第〇話
|年代記
史書より抜粋:ライツシアド王国建国記
[初代ウェーバー家当主アトランは、凍土に最初に定住した者たちの一人である。彼は梟を神の使者と讃え、民と共に労働し、共に祈りを捧げた。その統治は慈悲深く、民衆は彼を父と呼んだ。]
騎士団古文書より
[「私は神と共に生き、民と共に歩む」。これはライツ騎士団初代総長ヴァルナント・ガヴァンが神に誓った言葉である。梟の旗の下、我らは純粋な信仰心と騎士道精神に燃え、民衆の盾となることを誇りとしていた。]
アルバート・アヴ・ウェーバー言行録より
[「僕は神などというものには、とんと興味がない」──どういうわけか。彼はこの7年間のうち、『自己神聖化』とも取れる発言を幾度となくしてきた。彼は、こうとも残している。「僕と君たちとの違いは、信仰を目的とするか、手段とするかだ」]
──
これらの記録を読む時、現代の我々は一つの疑問を抱かずにはいられない。この「純粋な信仰心」「騎士道精神」とは、果たして彼ら自身の内なる善性だったのか。それとも、当時の社会が彼らに期待した役割だったのか。
アトランが民と共に労働したのは、彼が本質的に善良だったからだろうか。それとも、新天地での生存がそのような協調を不可欠としたからだろうか。
アルバートの「自己神聖化」とは、なんなのだろうか。これまでの当主たちが、程度の差こそあれ神への信仰に支配されていたのに対し、アルバートは信仰そのものを意識的に利用しようとしている。
これは堕落なのだろうか。それとも成熟なのだろうか。
歴史は常に、行為者の内面ではなく、その行為が置かれた文脈を記録する。そして文脈こそが、善悪の判断を決定するのだ。
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|人物誌
後世の史家たちは以下の人物を様々な名前で呼んだ。英雄、悪役、犠牲者、策謀家——だがそれらの評価は、評価する側の立場と時代背景によって容易に入れ替わる。
重要なのは、彼ら自身がどう感じ、どう選択したかである。その瞬間こそが、人間としての尊厳が最も鮮明に現れる時なのだから。
《アルバート・アヴ・ウェーバー》:独裁者
彼の金髪と黄金の瞳は、まるで凍土に降臨した神話の具現であった。
いつも彼の動機にあるのは底知れぬ好奇心だ。
それが頂点に達した時に起こる「暴走」は、無垢であるがゆえに恐ろしい。
彼の殺戮は、舞踏だ。支配は、旋律だ。すべては退屈を葬るための遊戯であり、彼の心に響く唯一の詩である。
興味深いのは、彼を「最低最悪の独裁者」と呼ぶ記録と「至高の指導者」と讃える記録が、しばしば同じ出来事について書かれていることだ。
彼の行為自体に善悪があるのではなく、その行為を受ける側の立場によって評価が決まるのである。
《ウィリアム・ガヴァン》:最後のライツ騎士団総長
ウィリアムは「関係性の罠」の典型的な犠牲者と言えるかもしれない。
指導者としての責任感、人間としての良心、本能的な恐怖——これらが矛盾し合った時、彼はどれを選ぶべきか分からなくなる。
彼の「優しさ」は、立場によって異なる評価を受ける。部下にとっては「慈愛」だが、上司にとっては「甘さ」であり、敵にとっては「弱点」である。
だが重要なのは、これらすべてが真実だということだ。
《サーシャ・ネフスキー》:英雄「春呼び」
彼は英雄にも関わらず、世界に対する深い諦めと猜疑心を孕んでいる。
貧民だった頃の彼と英雄になった後の彼は、同一人物でありながら全く異なる存在として扱われる。
それは彼の人格が変わったからではなく、彼を見る視線が変わったからだ。
そしてその視線こそが彼を変質させた原因である。
英雄として消費される一方で彼自身の人格が消えゆくさまは、記号化される人間の痛々しさを体現する。
──
三者の関係性について、実は三人とも異なる方法で「関係性の束縛」から逃れようとしている。
アルバートは関係性を「創造」することで本質的な距離を置こうとする
ウィリアムは「忠誠」という絶対的な価値に逃避しようとする
サーシャは「諦観」によって感情的な距離を保とうとする
だが皮肉なことに、その試み自体が新たな関係性を生み出し、新たな評価の対象となってしまう。彼らの「自由」への渇望は、結果的により複雑な束縛を生み出すのである。
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…さて、そろそろ説明にも飽きてきた頃だろう。
きっと君たちは僕の「記録」になど興味がないのかもしれない。
それは少し寂しいことではあるが、同時に、記録とは所詮は文字の羅列に過ぎないことも事実だ。
真に重要なのは、その文字の向こう側に息づく人間たちの営みである。彼らが生きた時代の空気、肌を刺す寒風、心を蝕む恐怖、そして胸に宿した希望──それらを感じ取らなければ、歴史の本質は見えてこない。
では、我々も彼らの時代へと足を踏み入れてみよう。
たとえ一度の生涯で実現できなかったとしても、彼らが心で決める瞬間を祈りながら。