7、青い蝶の少年(前半)
港に着いたことは、警笛よりも先に、空気のにおいでわかった。
潮の匂い、錆びついた金属の匂い。それに、どこか焦げたような、街のにおい。
扉の向こうから、ぼんやりとした曇天の光が差し込んでいた。
名前を呼ばれた子どもたちは、監視官の命令に従って、ひとりずつタラップを降りていく。
私もその列の中にいた。
重たい足音が板張りの甲板に響いて、息づかいがそれに重なった。
ふと後ろを振り返ると、ルーカンが数歩うしろにいた。
彼はやっぱり、あの表情をしていた。何も語らず、でも、すべてを知っているような目。
外に出ると、空は灰色で、地面は濡れていた。
雨は止んでいたけれど、波の音に混じって、どこかから海鳥の声が聞こえてくる。
港の端に並べられたベンチには、数人の大人が立っていた。
誰かの親かもしれないし、施設や教会の関係者かもしれない。
女の子がひとり、腕を伸ばして母親らしき人に駆け寄り、泣きながら抱きついていた。
少年のひとりは、見知らぬ僧服の男に、何も言わず手を引かれていった。
まるで、夢を見ているようだった。
それも、自分とは関係のない、他人の現実の夢。
私はただ、それを見ていた。
手の中に握りしめていた紙切れのような、ちっぽけな希望や不安が、風に吹かれて飛びそうだった。
――そのときだった。
「カン、カン」
乾いた金属音が響いた。
誰かが鉄板を打っているような音。
子どもたちの動きが止まり、一斉に視線がそちらに向かった。
音がしたのは、船の横腹に取りつけられた鉄の階段だった。
誰かが、そこから引きずられるようにして現れたのだ。
「……誰?」
誰かが小さくつぶやいた。
最初に見えたのは足だった。裸足。
細く汚れた足首には、錆びた鉄の輪がはめられている。
次に見えたのは髪――白金。光のない水の底で育ったような、青白い肌。
少年だった。私たちと同じくらいの年齢だと思う。
でも、明らかに何かが違っていた。
その目。
氷を溶かさずに透かしてくるような、冷たくて、脆くて、それでいて鮮やかな――青。
「……蝶、みたい」
気づけば私は、そうつぶやいていた。
色のない世界に、ほんの一瞬だけ舞い降りた、冬の蝶。
少年は引きずるようにして階段を降り、監視官に押されるまま、どこかへ連れていかれた。
目的地も知らされず、理由も聞かされず、ただ命じられるまま。
誰も声をかけなかった。
ルーカンも、倫も、黙っていた。
言葉なんて追いつかないものが、あの場にはあった。
その夜、食堂にその少年が戻ってきた。
みんなで食事をとることになっていたのに、少年は部屋の隅にしゃがみこんで、膝を抱えていた。
濡れた白金の髪が額に張りつき、目だけが一点を見つめている。
誰も、近づかなかった。
空気が、びりびりと張りつめていた。
私は、トレーを持ったまま、少し迷って――それから、そっと歩み寄った。
「……おなか、すいてないの?」
答えはなかった。
ただ、少年がゆっくりと、こちらを見た。
その瞳に映った自分が、すごくちいさく見えた。
「ジュース……」
かすれた声だった。
私は思わず聞き返した。
「オレンジジュースじゃなきゃ、やだ……」
わがままに聞こえるかもしれない。
でも、それは――祈りみたいだった。
誰かに、何かを望んでほしい。
そう願っている、小さな抵抗。
「……ここには、ないと思う」
私がそう言うと、少年は顔をそむけた。
さらりと、髪が揺れた。
ルーカンが近くでそれを見ていたけれど、やっぱり何も言わなかった。
そして――
「僕が、もらってくるよ」
唐突に、倫の声が響いた。
いつの間にか、すぐ近くにいた。
目が合った。
倫の瞳が、笑っていた。でも――前とは違った。
あたたかくも、やさしくもない。
むしろ、静かすぎるくらい静かだった。
まるで、切り札を手にしたプレイヤーのように。
倫は立ち上がり、食堂の外にいる監視官のもとへ歩いていった。
(倫……)
呼び止めようとしたけど、声が出なかった。
扉の向こうで、倫が監視官になにかを話しているのが見えた。
ときどき笑って、指をさして、ゆっくりと近づいていく。
そして――倫の指先が、監視官の腕に触れた。
すべるように、爪先だけでなぞるように。
監視官の表情が変わった。
視線が倫を見下ろし、唇の端が、ゆっくりと吊り上がる。
まるで獲物を前にした肉食獣みたいに。
それでも倫は、一歩も引かなかった。
むしろ、自分からその支配に近づいていくようだった。
媚びではなく、計算された服従。
言葉じゃなく、沈黙で交渉する技術。
やがて監視官が合図を出し、倫はそのあとについて、暗い廊下の奥へと消えていった。
あの――監視官たちの待機室。あの、不快な空気の場所。
遠ざかる足音。
「カン、カン」
階段の音か、鎖の音か、倫の覚悟の音か。
私にはもう、わからなかった。
ただ、ひとつだけ。
船底から吹き上げてきた冷気が、またひとつ、私の心にも降りてくる気がした。