56、静かな砦(後半)
雨音は、ずっと、私たちの会話を包み込んでいた。
けれど、胸の内側は、あの雨よりずっと、騒がしかった。
倫は、いつも大丈夫って言う。
私たちに心配させないように、何でもない顔で物資を差し出してくる。
彼のその優しさが、最初は、どうしても信じきれなかった。
──どうして、そこまでしてくれるの?
──どうして、そんなに私たちのことを守ろうとするの?
あの船の上で、私は心のどこかで倫を疑っていた。
もしかしたら、彼は私たちを裏切るんじゃないかって。
もしかしたら、あの優しさは、全部誰かに仕組まれたものなんじゃないかって。
……でも、違った。
倫は、ずっと一貫していた。
自分のことより、私たちのことを考えていた。
彼の笑顔は、たしかに少し不自然で、どこか作り物のように見えたこともあった。
でも、それでも彼は、あの言葉をずっと守っている。
『何があっても、僕が守るから。』
私が倫を疑っていたのは、本当は、倫のことが怖かったからだ。
私たちが、いつか倫の重荷になってしまうんじゃないかって。
私たちのせいで、彼が取り返しのつかないことに巻き込まれるんじゃないかって。
そう思うのが怖くて、だから私は倫を少しだけ疑うふりをして、自分を守っていた。
でも、倫は……私たちがどんな顔をしていても、どんな態度を取っても、一歩も引かなかった。
彼は、たぶん、ずっと……最初から、覚悟してたんだ。
私たちが彼を信じなくても、彼は、私たちを信じ続けるって。
「……ミナ。」
ルーカンの低い声が、私の思考を呼び戻した。
「倫のこと、もっと見ていこう。」
彼は、私をまっすぐに見つめて言った。
「……うん。」
私は、小さく答える。
見なきゃいけない。
倫が見せないようにしている痛みも、私たちの前で隠している取引も、きっと、ぜんぶ。
だって、彼は自分から「助けて」なんて絶対に言わない。
だから、私たちが気付いてあげなきゃいけない。
「倫は……あの研究者たちに、自分を差し出して、私たちを守ってる。」
「ああ。」
「でも……どんなに怖くても、私たち、ちゃんと知らなきゃいけないよね。」
ルーカンは深く頷く。
「倫の苦しさを知らないまま、背中を預けるのは……違う。」
「うん。知らないまま、守られるのは、違う。」
私の胸の奥に、じんわりと熱いものが広がっていく。
私たちは、部屋の中央の丸いテーブルを囲んだ。
倫が置いていった小さな乾パンを、ルーカンがみんなに配る。
お湯を入れた小さな金属ポットからは、ほんのり温かい蒸気が立ち上り、イザベルはその湯気に指先をかざして遊んでいる。
「倫、これも昨日のうちに運んでくれたんだよね。」
レオが、少し硬い乾パンをかじりながら呟く。
ニコラは持ち込んだ毛布をイザベルの肩に掛けて、ちらりと私に目を向けた。
「……倫のこと、もっと知りたい。」
レオの声が震えていた。
「だって、俺……知らないの、イヤだ。」
ニコラも唇をきゅっと結び、うなずいた。
「倫のこと、怖くても……ちゃんと知りたい。」
私たちは、みんな、倫に守られてきた。
でも、これからは――。
私たちは、倫を知るために、一緒に歩くんだ。
倫が何も言わなくても、彼の選んだ道を、そっと手を伸ばして、隣で歩けるように。
「……イザベル、寒くない?」
私が声をかけると、イザベルは私の腕の中で、こくりと頷いた。
「だいじょうぶ。あめがいるから、さみしくないよ。」
「……あめ?」
私が尋ね返すと、イザベルは、あどけない顔でにこっと笑った。
「りんが、いないときは、あめがいる。りんのかわりに、あめがないてるんだもん。」
イザベルの小さな手が、私の服の裾をぎゅっと掴む。
「りんのなみだ、かわりにふってる。」
その言葉に、私ははっと息を呑んだ。
ああ、そうか。
倫は、泣かない。
でも、倫の痛みは、どこかにちゃんと残ってる。
それを、イザベルは感じ取っていたんだ。
「イザベル……ありがとう。」
私は、彼女を優しく抱きしめた。
小さな子どもなのに、私たちよりずっと、倫の痛みに寄り添っていた。
私たちが、大人びた顔で交渉だとか、条件だとか考えているあいだに、イザベルはずっと、倫の涙に気付いていたんだ。
私たちが忘れていたものを、ちゃんと見つけてくれた。
「……倫に、ちゃんと伝えたいね。」
レオが小さく言う。
「俺たち、見てるって。わかってるって。」
「うん。」
私は、強く頷いた。
「私たちも、倫に交渉する。」
「え……?」
レオが目を丸くする。
「交渉って、お願いじゃなくて、条件を出すことだって、倫が言ってた。」
「うん……そうだね。」
「私たちが条件を出すんだ。『倫がひとりで全部背負わないこと』って。」
ルーカンが、ふっと笑う。
「……面白いな。」
「私たちはもう、お願いするだけの子どもじゃない。」
倫が教えてくれた交渉を、私たちも、ちゃんと使う。
「『倫が全部背負うなら、私たちは黙ってない』。それを条件にしよう。」
「……いいな、それ。」
ルーカンが、小さく笑った。
レオも、ニコラも、イザベルも、小さな手を握りしめて頷いてくれる。
私たちは、倫に助けられるだけの存在じゃない。
私たちも、倫を助けたい。
私たちも、倫を支えたい。
この手で、ちゃんと、守りたい。
……きっと、まだ、私たちは弱い。
知識も足りない。体力もない。
でも、弱いままで、踏み出すことはできる。
「……これから、倫に追いつくために、できることを全部しよう。」
私がそう言うと、ルーカンは短く「おう」と答えた。
「もっと走れるようになる。」
「もっと、本を読む。」
「もっと、いろんなことを覚える。」
「もっと、強くなる。」
私たちは、小さな決意を、静かな秘密基地で交わした。
埃をかぶった双眼鏡は、まだ私たちには重いけれど、いつかきっと、あれを担いで、遠くまで見渡せる日が来る。
壊れかけの実験道具も、いずれ私たちの手で動かせるようになる。
そして、あの地図の歪みを、私たち自身が探し当てるんだ。
雨の音は、まだ遠くで響いている。
だけど、その音は、もう私たちの心を沈めるものじゃなかった。
私たちは、きっと、追いつく。
倫の背中に、私たちの条件を、ちゃんと届けるために。




