33、廃墟の聖堂(前半)
――誰かが、静かに歩いている。
その気配で、私はふいに目を覚ました。
冷たい夜の空気が、額に貼りついた髪をそっと撫でる。
暗闇の中、ぼんやりとした天井の輪郭を見つめながら、ゆっくりとまばたきをした。
最初は、夢の続きだと思った。けれど――
「……」
耳を澄ませた瞬間、確かに聞こえた。
軋む音。何か重いものを押している、小さな車輪の擦れる乾いた音。
ぎ……ぎ……
そして、それに寄り添うように、滑るような足音。
裸足なのか、薄い靴底なのか、床を撫でるように滑っていく。
(誰……?)
体を起こしかけた、そのとき――
「……眠ったふりをしていろ。」
闇の中で、低く囁くような声がした。
ルーカンだった。
隣のベッドで、彼は目を開けていた。
ぼんやりとした輪郭しか見えなかったけれど、彼がこちらを見ているのが分かった。
(……もう、気付いてたんだ。)
私は鼓動を抑えるように、胸に手を当てた。
足音と軋む音は、ゆっくりと部屋の前を通り過ぎていく。
私は目を閉じて、息をひそめた。
近づいてくる。
ドアの前を――今――通った。
ぎ……ぎ……。
遠ざかる。
足音も、台車の軋む音も、しばらくすると完全に消えた。
けれど、私の胸はずっと速く打ち続けていた。
(あれは、誰? 何を運んでたの?)
あの音は、ただの荷物の運搬とは違う気がした。
台車の動きには感情がなく、ただ、機械のように無表情に押されているだけ。
まるで――物を運ぶためのものだった。
(やだ……)
喉が乾き、言いようのない恐怖がじわじわと内側から這い上がってくる。
けれど――誰も、何も、説明してはくれない。
この夜のことを、誰にも話してはいけないような、そんな静けさが降り積もっていく。
***
朝が来ても、私の胸は重いままだった。
点呼の時間。
冷たい声で監視官が名前を呼んでいく。
子どもたちが次々に返事をする。
その流れの中で――一つ、抜け落ちた番号があった。
私は違和感に首をかしげた。昨日まで、そこにいたはずの誰か。
(え……?)
点呼が終わった。
でも、その子の名前は呼ばれなかった。
「……ねえ、」
私はすぐに隣にいたサラへ声をかけた。
「昨日、一緒にいた、あの子は……?」
サラは、ぽかんとした表情を浮かべたあと、困ったように笑った。
「なに言ってるの? そんな子、いないよ。」
「え……でも……」
「寝不足? 変な夢でも見たのかな。」
サラはあっけらかんと笑い、何事もなかったように朝食の列に並んでいった。
私はその場に立ち尽くした。
(そんなはず、ない。)
確かに、昨日まで、隣で食事をしていた子。
同じ作業をして、同じ遊びをして、同じようにこっそりと笑っていた――あの子。
だけど、今は。
いなかったかのように、誰も話題にしない。
最初から、存在しなかったかのように。
「……」
朝食を取りながらも、私の手は震えていた。
スプーンを握る指先に、じっとりと汗が滲む。
ふと、隣の席で、ルーカンが淡々と呟いた。
「誰かが消えた。それだけだ。気にするな。」
その声は、あくまでも冷たく、乾いていた。
だけど、私は気付いた。
ほんの一瞬、彼のまつ毛が震えたことに。
淡々としたその言葉の奥に、抑えきれない怒りの熱が隠れていることに。
「昨日の夜、あれは……」
「言うな。」
彼は静かに言った。
「今は、忘れたふりをしていろ。」
私は言葉を呑み込むしかなかった。
でも、その時はっきりと確信した。
(ここは、普通の施設じゃない。)
一つの夜が、確かに私の中に根を張った。
忘れたふりをすること。
存在しなかったことにすること。
それが、この場所の正しさなのだと、みんなが無言で教えてくる。
だけど――私は、その正しさが怖かった。
***
その日の昼休み。
私はルーカンと一緒に、物資整理の作業を命じられて裏手の倉庫へ向かった。
誰もいない裏道。錆びた鉄扉。冷たい日陰。
「終わった。……少し寄り道しよう。」
作業が終わったあと、ルーカンがぽつりと言った。
「寄り道って……?」
「ついてこい。」
彼は答えず、迷いなく歩き出す。
私は慌てて追いかけた。
倉庫の裏手から、立入禁止の表示を掲げた古びた通路に入る。
誰も近寄らないその先に――朽ちた旧礼拝堂があった。
天井はところどころ崩れ、ひび割れた壁が陽の光を斜めに受けている。
割れたステンドグラスの欠片が、床に静かに散らばっていた。
幻想的で、美しくて、そしてどこか悲しかった。
「ここ……?」
「昔は、祈る場所だったんだろう。」
ルーカンは廃墟の中央に立ち、ぽつりと呟いた。
「でも、今は何もない。ただ、残骸だけだ。」
彼はゆっくりと壁に近づいた。
そこには、黒いインクで描かれたような奇妙な記号が刻まれていた。
「これ、何……?」
「……分からない。」
ルーカンは記号を指先でなぞりながら、微かに眉をひそめた。
「たぶん、この島を作った連中も、本当の意味は知らないんだろう。」
私は、じっと彼を見つめた。
ルーカンの目は、どこか遠くを見ているようだった。
(何を、考えてるんだろう。)
その時、廃墟の静けさの中で、胸がざわめいた。
言いようのない、不吉な予感。
まるで、この場所そのものが、誰かの祈りと誰かの絶望を閉じ込めた箱庭のようだった。




