47、青の手ほどき(前半)
午後の森は、静かに陽を傾けていく。
小鳥たちのさえずりが遠くで微かに響き、風が葉擦れの音を運んでくる。遊び疲れた私たちは、苔むした岩に腰を下ろし、しばらく無言で息を整えた。
ざらり、と小石を踏む音がした。倫が、私たちの輪にゆっくりと戻ってくる。
「楽しかったね」と、レオが笑いながら声を上げた。額に汗を光らせて、けれどどこか誇らしげだった。
「うん、いっぱい走った」とイザベルが笑う。小さな肩で息をしながら、そっと隣のニコラに寄り添う。
ニコラは控えめに頷きながら、でもその唇には確かに微笑が浮かんでいた。
私は、黙っていた。胸の奥に残るあのきゅっとした痛みの正体を、まだ掴みきれずにいたから。
「みんな、よくできたね。」
倫がそう言って、私たちを見渡す。彼の声は優しくて、けれどどこか遠い。
私は、あのときも感じた。彼が私たちと一緒に笑っていても、その心のどこかが私たちから離れていることを。
それでも、私は彼の後を――追いかけた。
私も、レオも、イザベルも、ニコラも。
私たちは彼を信じて、その背中を目印にしている。まるで、命綱みたいに。
「少し休憩したら、次は木登りだ。」
倫がそう告げた。レオは「やった!」と勢いよく立ち上がり、イザベルもぱっと顔を輝かせる。
ニコラは少しだけ戸惑いながらも、静かに木々を見上げた。
私は、うっすら汗ばんだ掌を握りしめて立ち上がる。木登りは、正直あまり得意じゃない。でも、嫌いではない。
倫は、目を細めながら指で高い枝を指した。
「目標は、あそこ。登れた人には、僕からご褒美があるよ。」
「ご褒美って何?」
レオが目を輝かせる。
「秘密。」
倫はふわりと笑った。
その笑顔は、どこまでも優しくて、どこまでも――遠かった。
私の胸がまた、きゅっと痛くなる。
それは、どんな色にも似ていない、名前のない痛みだった。
「よーし、負けないぞ!」
レオが駆け出す。イザベルも負けじと続く。
ニコラは静かに、でも確かに歩き出した。
私は、小さく息を吸い込んでから、彼らのあとを追いかける。
木肌はざらざらと硬くて、手のひらに小さな痛みを残す。
足場を探しながら、私は慎重に枝を掴んで登っていった。
「ミナ、こっちの枝の方が登りやすいよ!」
レオが上の方から声をかけてくれる。
「ありがとう!」
私は笑い返し、彼の教えてくれた枝に手を伸ばした。
隣では、イザベルが小さく「こわい……」と呟く。
けれど、倫が下から声をかける。
「ゆっくりでいいよ、イザベル。焦らなくていい。」
その言葉に、イザベルは小さく頷いて、震える指先で枝を掴み直した。
倫の声は、やっぱり優しい。
でも、それがどこか、まるで繰り返し練習されたセリフのように聞こえることがある。
私は、思い出していた。
あのとき、青い布を見つけたとき、彼は動かなかった。私が駆け寄っても、微かに目を細めただけだった。
きっと――彼は、ずっと前から知っていたんだ。
どこに青があるのかも、誰がたどり着くのかも。
私たちは、彼の導いたレールの上を歩いているだけなのかもしれない。
そんなことを考えながら、それでも私は枝を掴む手を離さなかった。
彼が私たちをどう導こうとしているのか、まだ分からない。
けれど、今は――彼を信じたい、と思った。
「ミナ、あと少しだよ!」
レオがそう言って、手を差し伸べてくれる。
私はその手を掴み、ぐっと最後の一歩を踏み出した。
「やった……」
私たちは高い枝の上で、ひととき風に吹かれながら、目を細めた。
地面は遠く、森の緑が一面に広がっていた。
レオが笑いながら言う。「これ、ご褒美なんじゃない?」
「うん、綺麗……」
イザベルが、そっと呟いた。彼女の頬に当たる光は柔らかく、少し汗ばんだ髪が風に揺れる。
倫が下から微笑んで見上げていた。
「うん、それもご褒美のひとつだね。でも、本当のご褒美は、こっちだよ。」
彼はゆっくりと、掌を開いた。
その中には、小さな青いキャンディが四つ、ころんと転がっていた。
「青……」
私は、無意識に呟いていた。
さっきまで、必死に探していた色。
倫は、にこりと笑う。「ちゃんと気づいてくれたから、青のご褒美。」
私たちは、少しずつ木から降りて、倫のもとへと戻った。
小さな青いキャンディを、ひとつずつ受け取る。
「ありがとう。」
「えへへ、美味しい。」
「甘い……」
みんなが口々に呟く中、私はゆっくりと舌の上でその味を確かめた。
ほんのりと甘くて、冷たい青の味。
まるで、彼の笑顔の向こうに隠されている、秘密のようだった。
私は、ふと思った。この遊びも、訓練も、ご褒美も――
もしかしたら全部、倫の計画のうちだったのかもしれない。
それでも、いい。
私は、彼の後を――きっとこれからも追いかける。
まるで、消えかけた火をそっと手で囲うように。
今だけは、この時間を守りたい。
このひとときが、どうか少しでも長く続きますように、と。
風が木々を優しく揺らし、私たちの笑い声が、静かな森の中に溶けていった。




