55、静かな砦(前半)
雨は、まだ静かに降り続いていた。
時刻は、早朝三時。
世界はまだ、深い眠りの中にいるはずなのに、私たちは目を覚まし、施設内の誰にも見つからないように、静かに歩を進めていた。
秘密基地──それは、古い資材置き場の裏、誰も気に留めない隙間を抜けた先にある、私たちだけの小さな砦。
外で集まることはできない。雨の日は、いつもここ。
「今日は、外に出られないね。」
レオがぽつりと言った。彼の髪は少し湿っていて、雨の匂いがかすかに残っている。
「でも、このほうが静かでいい。」
ルーカンが低く答える。
彼は周囲を確かめながら、一歩一歩慎重に足を運んでいた。
私たちの集まりは、倫がいなくても、自然と続くようになっていた。
ルーカン、レオ、ニコラ、イザベル、そして私──ミナ。
抜け道の狭い通路を進み、湿った石壁を触りながら、いつもの秘密基地に辿り着く。
埃をかぶった双眼鏡と、ひび割れた地球儀が、変わらずそこにあった。
レオは丸いテーブルの椅子を引き、軽く埃を払って腰を下ろす。
私は古い絨毯の上に座り、破れた島の地図を広げた。いつか、倫と一緒に見た、隠し部屋のありかを示唆する、不思議な歪み。
ニコラは本棚の端から、読みかけの本を一冊抜き取り、膝の上でぱらぱらと捲っている。
イザベルは暖炉の前に座り、煤けた石壁に小さく指で絵を描いていた。
今日のイザベルの絵は、どうやら「倫の家族」らしい。幼い線で描かれた人影は、どこか寂しげで、でもあたたかかった。
「……倫、昨日この椅子、動かさずに帰ったね。」
レオがそっと呟いた。
「わざと、残しておいたんだと思う。」
ニコラがその椅子を軽く押して、きしむ音を立てる。
この椅子は、あの抜け道の合図だった。
私たちと倫を繋ぐ、小さな秘密。
でも――
胸の奥に、ひとつだけ、消えない違和感が残っていた。
「ねえ……倫って、どうしてこんなに物資を持ってきてくれるんだろう。」
ふいに口にすると、ルーカンがゆっくりと顔を上げた。
「俺も、それを考えてた。」
ルーカンの声は、相変わらず静かだったけど、どこかに深い痛みを含んでいた。
「船に乗ってたとき、あいつ、言ってたよな。」
『何があっても、僕が守るから。』
ルーカンがぽつりと繰り返す。
「ずっと……あいつは、その言葉を実行してる。」
雨音の中で、私の胸が、きゅうっと締め付けられた。
あのときは、半分くらいは……信じてなかった。
だって、私たちを励ますための、優しさからの言葉だと思ってたから。
「でも、倫は……本当に、やってる。」
私の声は、自然と震えていた。
「どうして、そこまで……?」
「……倫は、きっと対価を払ってる。」
ルーカンの低い声が、静かに落ちる。
「物資は、ただじゃない。」
「うん……きっと、何かを差し出してる。」
私も、心の底で気付いていた。
「それって……倫が、あの人たちに……」
言いかけたとき、イザベルがそっと私の腕にしがみついた。
「みな、あめはね……」
イザベルの小さな声が、濡れた布のように震えていた。
「りんが、いたいおもい、してくれてるの。」
ぱちりと、大きな瞳に、ひとしずくの涙が浮かぶ。
「りん、なかないから……あめが、かわりに、ないてるの。」
イザベルの幼い言葉は、まっすぐに私の胸を打った。
「……イザベル。」
私は彼女をそっと抱きしめる。
イザベルは、倫の痛みに気付いている。
私たちよりずっと小さいのに、ちゃんと、見えているんだ。
ルーカンは腕を組んだまま、俯いた。
「……倫は、自分から言わない。」
「うん、わかってる。」
「たぶん、俺たちが聞いても、きっと、全部は話さない。」
「それでも……」
私は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「私たちは、何ができる?」
問いかけた私の声は、雨音に溶けそうだった。
「倫は、私たちのために動いてるのに、私たちは……」
「……俺たちには、まだ、力が足りない。」
ルーカンの答えは、あまりにも静かで、だけど、あまりにも悔しかった。
「今、できることは、体力をつけること。」
「知識を増やすこと。」
「技術を身につけること。」
レオも、ニコラも、小さく頷く。
「……結局、倫はひとりで背負ってる。」
私は、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「私たちが、もっとできるようになれば、きっと……」
「倫を助けられる。」
ルーカンが、ぽつりと言った。
「倫を、支えられる。」
雨が、規則正しく、静かに降り続ける。
倫は、私たちの知らない場所で、きっと今日も――何かを差し出している。
自分の痛みを、私たちの未来のために。
その痛みに、私たちは、何も気付かないふりをしていた。
もう、やめよう。
私は、イザベルの頭を撫でながら、強く心に刻んだ。
「……私、もっと強くなる。」
「俺もだ。」
ルーカンが答えた。
レオとニコラも、真剣な顔で頷いてくれる。
私たちには、まだ、できることがある。
小さいけれど、確かに前に進む方法がある。
私たちは、きっと倫に追いつける。
……いや、追いつきたい。
この手で、ちゃんと彼の痛みを支えられるように。
私たちは、小さな誓いを、静かな朝に交わした。
そのとき、まだ遠くで、雨は降り続いていた。




