし、自分でも妹の病体には心を配っていたつもりだ。何故なら体力自慢だったベヴェルとは逆に、妹は生まれつき病弱で小児喘息を患っていたから。
ベヴェルが近所の子と遊んで帰ると、日によって「ミィとも遊ばないとだめ!」か「ミィはウィンとなんか遊んであげないからね!」のどちらかを涙声の留守番係に言われた。万が一を考え、妹は天気の良い時も悪い時も基本的に一日中家に篭もっていた。その間、絵を描いたりラジオを聞いたりしていたが、とりわけ好きなのは歌だった。歌うのも聞くのも。とにかく歌。
しかし彼女は歌うと咳が止まらなくなったり呼吸が苦しくなる事が多く、ほとんど歌うのはベヴェルの役割だった。いつしかベヴェルは妹のリクエストに応えて歌うカセットテープになっていたが、歌うのは好きだから苦ではなく、むしろ歌えば妹が決まって笑顔になるのが嬉しかった。おやつで揉めた後も、喧嘩したせいで両親からこっぴどく叱られた後も。歌ってやればたちどころに機嫌を直す単純な妹を、その時ばかりは可愛いと思ったものだ。
妹のせいで切り分けられたケーキは小さくなり、父の膝は占拠され、母と一緒に風呂に入れる日が減った。だけどミメリーは大切な妹なのだ。
どうして自分がこんなに口八丁手八丁で気が強いのか。それは妹を守るため、なんて得意になっていた事もある。けれどいざという時、身を呈して妹を守る覚悟は自分の中に確かにあったのだ。あの時だって、だから、守ろうとしたのだ……――
月が朝に傾き出した深夜。突然にそれは起こったのである。
地割れのような轟音と共に畑に出来た幾多の轍。突如無数のトラックで現れた集団は町を取り囲み、ラジオでしか聞いた事のない銃声が安らかな寝息を裂いた。
何が起こったのか判然としない内、武装した兵士(軍服を着ていたけどどこの国のとまでは分からない)が怯える家の扉を乱射し、震え上がった人々を畜生を扱うように次々引きずり出す。
あちこちで悲鳴が断続した。
混乱と恐怖に負けじと勇敢に農具で立ち向かった人も賢明に町から逃走を図った人も、結局皆手足を縛られ、トラックに押し込められた。
ベヴェルの家も例外ではない。最初に銃声がしてからそう立たない内に招かれざる者達は大挙して押し寄せ、どかどかと無遠慮に階段を踏み抜き、「ウィン」「ミィ」のドアプレートが掛けられた部屋を強襲したのだ。
屋根裏に隠された幼い姉妹はどすの効いた怒鳴り声の直後、両親がばたりと倒れた音だけを聞き、ガタガタ身を寄せて小さくなる。どうして良いか分からず震える事しか出来ない。そんな彼女達もやがては兵士に見つかり、手足をばたつかせる有って無いような抵抗は虚しいばかりで、乱暴に睡眠薬を注射されてそこで急に意識は途絶えた…。
次にベヴェルが目覚めた時は、年が近い女の子だけが集められたトラックのコンテナの中。
冷たくて真っ暗な檻の中でしくしくわんわん、思い思いに少女達は皆泣いていた。幸い妹は寝坊助でベヴェルが起きた時にはまだ眠っていたが、目を覚ました途端やはりビィビイ泣いた。
両親はいない。妹は怖がっている。ならば自分が守る他にないじゃないか。泣きじゃくる妹の頬を優しく包み、ベヴェルはさえずるように歌い続け必死に宥めた。腹が減ったのも忘れて緊張で何時間そうしていたのかも分からない。とっくに夜が明けて昼になって、また夜が来ていたのかも。恐怖は時の流れを遮り、強烈な刺激に体の感覚を狂わされていた。
締め切ったコンテナの中の薄い酸素を分け合って吸う。長時間膝を抱え身を寄せ合っていた少女達の疲労は嵩んでいくばかりだった。しかしベヴェルにはぜぇぜぇと苦しげな妹を抱きかかえつつ焦りを堪え、いつかの機会を窺う他にない。
心折れる訳にはいかなかった――妹を、守らなければ。その義務感だけがベヴェルの支えだった。
そして拘束されてから随分とたった頃。ついに人道から隔てられた扉の鍵がガチャン、と落ちる音がする。
兵士達は一人また一人と荷物でも運び出すように少女達をトラックから下ろした。その時に悲鳴はない。叫ぶ元気も気力も彼女達は喪失してしまっていたのだ。
諦めが何よりの麻酔。しかしベヴェルだけは起きていた。隅に寝かせた妹を庇い、忍び寄る手の前に立ちはだかった。けれど所詮は子供。何とも無力に足蹴にされ、憎き敵の顔を見ることもなく再び注射を打たれたベヴェルは夢へと落とされる事となった。
「――もう一度目を開けたら、今度は手術室みたいなところだった……」
停止ボタンのないカセットテープのように、ベヴェルはただ記憶を再生し続けた。つらつらと同じ音量で、涙のノイズも滲ませず、まだベヴェルがウィンメリーであった日の事を。
「動けない私の周りを手術着の大人が何人も取り囲んでた。マスクでほとんど顔が見えなかったけど、そいつらあたしが途中で目を覚ました事に驚いてるようだったわ。そのせいかは分からないけど、そこでもう一度注射を打たれたの。でも今度のは今までの眠くなるやつとは違って、何にも感じなかった。感じない変わり、直ぐに体中からたくさん血が溢れてきて、それなのに全然痛くない……。何も感じなかった……。それですごく怖くなって……それで……」
ひとしきり遡行する思いを語り続け、尚言葉を紡ごうとした口はここにきて急に震え出し、歯がガチガチと音を立てた。ベヴェルはぎゅう、と自分を抱き締めるように、二の腕に爪を立てて、あと一歩を堪える。
「それでね、人の影になってて気付かなかったけど、隣の手術台にも人がいたの。……私の、妹。だけど、だけどその時……妹は、妹は――」
――ダメだ……もう限界だ。
つぅ、と一筋、頬に感情が線を引く。
「――人の形をしてなかったッッ!」
頭の中で封をした過去の悲鳴がこだました。
怖くて悔しくて悲しくて憎くて許せなくてそれらが寄り集まって、自分の中が破壊衝動で満ちていく感覚。ぼたぼたと溢れ出る涙の訳が分からない。ごちゃごちゃになった感情の高ぶりで苦しみもがくように変わらぬ過去を解き放つ。
「妹はほとんど顔がなかった! ぜぇんぶ溶けて骨が見えてたの! ひどい火傷したみたいに体中ぐちゅぐちゅになってて、上半身しかないし腕だって両方なかった! 首も胴にくっついてるんだか離れてるんだか分からなかったし、あたしの知ってるあの子じゃなかったのよ! でもそんな状態にされてあの子最後になんて言ったと思う? 『ウィンだいすき』って。……あの子はそれだけ言って、どろどろした血に溶けちゃったのよ! 助けてあげられなかったあたしを、大好きだって! あたし、何にもしてあげられなかったのに! だからあたし思ったのよ。せめてそいつらも妹と同じにしてやるって! 苦しませて苦しませて目も当てられない姿にしてやるって! そしたら不思議と力が湧いてきての。血だらけの体で暴れまわって、もっと血だらけになったわ! ……何人仕留めたかなんて覚えてないけど、気付いたら辺りは血の海で、あんなに沢山停まってたトラックも消えてた。その後は……もう覚えてない……」
ベヴェルは穏やかな青天を仰ぎ、涙越しに太陽を睨む。
「なんで……取り逃がしちゃったのかな。なんであいつら生きてるのかな。町の人みんなだよ? みんなただ一生懸命楽しく生きてただけなのにさぁ……なんでこんな目に遭うの? 赤の他人に殺されるとか意味分かんない。お父さんもお母さんもミィも、何にもしてないのに。ミィなんかまだ九歳だったのに……あたしだけ、生きて……。ミィ……」
零した涙がこの地を潤す事はない。
空は高く、平和な日と変わらず橙に太陽は輝く。その日を浴びる者はいないというのに。その恵みを授かる者は無法者によって無惨に刈り取られてしまったというのに。
「……っう…あ゛ぁ…ァアァアアァアア」
もっと自分に力があったなら。無力な自分のなんと情けないことか。妹を守れなかった後悔が深く深く胸に突き刺さる。
元気に遊びまわる事も出来なかった妹が死んで、十分子供時代を謳歌していた自分が生き残ったのは何故なんだ…。
腹の中身を吐き出しそうな程かっかして、あんなに怨んだ奴らの事も忘れていたなんて。それで今の今までこれからも生きていこうとしていたのか。
憎悪と絶望で真っ暗になる視界。
こんな自分に何が出来る。恨みを晴らしてやる事はもう出来ない。自分だけ生き残った事に何の意味があるんだ。どうせなら妹が助かって欲しかった。
どうして、何でこんな事になった! 何でこんな事が出来た! 命の尊さも知らない屑が! 傲慢で汚れたカス野郎!
許さない許さない許さない許さない許さない許サない許サナい許サナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ
「クタバリヤガレ畜生―――――――ッッ!」
人間の可聴域ぎりぎりの甲高い咆哮。金属を切断した時に似たキィイイイという脳を引っ掻かれるような音を伴い、ベヴェルは天に向かって叫ぶ。
まるで有害な音を圧縮して鼓膜にぶつけられたみたいだった。反射的に耳を塞ぐが事はそれだけでは収まらず、ベヴェルを取り巻く瓦礫が彼女を中心に同心円状に吹き飛んだ。
「ベヴェル……どうしちまったんだよ……!?」
「暴走して我を忘れている。チッ……これでは近付けない」
間近で聴けばその声量が尋常でない事は誰にでも理解出来る。
割れた窓ガラスの破片のような軽い物から弾痕の目立つ家具類まで。そこにあるあるものは大小構わず音速を越えて吹き飛び、或いは波動でぺしゃんこにされた。
それは襲い来る現実を拒絶し、音圧でそれを跳ね返そうとするかのように。泣哭するベヴェルの痛みが命を奪われた町全体を震わせた。
「今までどうして忘れてたの!? どうしてあたしだけ生きてんのよ!? 復讐すらしてやれないのに! 何にも、してあげられないのにッ!」
途切れる事のない衝撃波。
叫びに呼応し、波打ち、ベヴェルの声はどこまでも現実を壊す事に尽くされる。
波動自体に煽られその場に踏み留まるので精一杯だ。飛んできた瓦礫を避けるのもこう足場が悪いとなかなかに難しく、いつまでもつのかは怪しい――もうこの場を納める為の手立ては限られていた。
「……ベヴェル、ごめん!」
ラテの両手中指からしゅるりと純白の糸が伸び、それは衝撃波に阻まれない一筋の光となってただ真っ直ぐに。絶えず忌まわしい過去を呪するベヴェルの喉元へと絡み付いた。
「――ン゛ッ、くっ!」
音源のないところから音波は生まれない。きゅいと糸で絞め上げ、強制的に喉を封じる事で衝撃波の発生は止まった。
「今のうちに何とかして!」
「―ック゛……ア゛っ……」
興奮し過ぎてベヴェルは呼吸も上手く出来ていない。時々張りを緩める調節はしているが長時間首を絞めている訳にはどうしたっていかなかった。
「ベヴェル、聞こえるか? しっかりしろ!」
がらくたを掻き分け最初に辿り着いたボルガに抱き抱えられたベヴェルは、錯乱して糸を引きちぎろうと自分の首を引っ掻いている。その周りに皆集まり、苦しさから暴れる彼女を抑えつけた。
「嬢ちゃん、聞け!あんたは妹を守ろうとした意思に生かされたんだよ。ショックに耐えられるだけの力と、それを支える意思があったからあんたは生き残ったんだ!」
「悔しく無念で、辛くて悲しいのでしょう?奪われた物はとても大きい。だけど貴方の生きる意味も目的もこれから必ず見つかる。今ある物まで捨ててはいけない。どうか正気に戻って!」
「ア゛ッ―……ッウ…ア゛…」
だらだらと溢れる涙が、感情が、朦朧とする意識から理性を溶け出させていた。首には食い込んだ糸の痕と引っ掻き傷は痛々しく、今にも気絶しそうな程見開かれた緑の瞳は山火事のように爛れた赤。
「絶望するな! 俺達もお前と同じ立場にある。生きた事を後悔するな受け止めろ! お前が生きて理不尽と戦うというなら俺達が幾らでも手を貸してやる! 妹を勇気づけたその声で自分の生を呪うんじゃない!」
「~~~~~ッガ…ァ…ア゛ァッ!」
「失った者の愛に真に報いたいならお前がすべきは後悔でも諦観でもない。現実と向き合って生きる勇気だ!」
「俺達が絶対力になるから! だから諦めないでくれよ! 生きてて欲しいんだよ! 頼むからッッ!」
エルディーは嗚咽ごとベヴェルを抱き締めた。強く、強く、あの日の自分がそうされたように。傷付いたその幼く弱い者を抱きすくめ、ひたすらにその者が救われるよう祈りを捧げた。
「ア゛ア゛ァア゛ァア゛アアァアア~~~~ッッ!!!」
声の残骸のような悲痛な清音を最後に、ベヴェルはぐったりと思い出の地に伏した…――




