(1)
気まずい空気の上を再度入れ直したコーヒーの香りがゆうらりと循環した。たっぷりミルクが注がれた苦い波紋にころころと角砂糖を転がして混ぜ合わせるベヴェルは、じとっとした目で紅毛と黒羽を見る。
そして両手両足を椅子に縛り付けられたタレ目の男は目の前のコーヒーに手を伸ばせず、素知らぬ顔で自分だけコーヒーを飲んでいる黒鳥をベヴェルよりじとっとした目で見つめた。
「さて俺が話があるのはこの子供だ。秘匿性のある情報だから部外者には立ち退いて貰いたいのだが」
食堂に着席した全員を見渡すと、黒鳥はしなやかに傾けた首をストローから離す。
「この人達は聖杯が見たくてここに来たの!あんた達が盗んだりしなきゃ今頃見せてあげれたんだから部外者じゃないわ。みんなに迷惑掛けてんのよ!分かってんの!?」
「あぁ……それはすまないな」
狼が歯ぎしりしたみたいな声でキィキィ怒鳴るベヴェルから反射的に顔を背け、黒鳥は迷惑そうに言った。
「ところでそこのお前……いや、今はいい。本題に入ろう」
ちらとラテを見た目はまたベヴェルへと向けられた。
「結論から言って聖杯が今どこにあるかは俺達にも分かりかねる。何故なら聖杯を盗んだのは俺達の意思ではなくある人物からの依頼だったからだ。その人物は《終焉劇団》という組織の人間だとは名乗りはしたものの、聖杯を盗ませた目的も告げず行方を眩ませてしまった。その後の足取りは俺達にも分からん」
「けど、代わりに妙な情報を残して言ったんだ」
磔の男が言った。
「嬢ちゃんがここにいるって事と、それから《総譜》とかいう魔道具について」
「《総譜》……! その人、どんな人だった!?」
「香水と金の匂いしかしない男だったよ。歳は俺より少し上くらいだと思う。あんた知り合い?」
「ううん。知らない……と思う。だけどその人、確かに《総譜》って言ったんでしょ?」
「我々を妨害しつつ自分達だけ楽譜を手に入れる為でしょうか?」
「分かんない……」
シャンエリゼが訝しむが、ラテは頭を振った。
「ねぇ、他にはその人とどんな事話したの?」
「依頼については依頼者の名前や職業、その目的も聞かない事にしてはいるが、そいつは勝手に『組織の仕事だ』とペラペラ喋っていたな」
「俺達は裏社会で何でも屋さんをやってんのよ。報酬は金か情報。んでそいつは情報で払ったって訳。俺達がずっと探し続けてる奴に接触したかもしれない嬢ちゃんの話をさ」
「あたし…?」
「そうともよ。嬢ちゃんは記憶喪失なんだってな?」
「……そうよ。だから何?」
「体に異常はないか?特に血液に」
「血液?別にないけど」
「んじゃあ急に魔法が使えるようになったりは?」
「使えないわよ。あたしはただの人間だもの。何?あたしが記憶喪失だからってわざわざからかいにきた訳?」
声を荒げるベヴェルはあからさまに黒鳥を睨み付けた。
「その逆だ。お前の記憶を取り戻しにきた」
「はあ?」
「俺達はある人物の行方を追っている。お前の記憶の中には必ず奴に繋がる手掛かりがあるはずなんだ」
「人捜しなんか勝手にやってよね。あたしを巻き込まないでよ」
「そうか?見たところお前は記憶を取り戻したがるタイプのようだが。俺の見立て違いだったかな?」
「ふん。だとしても泥棒の手助けなんかいらない」
「でも嬢ちゃん、もしあんたの家族や知り合いが全員殺されて、嬢ちゃん自身も殺されかかってて、さらにさらに大量殺戮がこれからも繰り返されるのが“確定してる”って知ってもまだそんな悠長な事言うのか?」
「何よ……その最っ低な冗談!」
理性が言葉を失って途切れる。
今度こそ頭にきた。言っていい冗談と悪い冗談があるだろ。
記憶が無くて帰る場所も分からなくて、家族に捨てられたと悲観したり、大きな事故に巻き込まれて離散してしまったのかもと不安になったり、全身に残っていた湿疹を思い出す度病気になったんじゃないかと怯えて過ごし、時々夢に見る自分の死体に嫌な予感を引き摺って、それでも一人で頑張ろうと決意したのに。そこから貯金を始めて、やっと記憶を探す生活への道が開けたというのに。どうして他人からこんな冷やかしを受けなければならないんだ!
「人を馬鹿にするのもいい加減にして! 窃盗の次は中傷? 何なのよ、ほんとに!」
ベヴェルはコーヒーがひっくり返るのも構わず机を殴り付けた。
まるで夢の中のように痛みがない。だが目覚めた時のように呼吸が荒くて、胸の真ん中がすごく痛かった。寒気がして吐き気がして――涙が出そうになる。
「冗談なものか。現に俺達の町が殺戮の現場となった後、少なくともお前の住んでいた場所でもそれは起こった。……覚えていないだろうがな」
黒鳥はハァ、と大袈裟に溜息を吐いた。すると
「それ、どういう事だよ」
と、もはや言葉を発する事も出来ない程胸の痛みを抱えたベヴェルに代わってボルガが吠える。
黒鳥は暫し考えるように目を閉じた後、やがて 重々しく、しかしはっきりした声でこう言った。
「――人を魔術師にする実験。……その犠牲が、俺達と死んでいった奴らだ」
「どこのどいつか知らないが、そういう実験を繰り返してやがる連中がいるんだよ。戦争に紛れて町や村の人間を使ってな。被験者の多くは実験の失敗で死んじまうんだが、俺達や嬢ちゃんみたいに生き残れた奴もいる」
「じゃあ……仮にそんな事が起きてたとして、どうしてあたしが実験されたって言い切れんのよ」
「何故かは知らんが聖杯の窃盗を依頼してきた奴が俺達の過去を詳しく知っていた。だから奴から聞いたお前の話も、恐らく事実だろう」
「そこで提案なんだけどさ、これから嬢ちゃんが住んでた町に行ってみない?何か思い出すかもしれないし、思い出せないにしても興味はあるだろ?」
「何ならお前達も来るといい。子供一人俺達に預けたのでは不安なのではないか?」とこれ見よがしに黒鳥は皆の抱いた疑念を突いた。
「ベヴェルが行きたいなら付いてくよ」
ラテは落ち着かない様子のベヴェルの肩をそっと抱き「ベヴェル…どうする?行きたい?」と優しく語りかける。
するとベヴェルは苦しげに胸を抑えながら、静かに頷き決意を口にした。
「……行きます」
***
表通りで馬車を拾って、そこから山を一つ越え二つ越え。五人と一匹では店員オーバーなのだが、馬を休ませる為に途中休憩を長く取る事と運賃を割増(墓泥棒の懸賞金の一部をこれに当てた)する事を条件に何とか馬を走らせて貰える事になった。
馬車の中は初夏の爽やかな風を吹き飛ばす台風の如くぐるぐると低い温度が渦巻き、ベヴェルは不安げに俯いていた。
今までこんなに遠くに来た事はない、とベヴェルは言う。しかし記憶を失う前のベヴェルは馬を飛ばしても四時間以上掛かる道のりを身一つで歩き切った(らしい)のだ。一体何が彼女をそうさせたのか。知らされた過去は未だ信じられない。
魔女を作る――というのは日常に暮らすベヴェルのような小市民にとって、及びもつかない思想だった。科学的知識を独占している先進国でさえ、そこに暮らす多くの人々が抱く魔術師への認識は、かつて大昔の人々が描いた純然たる異形への恐怖や羨望と大して変わりがないのだから。
ヒトを作り賜うた神への反逆。どんな神経でそんな大それた真似が出来るのか。ヒトを犠牲にして…ヒト成らざるものを作る。そんな行いが……――
終始無言が貫かれた。
各々が瞑想に耽り、清廉な海が見えなくなって秘密を隠した山の中へ。
そして馬車は、やがて長い長い道のり先にゆっくりと止まる。まだ空の青いうちに到着出来たのは良かったが、狭い空間から解放された喜びはさわさわと野山を吹き抜ける風と共に何処かへ消え去ってしまった。
そこに町はなかった。
山を切り開いて出来た小さな町はどこにも見当たらない。あったのは片付けられていない瓦礫の丘と、裂かれ抉られぐしゃぐしゃになった田畑。
「ひっでぇ……」
ボルガが思わず零した一言。
本当にその有様は酷いものだった。木造住宅が多かったのか、炭の塊になってしまった柱が多数あり、とっくに炎の記憶が風化したそれらからも焼けた匂いが蘇って来るようで。
「大きな火事があったようですね」
シャンエリゼの言にラテはさめざめと頷き、言葉を失い呆然と立ち尽くすベヴェルに胸を痛めているのか、とても静かな反応を見せた。
「火事は火事でも放火だ。俺らの時もそうだった」
物憂げに炭化した瓦礫に触れれば簡単にぱらぱらと崩れて灰になる。手を拳の形にして苦々しく呟いたエルディーの脇を通り、ベヴェルは瓦礫の上を歩いた。人々が暮らした思い出を灰にしながらぼろり、ぱらり。不安定なそれよろけながら進むと、そこかしこに焼け残った金属や家の土台なんかを見つけた。レンガで出来た建物には一面煤が付いているが、まだ壁として残っているものもあった。しかし殆どはやはり損傷が酷くハンマーを持った巨人が無差別に暴れまわったが如き有り様で、破片はまるでぼろぼろに砕かれたビスケットのよう。
酷い。本当に酷かった。
ここにあるのは古城にあるような寂寥感ではなく時代のもの悲しさでもない。無念と叫喚。暴力に抗う術の無かった人々の苦しみだった。生々しく残された生活の跡が余計に胸を締め付ける。
ここに自分がいたというのか。こんな、こんな酷い場所に……――
壮絶な景色に目を疑いながらベヴェルはさらに進む。すると瓦礫に埋もれるようにして小さな花壇から葉が出ていた。二つの茎はそれぞれ開きかけの淡いピンク色の蕾をつけている。
「Wi……n……merry…?」
誰かの名前だろうか。
花の手前に、元の色はしていない酸化した金属プレートが挿してある。
『Winmerry』と読めるプレートの隣には、同じく『Mimerry』と書かれているプレート。
「――……っう゛ぅ!」
思わずその場に身を屈めてうずくまる。唐突に頭の中で何か弾けているようにズキン、ズキンと痛みが走った。
「…う゛~…ッ…」
痛い。痛い。だけど何か思い出しそうで。
(――ミメリー……?)
どこかで聞いたような名前。
シスターの誰かではない。じゃあバイトで知り合った人?……違う。もっと前。もっと近くにいた人。
記憶が縺れる。連続でシャッターが下ろされたように頭の中で次々画像が切り替わった。
白いペンキが少し剥がれた広いベランダ。花や植物で溢れた部屋。二段ベッドと掛かる梯子。甘い香りを吸い込んだ苺園。土の付いたエプロン。一つだけのブランコ。お揃いの服や髪飾り――全部知ってる。全部自分が感じてたもの…
そのうちに画像は映像となり、声までもが加わった。
『ウィン、ミィ。このお花の種を二人で育てご覧なさい。もしちゃんと出来たら売り物の苺を一列、あなた達に任せるわ』
懐かしい声……。とてもあったかい。笑顔が優しくて、いつも太陽と土と花の匂いがしていた。
『えー、どうせ育てるなら苺がいい』
『ミィはお花でいいよ! ミィお花好きだもん! お花綺麗!』
明るい髪の女の子。髪型から服装まで自分によく似ている。小さな体を目一杯使って飛び跳ね、種を持った女性に飛び付いた。
『バカね。苺は花も付けるしその後食べられるのよ? 苺のがお得じゃない』
『ふふっ、ウィンは栽培より経営の方が向いてそうね』
すべすべした指の長い手が髪に触れる。触れられた感触。
「………っぅ……あ゛ぁっ!」
痛い……痛い、痛い…ッッ!
「ベヴェル……!?」
「どうした!」
頭に釘を打ちつけられたように痛い。痛い、痛い痛い……これは忘却で固めた記憶が砕かれ、戻っていく痛み……
「ベヴェルしっかりして!」
「あ゛ぁああぁああああああ~~~ッッ!」
あまりの痛みに絶叫する。頭だけがとにかく痛い。浮遊感。手足がぶら下がっているだけのような感覚を失った感覚。
「ベヴェル!ベヴェル!」
聞こえない。今聞こえている音は何も。
『ウィン……』
『ウィン……ねぇウィン……』
自分の中の悲鳴と共鳴する。チクチクと心を刺す声は、溶けて……
『ウィン……――』
『 』
ガツン……
「―――――――!」
記憶の最後の一欠が砕けた。
「ベヴェル……!」
「……ち、がう……」
発作を起こしたように突然苦しみ出したベヴェルが、自らの膝に埋めていた顔をゆっくりと上げた。
「ちがう。…あたし、……」
小さく掠れてひっくり返った声が途切れ途切れに。
「あたしはウィンメリー。……ぜんぶ、思い出した……」




