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灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第2章:まなざしの檻
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60、暗がりのささやき(後半)


私たちが踏みしめる床は、ひやりとした鉄の冷たさを足の裏に伝えてくる。靴底と床が擦れ合うたびに、ほんのわずかに乾いた音がこだました。

誰かに聞かれたらどうしよう、と胸が跳ねるが、レオが手で「静かに」と合図を送ってくれる。


その先に、倫が入っていった扉がある。重い鉄の扉は、わずかに開いていた。扉の隙間から、白く光る蛍光灯の光が床に細く伸びている。私はレオと目を合わせ、小さくうなずき、ゆっくりと歩を進めた。


中から聞こえてきたのは、人の声だった。低く押し殺した声。言葉は聞き取れないのに、その響きだけが皮膚にまとわりつく。倫の声は混じっていない。

聞こえるのは、誰か――おそらくは監視官か、あるいは研究者のものだ。


ときどき、何かが床に置かれるような、硬いものが静かに当たる音が響く。乱雑ではない。むしろ整然としていて、けれどその整いすぎた静けさが、かえって不穏だった。


私は扉に耳を寄せた。レオも隣で、呼吸を殺している。


――誰かが動いた。


重く、ゆっくりと足を引きずるような、硬い靴音。床に小さな振動が広がり、それが私の足元をかすかに震わせた。金属の椅子を引く音が続き、すぐに、誰かが立ち上がった気配がする。


「――動くな。」


低く、冷えた声だった。


その声に、倫が答える気配はない。ただ、長い沈黙が続く。


何かが掴まれるような小さな衝撃。衣服を引かれるような、摩擦の震えが壁越しに伝わってきた。


次いで、淡々とした口調で、別の言葉が紡がれた。


「逃がさない。」


私の指先が、冷たい鉄に強く押し当てられた。耳を通じて届くその言葉は、まるで倫に鎖を絡めるように、ゆっくりと締め付けていく。


静寂が落ちた。だが、その後に、微かな息遣いと、身体が押し付けられるような圧の気配が続いた。はっきりとは聞こえない。けれど、壁の向こうで確かに、倫が耐えているとわかる。


レオの肩が震えている。


「……これ、何してるの……?」レオが、震えた声でささやいた。


私は答えられない。ただ、胸が締め付けられた。

何かを叩く音がした。重く、鈍い。声は聞こえないのに、その衝撃だけが私の心臓に響いてくる。


私は一歩、無意識に後ろに下がった。レオも私に合わせて身を引く。

倫は、何をされているの。


いや、もっと――どうして、誰もそれを止めないの。


扉の隙間から、わずかに研究者の姿が見えた。黒く長いコート。後ろで結ばれた白髪。アルベロス・ニクトヴァルト――彼だった。


彼の顔には、笑みが浮かんでいる。

冷静で、淡々としていて、それでいて確かに、悦びが滲んでいた。

私は唇を強く噛んだ。血の味がした。


レオが私の腕を掴む。


「……戻ろう、今は、無理だ。」


レオの声が震えている。

きっと私と同じだ。何を見たくてここに来たのか、自分でももう分からない。


でも、私は目をそらせなかった。


「倫は、ずっと……こうして、私たちに隠してたんだよ。」


扉の奥にいる倫は、誰かに従い、誰かのために動いている。

あの優しい笑顔の裏側で、どれほどの痛みを飲み込んでいたのだろう。


私は、扉の取っ手にそっと手をかけた。

ほんの少しだけ隙間を開けて、中を覗き込もうとした、そのとき。


「やあ、こんなところで、ふたり仲良く」


背後から、乾いた声が降ってきた。


――グラエリン・ヴェイン。


私が恐れていた存在が、いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。


銀髪に、淡い紫の瞳。

涙のような、甘い香りを纏い、彼は楽しそうに微笑んでいる。


「倫を探してるの?」


私たちは息を詰めた。


「どうして、倫は君たちに秘密を隠すんだろうねぇ」

「どうして、倫は何も言わないんだろうねぇ」

「どうして、倫は、壊されても、笑っていられるんだろうねぇ」


グラエリンは問いを投げつけながら、わざとらしく足元の石を転がした。


その乾いた音が、私たちの胸を強く叩く。


「……知りたい、でしょ?」


私が顔を上げると、彼の瞳は酷く愉しげに歪んでいた。


「でもね。知るってことは、選ぶってことなんだ。」


彼はくるりと背を向ける。


「僕たちは、選んだ人間の心を、きっと、ずっと忘れないよ。君が何を選んだのか。君がどこで立ち止まったのか。」


グラエリンの声は甘やかで、けれどどこまでも冷たい。

彼が歩き去る音が消えた頃、私はもう一度、扉に手をかけた。

でも、開ける勇気は出なかった。


――ガシャン。


扉の奥で、何かが落ちる音がした。

倫の、かすかな呻き声がした。

レオが、私の手をぎゅっと握り返す。


「ミナ、やめよう。今はまだ……。」


私は唇を噛み、ゆっくりと手を離した。


知らなければよかった――

でも、知らないままでいられない。


私は自分の胸の内で、そんな矛盾を抱えたまま、静かに踵を返した。


秘密基地に戻ると、ルーカンがそこにいた。

彼は壁にもたれ、瞳を閉じていたが、私たちの足音にすぐ気付いた。


「どこ、行ってたんだ?」


「……散歩」


私がそう答えると、ルーカンはほんの少しだけ目を細めた。


「ミナ。」


彼は低く、でもどこか優しく言う。


「奪われるだけの生活を、続けることもできる。でも、自分で選び取る生活をするなら、たとえその先に痛みがあっても、自分の足で立たないといけない。」


私は、倫の姿を思い浮かべた。


あの笑顔。

あの声。

あの、扉の向こうにいた倫。


「ルーカンは……怖くないの?」


「怖いさ。でも、怖いからこそ、力をつけるんだ。」


ルーカンはゆっくり目を開けた。


「この島で、誰もが何かに怯えてる。倫だって、俺だって、きっとお前も。」


私は黙ってうなずいた。


「だが、誰かに守られるばかりじゃ、何も変えられない。」


ルーカンの言葉は、私の心に静かに沁みていく。


「俺たちは、この生活を選んでるわけじゃない。だから、これからは、少しずつ、自分たちで選ぶんだ。」


彼はまっすぐに私を見た。


「逃げるか、進むか。壊されるか、壊すか。」


私は、倫が扉の向こうでどんな顔をしていたのか、知りたくてたまらなかった。


でも――ルーカンの言う「選ぶ」ということは、倫の痛みからも、もう目をそらしてはいけないということだ。


「私、強くなる」


私の声は震えていたけれど、レオが隣で小さく頷いてくれた。



その夜、私は一人で考えていた。


倫は、私たちのために何を犠牲にしているんだろう。

私たちは、彼をどうしたいんだろう。


扉を開けなかった私は、臆病者だろうか。


でも、きっともうすぐ、私はその扉を開けることになる。


――知らなければならないことが、そこにあるのだから。


夜の曇り空は静かで、重たく広がっていた。

秘密基地の奥に、微かな風の音だけが響いている。


私はベッドに横たわり、胸に手を当てた。


倫の笑顔を、私はどこまで信じていいのだろう。


だけど私は、彼のすべてを知りたい。

彼の痛みも、彼の戦いも。


――たとえ、その先に、恐ろしい真実が待っていても。


そう、私は――


きっと、もう逃げない。

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