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灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第2章:まなざしの檻
35/66

33、廃墟の聖堂(前半)

 ――誰かが、静かに歩いている。


 その気配で、私はふいに目を覚ました。


 冷たい夜の空気が、額に貼りついた髪をそっと撫でる。

 暗闇の中、ぼんやりとした天井の輪郭を見つめながら、ゆっくりとまばたきをした。


 最初は、夢の続きだと思った。けれど――


「……」


 耳を澄ませた瞬間、確かに聞こえた。


 軋む音。何か重いものを押している、小さな車輪の擦れる乾いた音。


 ぎ……ぎ……


 そして、それに寄り添うように、滑るような足音。

 裸足なのか、薄い靴底なのか、床を撫でるように滑っていく。


(誰……?)


 体を起こしかけた、そのとき――


「……眠ったふりをしていろ。」


 闇の中で、低く囁くような声がした。


 ルーカンだった。


 隣のベッドで、彼は目を開けていた。

 ぼんやりとした輪郭しか見えなかったけれど、彼がこちらを見ているのが分かった。


(……もう、気付いてたんだ。)


 私は鼓動を抑えるように、胸に手を当てた。


 足音と軋む音は、ゆっくりと部屋の前を通り過ぎていく。

 私は目を閉じて、息をひそめた。


 近づいてくる。


 ドアの前を――今――通った。


 ぎ……ぎ……。


 遠ざかる。


 足音も、台車の軋む音も、しばらくすると完全に消えた。


 けれど、私の胸はずっと速く打ち続けていた。


(あれは、誰? 何を運んでたの?)


 あの音は、ただの荷物の運搬とは違う気がした。

 台車の動きには感情がなく、ただ、機械のように無表情に押されているだけ。

 まるで――物を運ぶためのものだった。


(やだ……)


 喉が乾き、言いようのない恐怖がじわじわと内側から這い上がってくる。


 けれど――誰も、何も、説明してはくれない。

 この夜のことを、誰にも話してはいけないような、そんな静けさが降り積もっていく。


 ***


 朝が来ても、私の胸は重いままだった。


 点呼の時間。

 冷たい声で監視官が名前を呼んでいく。


 子どもたちが次々に返事をする。


 その流れの中で――一つ、抜け落ちた番号があった。


 私は違和感に首をかしげた。昨日まで、そこにいたはずの誰か。


(え……?)


 点呼が終わった。


 でも、その子の名前は呼ばれなかった。


「……ねえ、」


 私はすぐに隣にいたサラへ声をかけた。


「昨日、一緒にいた、あの子は……?」


 サラは、ぽかんとした表情を浮かべたあと、困ったように笑った。


「なに言ってるの? そんな子、いないよ。」


「え……でも……」


「寝不足? 変な夢でも見たのかな。」


 サラはあっけらかんと笑い、何事もなかったように朝食の列に並んでいった。


 私はその場に立ち尽くした。


(そんなはず、ない。)


 確かに、昨日まで、隣で食事をしていた子。

 同じ作業をして、同じ遊びをして、同じようにこっそりと笑っていた――あの子。


 だけど、今は。


 いなかったかのように、誰も話題にしない。


 最初から、存在しなかったかのように。


「……」


 朝食を取りながらも、私の手は震えていた。

 スプーンを握る指先に、じっとりと汗が滲む。


 ふと、隣の席で、ルーカンが淡々と呟いた。


「誰かが消えた。それだけだ。気にするな。」


 その声は、あくまでも冷たく、乾いていた。

 だけど、私は気付いた。


 ほんの一瞬、彼のまつ毛が震えたことに。


 淡々としたその言葉の奥に、抑えきれない怒りの熱が隠れていることに。


「昨日の夜、あれは……」


「言うな。」


 彼は静かに言った。


「今は、忘れたふりをしていろ。」


 私は言葉を呑み込むしかなかった。


 でも、その時はっきりと確信した。


(ここは、普通の施設じゃない。)


 一つの夜が、確かに私の中に根を張った。


 忘れたふりをすること。


 存在しなかったことにすること。


 それが、この場所の正しさなのだと、みんなが無言で教えてくる。


 だけど――私は、その正しさが怖かった。


 ***


 その日の昼休み。

 私はルーカンと一緒に、物資整理の作業を命じられて裏手の倉庫へ向かった。


 誰もいない裏道。錆びた鉄扉。冷たい日陰。


「終わった。……少し寄り道しよう。」


 作業が終わったあと、ルーカンがぽつりと言った。


「寄り道って……?」


「ついてこい。」


 彼は答えず、迷いなく歩き出す。


 私は慌てて追いかけた。


 倉庫の裏手から、立入禁止の表示を掲げた古びた通路に入る。


 誰も近寄らないその先に――朽ちた旧礼拝堂があった。


 天井はところどころ崩れ、ひび割れた壁が陽の光を斜めに受けている。

 割れたステンドグラスの欠片が、床に静かに散らばっていた。


 幻想的で、美しくて、そしてどこか悲しかった。


「ここ……?」


「昔は、祈る場所だったんだろう。」


 ルーカンは廃墟の中央に立ち、ぽつりと呟いた。


「でも、今は何もない。ただ、残骸だけだ。」


 彼はゆっくりと壁に近づいた。

 そこには、黒いインクで描かれたような奇妙な記号が刻まれていた。


「これ、何……?」


「……分からない。」


 ルーカンは記号を指先でなぞりながら、微かに眉をひそめた。


「たぶん、この島を作った連中も、本当の意味は知らないんだろう。」


 私は、じっと彼を見つめた。


 ルーカンの目は、どこか遠くを見ているようだった。


(何を、考えてるんだろう。)


 その時、廃墟の静けさの中で、胸がざわめいた。


 言いようのない、不吉な予感。


 まるで、この場所そのものが、誰かの祈りと誰かの絶望を閉じ込めた箱庭のようだった。

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