50、言葉の贈り物(後半)
アルベロスが去ってから、沈黙が私たちを縛り付けていた。
冷えた風が、森の梢をわずかに揺らし、夕暮れの赤が薄墨色に溶けていく。
倫は、ぽつりと呟くように口を開いた。
「ごめんね。……でも、これで大丈夫だよ。」
彼の声は穏やかで、まるで何でもないことのようだった。
だけど、その声の奥に、どこまでも遠く、触れられない距離を感じた。
「倫、何それ、どういう意味だよ!」
ルーカンが鋭い声をあげた。堪えていた怒りが、もう止められなかったのだろう。
「ふざけんなよ! なんでお前が一人で引き受けるんだ! そんなの、おかしいだろ!」
レオも、ニコラも、イザベラも、みんな青ざめたまま倫を見つめていた。
私も――動けなかった。
「別に……大したことないよ。」
倫は微笑んだ。乾いた、薄い笑みだった。
「どうせ、僕はもう、あいつらの好きにされるためにここにいるんだ。最初から、そうだっただろ?」
その言葉が、胸の奥に鈍く響いた。
「違う!」ルーカンが叫んだ。
「俺たちは、ここで一緒に生きてるんだろ! 一緒に、逃げるって言ったじゃないか! 一緒に、ここを――」
倫は静かに首を振った。
「僕が拒めば、きっと次は……君たちを引き裂くよ。ルーカンが、標的になるかもしれない。……それは、嫌なんだ。」
「そんなの……っ」
「大丈夫だよ。」
倫は一歩、私たちから離れた。
彼の影が、夕闇に溶けていく。
私は、必死に何かを言おうとした。
でも、喉が、張り付いて、声が出なかった。
どうしてだろう。
どうして、止める言葉が、こんなにも見つからないのだろう。
ルーカンが倫の腕を掴む。
「倫、やめろよ! お前、いつもそうやって、全部一人で――」
倫は、その手を優しくほどいた。
「ルーカン……ありがとう。」
それは、まるで別れの言葉のようだった。
倫は微笑んで、ゆっくりと歩き出した。
森の奥、アルベロスの待つあの場所へ。
淡く光る月が、彼の背を照らしている。
私は、震える唇を噛んだ。
いやだ。
いやだ。
いやだ。
私たちは一緒に逃げるんだ。
一緒に生きるんだ。
一緒に――名前を呼び合って、笑うんだ。
なのに。
「倫――!」
ようやく、喉の奥から絞り出した声は、ひどくかすれていた。
倫は振り返った。
夕闇の中で、彼の瞳だけが、静かに光っていた。
「……ありがとう。」
彼は、たったそれだけを残して、再び背を向ける。
私は、走り出した。
自分でも理由がわからなかった。
止めるためだったのか、縋るためだったのか、伝えたかっただけなのか。
ただ、胸の奥から湧き上がる熱が、私を突き動かしていた。
倫の背中に、私は必死に手を伸ばす。
「待って! まだ……私、何も言ってない!」
倫はゆっくりと足を止めた。
「私は……」私は息を切らしながら叫んだ。「倫に……」
なんて言えばよかったんだろう。
止めないで、って?
犠牲にならないで、って?
私たちのために、そんなことしないで、って?
でも、それは――彼の優しさを、否定することだった。
だから私は。
「……私、あなたの名前が好きだよ。」
倫が、少しだけ驚いたように目を瞬いた。
「あなたの名前、倫っていう響き、あたたかくて、やさしくて……」
息が荒くて、涙で視界が滲んで、言葉がうまく繋がらない。
「その名前は、君にしか似合わないんだ。私が好きになったのは……倫、君だよ。」
彼は、ゆっくりと微笑んだ。
「僕の名前……好きになってくれて、ありがとう。」
その言葉は、まるで光のかけらのように、私の心に落ちていった。
倫はもう、何も言わずに歩き出した。
私は、それ以上、彼を引き留めることができなかった。
ルーカンが横に立ち、握りしめた拳を震わせていた。
「……絶対、助けるからな。」
その声に、私は小さく頷いた。
「うん……絶対に。」
倫が消えた森の奥を、私は最後まで見つめていた。
彼が差し出したものを、私はどうすればいいのか、まだわからない。
でも――
彼がくれた言葉の贈り物は、きっとこれからも、私を支え続けるだろう。
夕闇の中で、私たちの物語は、静かに続いていく。




