38、星のない夜(後半)
夜。静まり返った施設は、息を潜めた獣のようにひっそりと横たわっていた。私は薄い毛布にくるまり、目を閉じていたが、眠りは浅かった。
──倫は、普通の子どもなのか。
問いが胸の奥でくすぶり続け、まぶたの裏に倫の笑顔が浮かぶ。
あたたかい、優しい笑顔。
なのに──その笑顔が、次第に黒い液体に滲み、溶けていく幻が夢の中で繰り返される。
「……やめて……」
私は身をよじり、息を荒くする。黒い波が、倫を飲み込む。
何度も、何度も。
──私が、忘れないから?
──私が、気にしているから?
夢の中で、倫の笑顔はただ静かに消えていった。
「……!」
私は目を見開き、がばりと身体を起こした。
胸が痛いほど速く脈打っている。
呼吸を整えようとしても、なかなか落ち着かない。
窓の外には、月も星もない。暗闇は、まるで北棟第七実験室の扉のように、何も見せてくれない。
居ても立ってもいられず、私はそっとベッドから抜け出した。
夜間の見回りはいるけれど、音を立てなければ、短い時間くらいなら見つからない。裸足で廊下に出ると、ひんやりとした床が足裏に伝わる。
静寂は、耳が痛くなるほどだった。どこまでも、静かで、重い。
──誰も、ここにはいないみたい。
ふらふらと足を進める。
この場所に、きっと安全なんてものはない。けれど、今は、少しだけでも、呼吸できる場所が欲しかった。
渡り廊下を抜け、建物の端まで来たとき、私はふと足を止めた。
誰かがいる。
窓辺に、一人、たたずんでいる影。
ゆっくりと振り返ったのは、フェリックスだった。
彼は、私を見ても驚かない。
「……こんな夜に、どうした?」
フェリックスの声は、囁くように静かだった。
「……眠れなくて。」
「……そうか。」
それだけを言って、彼は再び夜空を見上げる。私もそっと彼の隣に立つ。
夜空には、星が一つも見えなかった。
「……星、ないね。」
ぽつりと呟くと、フェリックスは少しだけ唇を歪めた。
「ここでは、よくあることだ。」
「……いつも、こうなの?」
「星があっても、雲で隠されることが多い。……いや、たとえ見えていても、届くわけじゃない。」
どこか遠くを見つめるフェリックスの横顔は、何も映さない鏡のように澄んでいる。
「逃げても、祈っても、すぐに連れ戻される。……でも。」
そこで、彼は目を細め、低く言葉を続けた。
「檻の中でも、灯は持てる。消さなければ。」
「……灯?」
私は彼の横顔を見上げる。
フェリックスはゆっくりと目を閉じ、ひとつ呼吸を落とした。
「心のことだよ。」
「心……」
「この場所は檻だ。逃げ場もないし、助けも来ない。だけど──」
フェリックスは、そっと窓に手を置いた。
「檻だからこそ、心の灯だけは、誰にも奪えない。」
冷たいガラスに触れた彼の手は、ほんの少し震えていた。
それを、私は見逃さなかった。
「……本当に?」
「本当だ。」
「……でも、灯なんて、いつか消えちゃうかもしれない。」
そう呟いた私に、フェリックスはかすかに笑ってみせた。
「それでも、今、灯せばいい。……消えても、また灯せばいいんだ。」
「……また、灯せばいい……」
私はその言葉を、ゆっくりと胸の中で繰り返す。
灯は持てる。
たとえ檻の中でも。
たとえ誰にも助けてもらえなくても。
たとえ星のない夜でも。
「……強いね、フェリックス。」
私がぽつりと言うと、彼は肩をすくめた。
「別に強くなんてない。ただ、灯を失うのが怖いだけだ。」
「怖いの?」
「ああ。」
短く答えたフェリックスは、私に背を向けた。
「じゃあな。……見回りが来るぞ。」
「うん。」
彼は静かに歩き去り、夜の闇に溶けていった。
私は、一人、夜空を見上げる。
相変わらず、星はどこにも見えない。
でも──
「星がない夜でも、灯はきっと持てる。」
小さく、私は心の中で呟く。
震えるほどに暗い夜の中で、その言葉が、ほんの少しだけあたたかく灯った。そうして私は、そっと足元を確かめながら、静かに自分の部屋へ戻っていった。
その歩みは、たしかに夜の檻の中にあった。
けれど、その胸の奥に、小さな灯が確かに宿りはじめていた。




