孤独の中の神の祝福
ボクの朝は、いっつもベーコンがやけるいいにおいではじまるんだ。
フカフカなベッドからおきるのはツライけど、朝ごはんを食べられないのはもっとツライ。だからボクはちゃんとおきて、ママにおはようって言う。そうすると、ママはニッコリわらっておはようって言いながらボクの頭をなでてくれる。
ボクよりはやおきなパパは、コーヒーをのみながらしんぶんをよんでる。コーヒーはにがいし、しんぶんはむずかしいし、パパはなんでのんだりよんだりするのかボクにはわからない。パパは、もっと大きくなったらボクにもわかるって言ってたけど、ボクがコーヒーを好きになることはないと思う。
大好きなこんがりやけたベーコンと、サクサクなパンと、オレンジジュースを食べてるとオネエチャンがおきてくる。
オネエチャンはあわててパンを食べたりジュースをのんだりしていそがしそう。ボクが食べおわるときにはオネエチャンはもうげんかんでいってきますを言ってる。
そのあとにパパがいってきますをして、ボクはいちばんさいごにいってきますをする。ママがわすれものはないか聞いてくるけど、ボクはいいこだからわすれものなんてしない。
いってきますって言うと、いってらっしゃいってママがぎゅってしてくれる。ちょっとはずかしいからボクはいそいでおうちを出る。でも、ほんとはとってもうれしい。
いっかげつまえからがっこうに行ってるけど、がっこうはとってもたのしい。トムと木のぼりしたり、ベンたちといっしょにサッカーしたり、このまえはがっこうの近くにある森にひみつきちを作った。べんきょうはあんまり好きじゃないけど、いっぱいべんきょうするとママがよろこぶからボクはがんばる。
がっこうがおわったらトムたちとひみつきちに行く。でも、あんまりくらくなるまでいるとママがしんぱいするからはやくかえるように気をつける。まえにまっくらになってからおうちにかえったらパパにすごくおこられた。ママにはつよくぎゅってされた。
パパもオネエチャンもくらくなってからかえってくるのにボクだけダメなんてずるいと思ったら、パパは大きくなったらいいよって言った。大きくなるっていいなあ。
ボクははやく大きくなりたい。ママとパパとオネエチャンにすごいって言われたい。
大きくなったらなんでもしってるすごい人になるんだ。だれもしらないことをボクだけしってる。大好きなママにいろんなことをいっぱいおしえてあげるんだ。
僕の意識はそこで現実に戻された。
質素な二段ベッドの上段で目が覚めた僕は、額に浮かぶ汗をタンクトップの裾で拭いた。窓を開けようと軋むベッドの梯子を降りる。床に散乱している物を踏まないようにつま先立ちで窓まで辿り着き、立て付けの悪い窓枠を力任せに押し上げる。
部屋の中よりは幾分爽やかな夜の風が髪を撫で、机の上の用紙を一枚ひらりと舞い上がらせた。
椅子の上を占拠する資料の山を床にどかし、窓際までどうにか椅子を持ってきて普段とは逆向きにまたがった。背もたれに両腕をのせ、その上に頭をのせる。目をつむると心地よい風を感じた。それと共に幸せだったあの頃の思い出が瞼の裏に蘇る。
ずっと続くと思っていた幸せは、そう長くは続かなかった。ずっと続く幸せなんて、この世には存在しないのかもしれない。
僕の身長が母に近づいてきた頃、父が事故で亡くなった。不運としか言いようの無い事故で、責めるべき人は誰もいなかった。行き場の無い憤りが母の、姉の、そして僕の身体に積もっていった。やがて母は、その重みに耐えきれなくなった。
身体を壊した母は、目に見えて弱っていった。あと少しの力が加われば簡単に崩れてしまいそうで、僕は必死に母を支えた。姉は学校を辞め、一人働きに出ることになった。幸い、ある程度の貯えはあったためすぐに困ることは無かったけれど、僕は進学を諦めた。
立ち上がり、机の上の論文に目をやる。
一人になってからもあの時の想いだけを胸にやり続けてきた研究の成果がその論文には書き記されていた。
誰も知らないすごいこと。僕だけが知っているすごいこと。この論文が世に出れば、世間の常識は引っくり返るだろう。今まで僕に見向きもしなかった人たちが皆僕に注目するに違いない。
一番に母に教えられなかったのが、父に、姉にすごいと言ってもらえないのが悲しいけれど、きっと祝福してくれているだろう。
パパ、ママ、オネエチャン。僕は一人でも立派にやっているでしょう?
日記の最後のページを読み終え、静かに閉じる。あの頃の私にしては奮発して買った重厚な皮の日記帳は、半分も使わないうちにしまい込んでしまっていた。
あれから。私が論文を発表したその時から。私の生活は一変した。とても良い方向に。
私の論文は世界中の注目を集め、幾度となく議論が交わされ、賞賛された。私の毎日は日記に書けるほど少なくなくなった。
世界中を飛び回り、議論という議論を駆け巡り、走り回るうちにあっという間に歳を取った私は一人の女性と出会った。忙しい私を癒す彼女は母のようで心地良かった。
私と彼女は結ばれた。一人だった私にもう一度家族ができた。
二人から始まった家族は、三人に増えた。そして、三人になった家族に新たに一人家族が増える。
私と娘がパンを齧る。こんがり焼けたベーコンを片手に彼女が私に微笑かける。お腹の子が動いたらしい。私はそっと手を添えて、小さな鼓動を感じる。元気な男の子が産まれますように。
二人の子供には私の持てる知識を沢山教えてあげよう。興味を持ってくれたら嬉しい。
そうだ、日記をつけよう。半分を残して忘れてしまっていた日記帳に、今の幸せを書き記そう。ずっと続くように。
暖かな春の風が窓から入り、娘の髪を揺らす。私は大好きなベーコンを口に入れた。
――カプセルの上面がスライドし、私は覚醒した。
真っ暗な部屋には青い光を放つカプセル型の機械がただ一つ鎮座するのみ。私はその機械の中でぼんやりと漂っている。徐々に意識がはっきりしてきて、粘ついた気持ち悪さがこみ上げる。
薄いブルーの液体に沈めていた身体を起こし、ゆっくりと肺に空気を満たした。埃っぽいその空気に顔をしかめつつ、「DREAM」から這い出る。濡れた身体を気にせずに「DREAM」のブラウザを空中に展開した。青い文字でタイトルが書かれたCDのような物が次々と浮かび上がる。
それらは、「DREAM」に内蔵されている数万を超える人生の記録。今しがた経験したばかりの記録が赤い文字で表示されていた。
「ジョン・ベイリー」それがほんの数分前までの私の名であった。不幸はあれど、夢を追い続け成功した私は、家族に見守られる中静かに死を迎えた。私のジョンとしての人生は、満ち足りた幸せなものとして幕を閉じたのだった。
ブラウザに手をかざし、次の人生を探す。医師、教師、音楽家、科学者に哲学者。大統領となり一国を治めたことも、軍隊に所属して戦争をしたこともある。
私は何にでも誰にでもなれる。私は何にでも誰にでもなった。
「ヘラ・クレヴィング」の名にふと目がとまる。ドイツの有名デザイナーだ。彼女の経歴を流し読み、彼女がどのような人生を送りどのような死を迎えるのか確かめる。もっとも、これらの経歴に関しては「DREAM」に入った瞬間忘れてしまう。がしかし、これからの人生を選ぶ際に失敗はしたくない。ヘラの経歴は起伏に富み、中々に愉快な人生を送れそうだった。男性としての人生が続いていたところだ、今度は女性として生きるのもいいだろう。
私はその記録を選択して「DREAM」を起動させる。低い機械音が響き、青い光を放ち始め、中に満たされた液体がまるで生き物の様にうねる。モードの設定や必要な操作をすぐに済ませ、カプセルの縁に腰をかけ足先を液体に浸けてその感触を楽しんだ。
軽いブザー音が記録の読み込み、設定が終了したことを告げる。私はブザーを聞くやいなや、一気に液体の中へと沈みこんだ。
全身をひんやりとした液体が包みこみ、初めの一息で肺の中までが満たされる。心地良いその感覚に、私の意識は次第にぼんやりと辺りを漂いはじめた。極限まで引き伸ばされた私の思考は――
二〇五五年。私たちは、戦争も殺人もイジメも、愛でさえも「不平等」が生み出すものとし、「人類から不平等を無くす」取り組みに躍起になった。
二〇五八年。あらゆる研究がなされ、出された結論は「個人の個性を消滅させる、もしくは他人との関わりを一切無くすことにより世界から不平等は無くなる」といったものだった。
二〇五九年。医療用マシン「DREAM」が試用開始となった。「DREAM」は、特殊な溶液によって脳に直接働きかけ、様々な「夢」を見させる装置である。夢の中では現実とほぼ同じ感覚で思考・運動ができ、その経験を脳に記憶しておくことが出来るため、身体麻痺患者や高齢者のリハビリ・精神ケア等に大きな効果をもたらすと考えられていた。
二〇六八年。反対する多くの人々をその倍以上の人々が抑えつけ、医療用マシン「DREAM」の民間使用が許可された。個人の脳内に、無限の世界を創りだすことの出来る「DREAM」は、私たちから「不平等」を無くす特効薬として崇められた。初めはお金を持った一部の人々が、それから徐々に民間人が、「DREAM」の世界へと浸っていった。
二〇七〇年。当初反対していた人々も、2年足らずで「DREAM」の虜になっていた。人間が居なくとも機械は動き、食料やエネルギーなどの問題は無かった。それほどまでに私たちの文明は発達しきっていた。だからこそ、私たちは我先にと「DREAM」の中へと逃避していった。その中に幸せがあると信じて。
二一〇二年。人類が未だ「DREAM」の中を生きているのか、それともとっくに滅亡してしまったのか私にはわからない。「DREAM」の中にいて、子づくりなどできるのだろうか。できなければ、人類はきっともうすぐ滅ぶだろう。それとも人類は、新しい生命体として生まれ変わるのか。私にはわからない。
カプセルが完全にロックされる音を合図に、私は私でなくなった。
ご一読ありがとうございました。
タイトルの「孤独の中の神の祝福」は、フランツ・リストの同名曲からお借りしました。
このタイトルに合った話を書こうと思い、始めたのですが、とんでもない方向に着地してしまいました。
タイトルが浮いているような気もしますが、このままで。
少しでも面白いと感じて頂ければ幸いです。