53、秘密の朝会(前半)
雨が、屋根を優しく叩いていた。
まだ空は夜の帳に閉ざされていて、施設の回廊もほとんどの明かりを落としている。子どもたちは寝静まり、大人たちの巡回も、今は一時的に緩む時間帯──早朝三時。
私たちは、森の奥にある秘密基地に集まっていた。
湿った空気の中、ほんのわずかに灯された小さなランタンの光が、輪になった私たちの顔をぼんやりと照らす。
「おかえり、倫。……今日も、大丈夫だった?」
私が声をかけると、倫は静かに、けれど確かに頷いた。
「うん。食材も……ちゃんと、取ってこれたよ。」
倫は、濡れたフードを静かに外し、持ち帰った袋をそっと床に置いた。袋の中には、硬く締まったパン、乾燥した果物、少しの保存食。それに、彼が持ち帰ってきた、小さな古いノートが一冊。
「倫……また交渉したの?」
私の問いに、倫は小さく微笑んだ。
「うん。マリセラにも、バラカンにも、必要な条件は、全部……通したよ。」
静かに、まるで当たり前のように語るその声は、まっすぐで、どこか温かい。
「危なくなかったの?」
セリオンが眉を寄せる。彼の翡翠色の瞳は、少しだけ不安げだった。
「平気だよ。彼らは……僕を利用したいだけだから。」
倫は、さらりと告げる。
その言い方はまるで、他人事のようで、でも不思議とわたしたちを安心させた。
「利用……って……」
レオがもごもごと口を動かした。「それ、いいことなのか?」と言いたげに。
倫は、わずかに目を伏せ、ゆっくりと説明を始めた。
「……マリセラは、新しい薬の試験に興味があるんだ。でも……僕たちが無事に生きていることも必要条件だった。バラカンは……巡回のとき、僕が見つかったけど、すぐにその場で条件を出した。僕が食材を確保する代わりに……見逃すこと。それと、週に一度だけ……余った物資をもらうこと。」
淡々と語られるその取引の内容に、誰もが小さく息を呑んだ。
「……でも、大丈夫。全部、僕がちゃんと、計算したことだから。」
倫は、微笑んだ。
その笑顔は、ひどく柔らかくて、優しかった。
けれど──
きっと、彼は全部わかっている。自分が、利用されることも、子どもたちの盾になることも。
彼が語った交渉の中で、本当はもっと危険なやり取りがあったはずだ。だけど倫は、私たちを心配させないように、必要なことだけを選んで話している。
「倫……実験のこと、詳しく聞いても……いい?」
私は、少しだけ勇気を出して尋ねた。
倫は小さく首を振り、そして、ふっと目を細めた。
「大丈夫だよ、ミナ。……そんなに悪いものじゃないよ。薬の効き目を、ちょっとだけ試すだけ。痛いことは、ほとんどない。」
そう言う彼の声は穏やかで、耳に触れると安心してしまう。
でも、そのほとんどないの言い回しに、私は倫の優しい嘘を読み取っていた。
ルーカンが、静かに倫の隣に座る。
彼は何も言わない。けれど、倫の小さな肩を黙って支えるように、寄り添った。
「……それにね、今日はいいものを見つけた。」
倫が、少し嬉しそうに袋から一冊のノートを取り出した。表紙は古く、ところどころページが破れている。
「これは……?」
セリオンが身を乗り出す。
「語学の単語帳だよ。英語と……交渉語の。」
倫は大事そうにそのノートを撫でる。
「交渉語って、……あの、あんまりみんなが使わないやつ?」
レオが目を丸くする。
「うん。交渉で使う、特別な言葉……主に大人たちが使う、正式な言い回し。ルールとか、契約とか、そういうときに大事になる。」
倫はノートを膝に広げながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「僕は……これを、みんなに教えたい。」
静かな雨音に、倫の声が溶けていく。
「言葉を知ることは……相手の心を理解する、一歩だから。」
倫の視線が、私、セリオン、フェリックスに向けられる。
「交渉術の基本は、まず相手の言葉を知ること。知らない言葉で交渉はできない。……でも、言葉を知っていれば、僕たちでも、大人を……動かせる。」
倫は、ことさら柔らかく微笑んだ。
「それに……言葉は、誰かを守るために使える。君の気持ちを、君の意志を、ちゃんと伝えるためにも……。」
レオはぽかんと口を開け、セリオンはノートを覗き込み、イザベラはちょこんと倫の膝に座りながら、不思議そうにページを指差した。
「これ、なんてかいてあるの?」
「これは……N-E-G-O-T-I-A-T-I-O-N、発音は……ネゴシエーションって言うんだ。」
倫は静かに答える。
「交渉とか、取り決めとか……そういう意味だよ。」
小さな子たちは、目をきらきらさせてその響きを口にした。
「ねごしえーしょん……!」
「ねごしょん……?」
「ねごしえーしょん!」
サラも、ローザも、ニコラも、嬉しそうに声を合わせた。
倫は、少しだけ目を細めた。
「ね、教えるから……みんなも覚えて、使ってみてね。」
その優しい声に、子どもたちは一斉に頷いた。
その光景を、ルーカンは黙って見守っていた。
彼は、倫のやり方を否定しない。
誰よりも、倫の選んだ言葉という武器の強さを、彼は知っていた。
ルーカンは、倫が言わないことを知っている。
倫が、本当はどれほど危ない橋を渡っているのかも。
だから、彼は何も言わず──ただ、黙って支える。
フェリックスは、焚き火の準備を静かに整えながら、そっと問いかけた。
「倫。……その語学、俺たちにも教えるのか?」
「うん。フェリックスにも。ミナにも。セリオンにも。……ちゃんと、大事なところから。」
「……わかった。」
フェリックスは、短く返事をし、再び火をくべた。
パチ、パチ、と──
小枝がはぜ、やがて優しい火が灯った。
小さな焚き火のそばで、わたしたちは言葉を覚える。
誰にも邪魔されない、小さな、静かな、秘密の時間。




