6、偽りの微笑(後半)
その少年が静かに食事を終えたころ、船室の空気はようやく、あの濁った静けさに戻っていった。
けれど私の中には、まだ何かがざわついていた。
笑っていたはずの少年の顔。ほんの数秒、ほんの一瞥だったはずなのに、記憶の奥にしんと貼りついて、離れない。
何がそんなに怖かったのか、うまく説明できない。ただ、胸の深いところに、冷たい水のしずくみたいな不安が沈んでいる。
私はスープの残りを見下ろした。膜が張ってしまった表面に、自分の顔がぼんやりと映る。
——そのときだった。
「船旅、長いんだってさ。酔いそうだよね……君は船酔いする?」
声がした。すぐ隣から。
やわらかい。でも、その奥に何か、届かない場所を見つめるような響きがある声だった。
私は驚いて顔を上げた。
すぐそこに、あの少年がいた。
……いつの間に、席を移ってきたの? それとも、最初から隣だった?
わからない。記憶が少し、あいまいになっている。
「……うん、酔いやすいかも」
そう答えると、彼は小さくうなずいた。
「だよね。あんまり揺れてないけど、空気が……閉じてるから、かな」
少し眉を寄せながら言うその表情は、年相応のはずなのに、目の奥に宿る静けさだけが、不思議なくらい歳月を重ねていた。
私は言葉に詰まって、目を泳がせた。
——誰? どうして、こんなふうに自然に話しかけてくるの?
「……あなた、さっきの」
「うん、さっき来た」
曖昧だけど、なぜかそのまま会話は続いた。
彼は私の手元をちらりと見て、言った。
「飲んでみたけど、塩水よりはマシ、かな。ちゃんと温かいし」
「うん……まあ、ね」
その一言に、ふっと笑ってしまった。
……あれ。
笑った? こんな場所で? 誰かと?
そんな感情がまだ残っていたことに、自分でも驚いた。
「……あの、さ」
私は言葉を探して、少し間をおいてから訊いた。
「怖くなかった? ここに来るとき」
少年はほんの少し黙り、それから視線を逸らしてつぶやいた。
「怖くなるって、知ってるときだけ、怖くなるんだって」
「……それ、誰かに言われたの?」
「ううん。僕の」
私は息をのんだ。
この子、やっぱり普通じゃない。言葉の選び方も、話し方も、何か違う空気をまとってる。
彼は少しだけ身を寄せて、声を落とした。
「……名前、知ってる?」
「え?」
「きみの、名前」
「……ミナ。ミナ・カリス」
「ミナ、か……いい名前だね」
一拍おいて、ふわりとした声が続いた。
「僕は、倫」
「倫……?」
彼はまっすぐに私の目を見た。
「名前ってね、存在を定義づけるものだから、それだけで特別なんだ。だから、君も……名前、大事にして」
胸の奥が、なにかにそっと掴まれた気がした。
私の名前が、こんなふうに丁寧に扱われたのは、いったい、いつ以来だっただろう。
そのとき、船室の向こうで、ざわりと小さなざわめきが起こった。
「あの人……」
私が目を向けると、そこにはルーカンがいた。無言で壁にもたれて、どこか遠くを見るように立っている。
肌は小麦色、顔立ちは整っていて、何より目つきが鋭い。その存在だけで、周囲を黙らせてしまうような雰囲気を纏っていた。
倫はそちらに目をやり、小さくつぶやいた。
「強そうだね。……何か、訓練とか、してたのかな」
「え?」
「腕の動かし方がきれい。たぶん、剣とか」
まるで舞を見るような目だった。
動きのなかに、何かを読み取る力がある。
私は思わず、彼の横顔を見つめていた。
——なぜ、そんなふうに見えるの? どうして、そんなことがわかるの?
倫は立ち上がった。
「……ちょっと、行ってみる」
「え……」
私は止める間もなく、その背中を見送った。
水の中を進むみたいに、ゆっくりと歩いていく。問いかけるような目をして。
彼がルーカンの前で立ち止まり、小声で何かを言った。
声は聞こえなかった。でも、ルーカンの眉がほんの少し上がって、それから頷いたのが見えた。
——なに、話してたの……?
倫が戻ってきて、私の隣に座った。
「ルーカン。あの人の名前だよ。教えてくれた」
「……え?」
「君も、覚えておいて。バレないようでも、少しでも多くの人が名前を知ってるように」
声に茶目っ気が混じっていたけど、目はまっすぐだった。
やさしさと、どこか使命のようなものが宿っていた。
——この子は、名前で何かを守ろうとしてる。
そんなふうに、私は感じた。
そのときだった。
「Z-285」
金属のような声が響いた。
私はびくりと肩を震わせた。
倫……だった。呼ばれたのは。
監視官が、鉄の扉の前に立っている。倫に向かって、無言で手を伸ばしていた。
「来い」
静かな命令。でも、そこには普段とは違う、なにか冷たいものが混じっていた。
船室が凍ったように静まった。
——監視官が、誰かを呼ぶなんて。
しかも、名前じゃなく番号で。倫だけを。
私の中に、ざらざらした不安が広がった。
倫は立ち上がり、ルーカンに一つうなずいてから、歩き出す。
扉が開く。鉄の隙間の向こうに、暗い廊下が口を開けている。
彼は振り返らずに歩いていった——けれど、扉の前で、ふと足を止めた。
私の方を、ほんの少しだけ見て、言った。
「またあとでね」
やわらかくて、どこか音楽みたいな声だった。
そして、そのまま扉の奥へと消えていった。
私はその場に、立ち尽くしていた。
足音が遠ざかる。鉄の階段を、規則正しく下りていく音。
それが、どこへ向かうのか。何が始まるのか。
——わからない。
——でも、ただの出来事じゃない。
私たちにも、きっと関わってくる。
そう思ったとき、胸の奥が冷えて、息をするのが少しだけ苦しくなった。