32、檻の向こうへ(後半)
その夜、私たちは慎重に時間を見計らい、眠りについたふりをして部屋を抜け出した。
足音を忍ばせ、薄暗い廊下を進む。レオは先頭で軽やかに歩き、何度も後ろを振り返っては、私たちに小さく合図を送った。
「こっちだ、ついてきて。」
監視カメラの死角を縫うように、レオは迷いなく歩を進めていく。彼はこの施設の隅々まで探検したのだろう。その顔は、昼間の息苦しい授業中とはまるで別人だった。
「ほんとに、見張りはいないの?」私は囁くように問いかけた。
「大丈夫、大丈夫。昨日、確認したんだ。」レオは自信たっぷりに笑う。
イザベルが不安げに眉をひそめ、ニコラも落ち着かない様子で辺りを何度も見渡している。
「でも……もし見つかったら……」
「そしたら走って逃げるだけさ。なあ、ルーカン?」
レオが振り返ると、ルーカンは無表情でうなずいた。
「逃げるのは得意だ。」
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。ルーカンが一緒なら、きっと大丈夫。そう思える不思議な安心感があった。
レオは、壁の一角にある古びた配管の影を指さした。
「ここだ。」
彼がゆっくりと、目立たない金属のパネルを外す。軋んだ音を立てながら、パネルは簡単に開いた。そこには、狭いけれど奥へと続く暗い通路が隠されていた。
「隠し通路だよ。多分、もともとは点検用だったんだろうけど、今は誰も使ってない。」
レオは嬉しそうに胸を張った。
「行こう。」
彼が先に潜り込んでいく。私たちは顔を見合わせ、小さく息をのんだ。
「……ほんとに、行くの?」ニコラが声を震わせる。
イザベルも唇を噛んでいる。
「怖いなら、無理しなくていい。」ルーカンが低く言った。
レオが振り返り、にっと笑う。
「でもさ、せっかく見つけたんだ。面白そうじゃん。」
その無邪気な笑顔に、私は胸を軽く打たれた。
昼間の抑圧された空気の中で、あんなに苦しそうだったレオが、今はこんなに楽しそうに笑っている。
怖い。でも、行きたい。
「……私も、行く。」
私は小さく、でもはっきりとそう言った。
イザベルとニコラは少し迷ったあと、私の後ろにそっと続いた。
細い通路を這うように進む。埃っぽくて、ところどころ蜘蛛の巣が張っている。
「レオ、こんなところ、どうやって見つけたの?」
私が問うと、レオは前を向いたまま、にやりと笑った。
「昨日、罰掃除でこっちの廊下を片付けさせられたんだ。見張りが離れた隙に壁を叩いてたら、音が違う場所があってさ。」
「……罰掃除?」
「ちょっとだけ、反抗したからさ。」
その言葉を聞いて、私は胸がざわめいた。
罰、という響きに、ひどく冷たいものを思い出す。
ここでは、間違っただけで罰せられる。怒りも、悲しみも、楽しささえも否定される場所。
だけどレオは、そんな世界で、ちゃんと楽しいことを探している。
這い進んだ先には、小さな木製の扉があった。レオが慎重に押すと、かすかな音を立てて開いた。
その向こうに広がっていたのは、思いもしなかった世界だった。
そこはまるで、絵本の中で見た、忘れ去られた古い洋館の一室のようだった。
床には深い赤の絨毯が敷かれ、中央には立派な丸いダイニングテーブルと椅子が並んでいる。
テーブルの上には誰かが読みかけたままの本が置き去りにされ、ページの隙間には色褪せた栞が挟まっていた。
部屋の隅には、ひときわ存在感を放つマホガニーの大きなデスクがあった。艶やかな木目が、薄暗い部屋の中で鈍く光っている。
執務室で使われていたものなのか、その椅子も背もたれが高く、まるでかつて誰かがここで静かに考え事をしていたような気配を残していた。
壁際の本棚には、厚い本や古い紙がぎっしりと詰め込まれていて、背表紙には見たこともない文字が並んでいる。
埃をかぶった双眼鏡や、ひびの入った地球儀、小さな瓶に入った薬品、壊れかけた実験道具──いつの時代のものだろう。今にも誰かが手に取って続きを始めそうなくらい、そのままの姿でそこにあった。
窓のないその部屋の片隅には、プランターがいくつも置かれていた。もう枯れてしまっていたけれど、誰かが何かを一生懸命育てていた名残が残っている。
指でそっと土に触れると、まだわずかに柔らかさが残っていて、不思議と心があたたかくなった。
そして、暖炉。
使われなくなって久しいその石造りの暖炉は、黒ずんだ煤の跡を残していた。火が灯れば、この部屋はきっと、やさしい色で満たされるだろう。
私は言葉を失いながら、そっと部屋を見渡した。
ここには、時間が置き去りにされている。
まるで、誰かの忘れ物がそのまま残っているみたいだった。
「すごい……」
思わず、声がこぼれた。
レオはにやりと笑って、振り返る。
「な? 秘密基地にぴったりだろ。」
秘密の通路を抜けた先の、この秘密の部屋。
二重に隠されたこの場所を、レオはとても気に入ったらしい。
「今日からここ、俺たちの場所にしようぜ。」
レオの青い目がわくわくで輝いている。
秘密の部屋。その響きに、胸がじんわりと熱くなった。
ここなら、監視の目もない。昼間の、あの冷たい教育室も、恐ろしい訓練室も、ここには届かない。
ほんの少しだけ、自由になれる場所。
イザベルが慎重に本棚の本を一冊引き抜き、ニコラが興味深そうに双眼鏡を覗き込む。ルーカンはそっとマホガニーの机に手を置き、目を閉じていた。
何も言わなくても、みんなこの部屋を気に入ったのが伝わった。
静かで、暖かくて、きっと誰にも見つからない場所。
それが、今の私たちには、何よりも嬉しかった。
私はテーブルに手を置いて、ゆっくりと周りを見渡した。
本棚の隅に、古びた地図があった。島の簡単な構造図のようだけれど、一部は破れていて、詳細は分からない。
「ねえ、ルーカン。この建物……何か、変じゃない?」
彼は地図を手に取り、じっと見つめた。
「……そうだな。この間取り、歪んでる。」
「歪んでる?」
「廊下が不自然に折れてる。壁の向こうに、空間が隠されてるかもしれない。」
「隠し部屋?」
「貴族の屋敷には、よくあった。」
ルーカンの冷静な声を聞いて、私は彼が元貴族だということでどこか納得した。
彼は、私たちとは違う場所にいたのだ。
だけど今は、同じテーブルを囲んで、同じ部屋にいる。
……それが、少しだけ嬉しかった。
「私の名前ミナってね、お母さんが、小さな光って意味でつけたんだって。」
監視の目がないことへの気のゆるみか、ふと過去の記憶が浮かんでぽつりと言っていた。
イザベルがふわりと笑った。
「小さなひかり……かわいいね。」
「私……ずっと、小さな光の意味が分からなかったんだ。」
でも今、少しだけ分かる気がした。
こんなふうに、誰かと火を囲んで、小さくても温かい時間を持つこと。
きっとそれが、小さな光なんだ。
暖炉の前で、私たちは少しだけおしゃべりをして、笑い合って——そして、また静かに、夜の施設へ戻っていった。
明日もまた、冷たい教育と訓練が待っている。
でも、心のどこかに、小さな火を持ち帰った気がした。




