表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第1章:静寂に沈む船出
9/66

7、青い蝶の少年(前半)

 

 港に着いたことは、警笛よりも先に、空気のにおいでわかった。


 潮の匂い、錆びついた金属の匂い。それに、どこか焦げたような、街のにおい。

 扉の向こうから、ぼんやりとした曇天の光が差し込んでいた。

 名前を呼ばれた子どもたちは、監視官の命令に従って、ひとりずつタラップを降りていく。


 私もその列の中にいた。

 重たい足音が板張りの甲板に響いて、息づかいがそれに重なった。

 ふと後ろを振り返ると、ルーカンが数歩うしろにいた。

 彼はやっぱり、あの表情をしていた。何も語らず、でも、すべてを知っているような目。


 外に出ると、空は灰色で、地面は濡れていた。

 雨は止んでいたけれど、波の音に混じって、どこかから海鳥の声が聞こえてくる。

 港の端に並べられたベンチには、数人の大人が立っていた。

 誰かの親かもしれないし、施設や教会の関係者かもしれない。


 女の子がひとり、腕を伸ばして母親らしき人に駆け寄り、泣きながら抱きついていた。

 少年のひとりは、見知らぬ僧服の男に、何も言わず手を引かれていった。


 まるで、夢を見ているようだった。

 それも、自分とは関係のない、他人の現実の夢。


 私はただ、それを見ていた。

 手の中に握りしめていた紙切れのような、ちっぽけな希望や不安が、風に吹かれて飛びそうだった。


 ――そのときだった。


「カン、カン」


 乾いた金属音が響いた。

 誰かが鉄板を打っているような音。

 子どもたちの動きが止まり、一斉に視線がそちらに向かった。


 音がしたのは、船の横腹に取りつけられた鉄の階段だった。

 誰かが、そこから引きずられるようにして現れたのだ。


「……誰?」


 誰かが小さくつぶやいた。


 最初に見えたのは足だった。裸足。

 細く汚れた足首には、錆びた鉄の輪がはめられている。

 次に見えたのは髪――白金。光のない水の底で育ったような、青白い肌。


 少年だった。私たちと同じくらいの年齢だと思う。

 でも、明らかに何かが違っていた。


 その目。

 氷を溶かさずに透かしてくるような、冷たくて、脆くて、それでいて鮮やかな――青。


「……蝶、みたい」


 気づけば私は、そうつぶやいていた。

 色のない世界に、ほんの一瞬だけ舞い降りた、冬の蝶。


 少年は引きずるようにして階段を降り、監視官に押されるまま、どこかへ連れていかれた。

 目的地も知らされず、理由も聞かされず、ただ命じられるまま。


 誰も声をかけなかった。

 ルーカンも、倫も、黙っていた。

 言葉なんて追いつかないものが、あの場にはあった。



 その夜、食堂にその少年が戻ってきた。


 みんなで食事をとることになっていたのに、少年は部屋の隅にしゃがみこんで、膝を抱えていた。

 濡れた白金の髪が額に張りつき、目だけが一点を見つめている。

 誰も、近づかなかった。

 空気が、びりびりと張りつめていた。


 私は、トレーを持ったまま、少し迷って――それから、そっと歩み寄った。


「……おなか、すいてないの?」


 答えはなかった。

 ただ、少年がゆっくりと、こちらを見た。

 その瞳に映った自分が、すごくちいさく見えた。


「ジュース……」


 かすれた声だった。

 私は思わず聞き返した。


「オレンジジュースじゃなきゃ、やだ……」


 わがままに聞こえるかもしれない。

 でも、それは――祈りみたいだった。

 誰かに、何かを望んでほしい。

 そう願っている、小さな抵抗。


「……ここには、ないと思う」


 私がそう言うと、少年は顔をそむけた。

 さらりと、髪が揺れた。


 ルーカンが近くでそれを見ていたけれど、やっぱり何も言わなかった。


 そして――


「僕が、もらってくるよ」


 唐突に、倫の声が響いた。

 いつの間にか、すぐ近くにいた。


 目が合った。

 倫の瞳が、笑っていた。でも――前とは違った。


 あたたかくも、やさしくもない。

 むしろ、静かすぎるくらい静かだった。

 まるで、切り札を手にしたプレイヤーのように。


 倫は立ち上がり、食堂の外にいる監視官のもとへ歩いていった。


(倫……)


 呼び止めようとしたけど、声が出なかった。


 扉の向こうで、倫が監視官になにかを話しているのが見えた。

 ときどき笑って、指をさして、ゆっくりと近づいていく。


 そして――倫の指先が、監視官の腕に触れた。

 すべるように、爪先だけでなぞるように。


 監視官の表情が変わった。

 視線が倫を見下ろし、唇の端が、ゆっくりと吊り上がる。

 まるで獲物を前にした肉食獣みたいに。


 それでも倫は、一歩も引かなかった。

 むしろ、自分からその支配に近づいていくようだった。


 媚びではなく、計算された服従。

 言葉じゃなく、沈黙で交渉する技術。


 やがて監視官が合図を出し、倫はそのあとについて、暗い廊下の奥へと消えていった。

 あの――監視官たちの待機室。あの、不快な空気の場所。


 遠ざかる足音。


「カン、カン」


 階段の音か、鎖の音か、倫の覚悟の音か。

 私にはもう、わからなかった。


 ただ、ひとつだけ。

 船底から吹き上げてきた冷気が、またひとつ、私の心にも降りてくる気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ