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灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第1章:静寂に沈む船出
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4、霧の檻(後半)

 時間の感覚は、じわじわと削がれていった。

 照明の明滅も、足音のリズムも、変化というには乏しく、ただ均一な続きとして時間が流れているだけだった。頭の奥に、少し鈍い痛み。身体は静止しているのに、内側だけがじわじわと痺れているような感覚。呼吸が浅くなる。喉が渇く。


 やがて、低くくぐもった電子音が鳴った。

 どこかの扉が開き、監視官が一人、無言で現れた。彼の背後には、腰ほどの高さの台車があった。水の配給だと、すぐにわかった。容器は、金属製の円筒型。唇をつけるとひんやりして、そこに残った水滴がずっと残っているような気がするやつ。


 誰も声は上げない。ただ順番に、列をなして前へ進んでいく。

 私は立ち上がり、静かに歩いた。列のなかで動いているのは、目線ではなく足だけだ。

 そのとき、ふと、横を通り過ぎる誰かの足音がわずかに違うことに気づいた。


 振り返らず、視線を動かす。

 それは、あの少年だった。先ほど目を合わせた黒い影。

 やはり、音が小さい。足が金属の床に触れているはずなのに、音がしない。

 彼の歩き方は、ほかの誰とも違っていた。軽いというより、音を立てないように歩いているようだった。


 並ぶ列の中で、私は自然な動作を装いながら彼の後ろに立った。

 彼は一度も振り返らない。けれど、彼の肩がほんの少しだけ緩んだ気がした。

 それは、警戒を解いたというより、存在を認めたという印のようだった。


 金属のカップが配られ、前の少年が受け取る。

 そのとき、彼は少しだけ身を引き、私の分を先に差し出した。

 私は驚いたが、顔には出さなかった。

 彼はなにも言わず、視線も向けない。ただ、腕だけが静かに動いた。


 私は軽く会釈した。ほんのわずかに。

 彼は、気配でそれを感じたようだった。頷きも、声もない。ただ、それで十分だった。


 私たちはそれぞれ、自分の席に戻った。

 水を口に含む。冷たさが舌の上で広がり、ようやく身体がここにいると実感する。

 その冷たさが、私の意識を静かに引き戻した。


 ——なぜ、彼はそんなに音を消して歩くのだろう?

 ——なぜ、誰よりも静かで、誰よりも見えないように在るのだろう?


 監視官たちは、誰一人彼に注意を払っていなかった。

 それは、偶然だろうか? それとも……


 私は再び、彼を見た。

 彼はもう私を見ていなかった。ただ、膝に置いた指先をじっと見ている。

 ……それは、誰かにメッセージを送るような動き。密やかに、けれど確かな意志を感じさせた。


 そのとき、記憶の奥に沈んでいた父の声が、また浮かんできた。

「見るだけでは足りない。感じなさい。細部に真実が宿る」


 私は目を細めた。

 彼の指は、ある一定のリズムで動いている。ゆっくりと、繰り返すように。

 ……それは、もしかして——


 手話? いや、そうではない。

 何かの暗号だ。簡易な伝達の仕草。かつて父が読んでいた医学書の中に、戦場の衛生兵が使っていたという非言語符号の話があった。

 たとえば危険、安全、味方、援護といった基本の意思を、指の動きで伝える方法。

 もちろん、私は解読できない。だが、意味があることだけはわかった。


 彼は、ここで生きる方法を、もう知っている。

 隠れること。音を立てないこと。視線を避け、痕跡を残さないこと。

 そしてそれでも、必要なときには誰かに届くように、微かな信号を送ること。


 私は、心の中で問う。

 ——あなたは、何者なの?

 でもその問いは、声にはならない。まだ名前すら知らない。

 それでも、今この沈黙のなかで、言葉より確かなものがやり取りされたような気がした。


 やがて電子音が再び鳴り、水の配給の終わりを告げた。

 監視官たちが通路を巡回し、静寂がまた戻ってくる。

 その中で、私は静かに目を閉じた。


 灰色の霧の中。名もない時間の中。

 私たちは、名前も知らぬまま、ひとつの合図を交わした。

 それだけのことが、救いだった。


 まだ知らない。

 でも私は、きっとこの少年のことを、忘れないだろう。

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