蝉の声が聞こえるうちは
彼女との出会いはただ一度、蝉時雨の降りしきる、夏の昼下がりのことだった。初めて見た彼女の印象は、とても同じ人間とは思えないほど無機質で、風になびく絹のような漆黒の髪は、ウェヌスのそれよりも美しかった。表通りの交差点。その向かい側に、彼女は一人、ぽつんと佇んでいた。夏の日差しの一切を拒絶するように厚手のワインレッドのドレスを身にまとい、シルクの白い手袋を嵌め、黒いフェイスベールを垂らし、肌の露出は限りなくゼロであった。顔は見えないのにその佇まいから気品を感じる。贈答品の包装のように、何重にも肌を覆い隠す衣服。それでも、彼女の冷たさだけは隠し切れていない。彼女の周囲には異質なまでに冷ややかな空気がこびりついていた。美しいはずなのに、吐き気にも似た強い不快感が私を襲う。何か良からぬものを見ているようで、目をそむけようとする私。刹那、彼女のベールが風になびいて、艶やかな唇が目に入る。私の願いはかなわず、胸に詰まっていたおぞましさとともに蝉の声が消えた。
表通りの交差点、ただ茫然と立ち尽くす。私はどれほどの時を過ごしたのだろう。寸陰とも悠久ともつかぬ時間が、私の感覚から抜け落ちていた。気が付いた時にはあたりは薄暗く、人影もまばらになっている。彼女の面影はなく、骨の髄まで凍える空気は、今やじとじとした周囲の熱気と同化してしまい、二、三人の若者が生き生きとその空気を搔き分け歩いてゆく。カナカナという鳴き声だけが、過ぎた時間を感じさせる。夢か幻か、彼女はそこにいたのだろうか。それでもこれだけは断言できる、彼女を知るのは、世界中で私だけであると。
あの異様な体験を書き表すには人の語彙では何もかも足りない。彼女は何者だったのだろうか、美の天使ジョフィエルに侍る御使いにも、堕天したアスモデウスの化身にも、天使なのか、悪魔なのか。私には、それ以外の言葉で表すことはできない。それでも、こうして拙い文を書き残す他に道はなかった。喉元までせり上がる巨悪を煮詰めたような塊を吐き出して、この恐怖を分かち合ってくれる共犯者を、私は知らない。ましてや、胸の内に飲み込む程の勇気も無いためだ。
私は怖い。酷暑日だというに、暖房を入れ、羽毛布団に身をくるみ、肌の一切を外気に触れさせまいとしても、あの恐ろしい冷たさが心臓に突き刺さる。薬局で買った睡眠薬をアルコールで胃に流し込み、無理やり眠りにつこうとも、脳裏に焼き付く彼女の姿が、その醜悪な美貌が、私の安眠を日々奪い去る。
アスファルトを焦がすような日差しが、天窓から差し込む。それでも、私の内から漏れ出る冷気には敵わない。静かな夜が来るたびに、昼間の騒音が恋しくなる。あのうるさい蝉の声の他に、私が夏のぬくもりを感じる手立ては残されていない。ここ最近の日課は、こみ上げる胃液とわずかばかりの食事の残滓をトイレに流し込むことである。私はこの先、生涯かけてこの寒気に脅かされるのだろう。しかし、死を突き付けられるよりも恐ろしいものがある。私から平穏な日常を奪い去ったあの女への恋慕が、今この時でさえ胸の内で燃え焦がれているのだ。
もうすぐ夏が終わる。刻々と私の体を蝕む悪寒は思考さえも凍てつかせる。彼女への猛る想いが脳にこびり付いている。いよいよ明日にでも、死神が喉元に突き立てた鎌を引き抜くやもしれない。私は脳の異物を溶かすため、温もりを求めて耳を澄ます。彼らの熱いプロポーズを聞いてるときだけ、私はこの恋を忘れられる。そう、蝉の声が聞こえるうちは私は私でいられるのだ。




