59、暗がりのささやき(前半)
朝の光は曇り空に隠れ、秘密基地の石壁はひんやりと湿っていた。
私たちはいつものように、粗末な朝食を囲んでいたけれど、そこに倫の姿はなかった。
「倫、いないね」ニコラがぽつりと言った。
「……きっと、呼ばれてるんだよ」
私は答えながら、胸の奥に沈んでいく小さな不安を押し殺した。
最近、倫は食事の場にいたりいなかったりを繰り返している。
彼の不在が、どうしようもなく私の心をかき乱す。
昼食の時も同じだった。
私たちがスープをすすっていると、食堂の扉が無造作に開いた。
現れたのは、バラカン・フォルンシュタール――
ごつい体格、無精髭に鋭い青い目。いつも皮手袋をはめた、訓練と制圧担当の男。
彼は、他の子どもたちには目もくれず、まっすぐ倫を指差した。
「おい、倫。来い。……今すぐに。」
その声は低く、支配の色を滲ませている。
命令の形を取りながら、どこか倫を自分のものと言わんばかりの、歪んだ所有欲が見えた。
倫は静かに立ち上がり、私たちに軽く手を振る。
「また後でね」
その笑顔はいつも通りの柔らかさだった。
けれど、私は見逃さなかった。彼の足元が、ほんのわずかに震えていたことを。
バラカンは倫の肩を乱暴に叩き、扉の向こうへと連れて行った。
私はその背中を、胸がぎゅっと締め付けられる思いで見送った。
レオも静かに眉をひそめていた。
「……あれ、どう思う?」
「……分からない。でも、良くない気がする。」
私は食べていたパンをいつの間にか握りつぶしていた。
実験の時間になると、私たちはいつもの通り並ばされ、冷たい金属の装置を身体に取り付けられた。
倫もそこにいた――が、彼は時折、ふっと席を外すことがあった。
そのたびに私は目で追いかけた。
「倫、いい加減、時間を守ってくれる?」マリセラ・ノクティス――白いスーツを纏い、冷笑を浮かべた彼女が、そう声をかけた。
けれど、その口調には怒りも責めもなかった。
むしろ、倫を特別扱いしているように見えた。
「大丈夫。戻るよ、ちゃんと。」
倫は軽く微笑んだ。
「いい子ね。……そのままでいて。」
マリセラは細い指で、倫の肩を軽く撫でた。
まるで愛玩動物に触れるように、無感情な笑みを浮かべながら。
私の胸に、また棘が刺さる。
なぜだろう。
倫に向けるあの目は、私たちに向けられるものと、どこか違う。
その後も、倫は何度か実験室を出入りした。
咎める者は誰もいない。
むしろ、研究者たちは黙って見送るだけだった。
私はその光景を、どうしても理解できなかった。
夕食時も同じだった。
倫は、食事の途中でまた呼び出され、今度は自分から「行ってくるね」と席を立った。
彼を呼んだのは――ロザヴェル・ノクテインだった。
くすんだ金髪の巻き毛に、真紅のルージュ。派手なドレスをまとい、香水の強い香りを纏った彼女は、どこか焦燥したように薬瓶を手の中で転がしていた。
「倫、ちょっと来てくださらない? ……今、あなたじゃなきゃ、困るの。」
彼女の緑がかった瞳は倫を強く見据え、そして――
ふいに、倫の頬に触れた。
「あなた、最近、香りが変わったわね。……嫌いじゃないわ。」
その低い声は、どこか甘く、でも不穏だった。
倫はただ、何も答えずに彼女についていった。
私は、胸の奥のざわめきを抑えきれなかった。
「……レオ、私、倫を追いかけたい」
「……僕も、同じこと考えてた」
レオは、静かにそう言った。
夕食後、私たちはこっそり倫の後を追った。
彼は基地の外を歩いていた。わざとらしく足音を響かせるその歩き方は、私たちが後ろにいることに気付いているのだと、すぐに分かった。
倫は、まるで「ついてきてもいいよ」と言っているかのようだった。
でも、私たちが見失わない程度の距離で、倫は研究者棟の扉をゆっくりと閉めた。
私とレオは、扉の前で息を殺した。
中から、かすかな音が聞こえてくる。
衣擦れの音。
低い囁き。
押し付けられるような鈍い衝撃音。
私の手は、無意識にレオの袖を強く握っていた。
「なに……してるの……?」
扉越しに、倫の声が聞こえた。
「……はい……分かりました……大丈夫……」
その声は――
誰かに命令され、誰かに従っている声だった。
まるで、彼自身が「モノ」であることを受け入れているように。
「ミナ……」
レオが私の名前を呼んだけれど、私は答えられなかった。
怖かった。
でも、目をそらしたくなかった。
もし、この扉を開けたら――
倫は、私たちが知ってはいけない何かを背負っていることを、突きつけられる気がして。
「ミナ……これは、たぶん、知らない方が……」
「でも、私は、知りたい」
私は小さく、でも確かに言った。
倫が私たちを守ろうとしているのか、それとも……
誰かのために、倫自身が壊れていくのか。
私は、知りたい。
その先にどんな痛みがあったとしても――。




