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灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第1章:静寂に沈む船出
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焦土の記憶 — ミナ・カリスの過去(前半)

 風の町だった。


 乾いた石畳を抜け、草の匂いと土の湿り気を纏った風が、灰色の建物のあいだを優しくすり抜けていく。ミナはその風に髪を揺らしながら、白衣の背を追って駆けていた。どこまでも、父の歩幅を頼りにして。


「薬棚の順番なんて忘れていい。覚えるより、手で感じなさい」


 低く、響く声。どこか旋律を帯びたその調子は、まるで静かな子守唄のようだった。調剤室の奥、瓶と瓶の隙間を丁寧に拭う父の手は、細くもしなやかで、ひんやりとした瓶越しにかすかな温もりを残した。


 幾度も戦場に立ちながら、彼の人柄には戦争の翳りがまるでなかった。ただ静かに、痛みの傍に佇み、患者の呼吸とともに生きていた。


 母は、また違った光を持っていた。強く、揺るがず、そして優しかった。


「包帯を巻くときは、相手の瞳を見るのよ。声より先に、痛みは目が教えてくれるわ」


 片手で包帯を巻きながら、もう片方で紅茶を差し出すことができる人だった。診療所の片隅、小さな急須から立ち上る湯気が、疲れた看護兵の頬を撫でていた。

 母はまるで、灰の町に咲く紅の薔薇。凛として、気高く、あたたかかった。


 そして――妹、リリィ。

 小さな影のように、いつもミナの後ろにぴたりと寄り添っていた。


「お姉ちゃんみたいになりたいの」


 そう言って、紙の鶴を折り、病棟の兵士たちに配って歩いていた。

 血の匂いが満ちた病室の隅で、彼女の笑顔だけが、色を持っていた。


 家族は病院だった。生きることを支えるために、そこにいた。

 ミナもまた、その世界の一部として育っていた。包帯の巻き方、消毒の手順、小さなノートに綴る患者の名と症状。それはやがて、父と母のような医師になる道しるべであり、誇りだった。


 ――あの日までは。


 夢にも似た静けさが、それを裂いた。


 夜更け。遠くの空が、無音のまま閃光を放った。

 雷鳴も警報もなかった。ただ、どこか遠くで大地が揺らいだような、目には見えない波が、病院の奥底まで忍び寄ってきた。そして、次の瞬間には――


 中庭が、炎に包まれていた。


 そのとき私は、薬庫の奥にいた。瓶の列を並べ替えていた指先に、母の手が重なるのを感じた。やわらかく、しかし確かな力を持っていた手。


「すぐ戻るわ。いい?絶対に出ちゃだめよ」


 鉄の扉が閉まり、世界が遮断された。

 しばしの沈黙ののち、扉の隙間から揺らぐ人影。そして、その向こうから――


「お姉ちゃーん、これ見て――!」


 リリィの声だった。澄んだ、天まで届くような声。あまりに無垢で、あまりに――遠かった。


 それが、最後だった。


 鉄扉の向こうで、世界が崩れていった。

 薬の棚が倒れ、白衣が燃え、硝子が砕けて、記憶が煙になっていった。

 ミナは叫べなかった。声が、出なかった。

 両手を口元にあて、闇の中で、ただ時の流れが止まるのを感じていた。


 いつのまにか、夜が明けていた。


 扉が開かれ、光が差し込んだとき、ミナはただ、そこに立っていた。

 すすけた白衣。焼け焦げたノート。そして――リリィが折った鶴が、一枚、胸元にしまわれていた。


 何も言えなかった。

 その夜が奪ったものは、あまりに多すぎた。


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