34、廃墟の聖堂(後半)
古びた礼拝堂の中央に、欠けた石の台があった。
祭壇のようだった。けれど祈りを捧げるにはあまりに粗末で、石の縁にはいくつも刃物で刻んだような痕が残っている。
「ここに……誰か、立たされてたの?」
私がぽつりと呟くと、ルーカンは静かに頷いた。
「昔、同じような場所を見たことがある。」
「ここで……何かがあったの?」
彼は何も答えなかった。ただ、遠くを見る目をしていた。
灰色の光が、彼の頬に落ちる。その横顔は、いつもより少し年上に見えた。
「……この島には、いろんなものがある。何が正しくて、何が間違ってるか、たぶん誰も分からない。」
石の台を見つめながら、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「でもな、ミナ。――お前は、自分の目で見たものを信じろ。」
「……うん。」
「誰かが、消えた。それはきっと、事実だ。」
その一言は冷たくもあったけれど、どこか優しさがにじんでいた。
私の胸は、少しだけあたたかくなった。
(ちゃんと、覚えてくれてるんだ。)
ルーカンは忘れろと言ったけれど――
彼自身は、何一つ、忘れてなんかいなかった。
「でも、どうして皆は気にしないの? まるで、最初から……」
「そういう場所だからだ。」
短くそう言って、ルーカンは手を石の台から離した。
「ここで生き残るには、見なかったふりをしろ。気にするな。覚えるな。そう言い聞かせてきたんだろう。皆、自分を守るために。」
「でも、それって……悲しい。」
「……悲しいよ。」
静かな答えだった。
だけどその響きは、どこまでも深くて、どこまでも静かだった。
「だから、俺は、お前みたいな奴は……たぶん、嫌いじゃない。」
突然、そんなことを言われて、私は思わず目を瞬かせた。
「え……?」
「気にしないふりなんか、できない奴。忘れたふりが、苦手な奴。」
彼は、少しだけ微笑んだ。
「……きっと、お前は、そのままでいい。」
その笑みは、本当に小さくて、一瞬のことだった。
でも、それを見た私は、ほんの少し、救われた気がした。
「ねえ、ルーカンは……怖くないの?」
ずっと気になっていたことを、私はようやく口にした。
「いつ、誰かがいなくなるか分からないのに。次は、自分かもしれないのに。」
ルーカンは、目を伏せた。
「怖くないわけがない。」
「……そっか。」
「でも、怖がっても、変わらない。」
そう言って、彼はゆっくりと私を振り返った。
「なら、せめて――」
言いかけたその言葉が、ふと止まる。
……足音が聞こえた。
背筋が、ひやりと冷たくなる。
(誰か来る――)
緊張で体がこわばった瞬間、ルーカンが私の手を引いた。
「こっちだ。」
彼は迷いなく、崩れた裏口へと走り出す。
私は、必死にその後を追った。
石屑を踏みしめ、細い抜け道をすり抜ける。
影のように、滑るように――私たちは礼拝堂を離れた。
しばらく走って、物資倉庫の裏手に戻った頃には、もう足音はどこにも聞こえなかった。
「……バレてない?」
私は、息を整えながら尋ねた。
「たぶん、な。」
ルーカンはポケットから、錆びた鍵を取り出した。
「これは、さっき拾った。」
「え……?」
「たぶん、礼拝堂のどこかの鍵だ。」
彼の手元を覗き込む。
古くて、赤茶けた鉄の鍵だった。
「……何で、拾ったの?」
「気になっただけだ。」
彼はそっけなく言いながらも、その指先に、ほんの少し力がこもっていた。
「いつか、必要になるかもしれない。そんな気がした。」
(きっと、それは勘なんかじゃない。)
私は、そう思った。
ルーカンは、よく分からない直感で動くことがある。
けれどその直感は、不思議とよく当たる。
(この鍵が、きっと何かを開く。)
確信にも似た感覚が、私の中にもあった。
「行くぞ。」
ルーカンが歩き出す。
私は、その背中を追いながら、少しだけ笑った。
たとえ怖くても、分からなくても――
今は、ルーカンがいる。それだけで、ほんの少しだけ、心が強くなれる気がした。
「……ねえ、ルーカン。」
「ん?」
「私も、忘れない。」
私は、静かに言った。
「消えていった子のこと。あの夜のこと。全部、ちゃんと覚えてる。」
ルーカンは、一瞬だけ振り返って、苦笑した。
「……好きにしろ。」
「うん。」
私は、小さく頷いた。
(忘れない。私は、私の目で、ちゃんとこの世界を見続ける。)
冷たい廊下を歩きながら、私はそっと心に誓った。
たとえ、ここがどれほど残酷な場所でも。




