31、檻の向こうへ(前半)
真白な壁に囲まれた、無機質な教室。
その中で、私はじっと前を見つめていた。
靴音も、椅子を引く音も、誰かの小さな咳払いさえも、この部屋では妙にくっきりと響く。まるで音ですら、逃げ道を奪われて閉じ込められているみたいに。
教室へ入ると、そこにはいつも通りの男がいた。アルベロス・ニクトヴァルト。
白髪混じりの長い髪を低い位置で束ね、真っ黒なラボコートを纏った男は、ゆっくりとした動作で義手の手袋を外していた。彼の義手は無骨で、金属音を微かに響かせる。その琥珀色の瞳は、一度こちらを流し見るだけで、まるで私たち一人一人の内側までも計算し、掌握しているように感じた。
彼の声は静かだ。けれどその語調には、反論を許さぬ硬さがある。
「感情を抑制すること。それは、人間である証明だ。感情に呑まれる者は、未熟であり、動物以下だ。」
いつもと同じ、低く落ち着いた声だった。けれどその言葉は、どうしようもなく冷たくて、鋭くて、じわりと胸を締めつけてくる。
「怒りも、悲しみも、喜びでさえも──それらは、心の隙間から容易に入り込み、君たちを支配する。」
私たちは、彼の言葉を受け止めるしかない。彼の授業は、一方的だ。問いかけも、対話もない。ただ、彼が掲げる正しさに、私たちが従わされるだけだ。
白い壁が、まるでその声を反響させるためだけに存在しているみたいに、淡々とその音を繰り返す。
私は隣に座る倫を横目で見た。彼はまるで、壊れそうな人形みたいに、無表情で教科書を見つめている。
動かない唇。微動だにしないまつ毛。まるで、心ごとどこかへ閉じ込めてしまったみたいに。
——怖い、と思った。
けれど、アルベロスの話はずっと同じだ。
「感情は弱さだ」「制御こそが価値だ」
この島で生きるためには、それを手に入れろと。
でも、どうしても私は、そこに小さな棘を感じずにはいられなかった。
(本当に、それだけが正しいの?)
怒ったり、泣いたり、笑ったりすることが、そんなにいけないことなの?
教室の後ろ、窓際の席。セリオンの小さな声が、不意に響いた。
「でも……」
その呟きは、本当に、かすかだった。だけど、この教室ではきちんと聞こえてしまう。
「……感情があるから、人は誰かと繋がれるんじゃないかな。」
静寂が落ちる。誰も動かない。
アルベロスは、ゆっくりとセリオンに視線を向けた。琥珀色の瞳が、冷たい硝子のように光る。
だが、彼は何も言わない。ただ一瞥をくれたあと、興味すらないように無言で顔を背け、授業を再開した。
セリオンはそれ以上、口を開かず静かに俯いて、指先で机の端を撫でていた。張り詰めた沈黙だけが、私たちの間に残った。
私は胸の奥が、ひりひりと焼けるように痛むのを感じた。
(——ここには、心がない。)
この場所は、感情を許さない。笑うことも、泣くことも、怒ることも。
それはすべて、排除されるべき未熟なのだと、そう教え込まれる。
私は唇を、強く噛み締めた。
(これが……正しいの?)
——違う。違うはずだ。
でも、その違うって気持ちを、私はまだ口にする勇気がない。
私は手元の教材を閉じ、机の上を整えながら、次の移動を頭の中で確認する。
私たちの一日は、きっちりと刻まれた時間割で管理されている。移動の順番、歩く列、班ごとの並び方──すべて、ほんの少しのずれも許されない。
班ごとに並ばされ、静かに廊下を歩く。響くのは足音と、時折遠くから聞こえる機械音だけ。冷たい無機質な壁が続く長い廊下の先、次の教室──訓練室が待っている。
古びたレンガに囲まれた無機質で冷たい訓練室に入ると、バラカン・フォルンシュタールがいた。
ごつい体格に無精髭、鋭い青い目が教室を鋭く横切る。顔に刻まれた傷跡が、彼の過去を静かに物語っている。
彼はいつものように、皮手袋をはめたまま、ゆっくりとルーカンに近づく。
「E-269、お前には期待してる。」
低く、喉を鳴らすような声。皮手袋をはめた手でルーカンの肩を軽く叩きながら、続ける。
「お前ならできる。感情を捨てろ。己を律しろ。最高の成果を出してみせろ。」
ルーカンは無表情で、ただ静かに頷いた。
けれど、その琥珀色の瞳の奥に、気づく微かな苛立ちが揺れていたことに私は気付いた。ほんのわずかな影の揺らぎ。
私は、どうしてだろう。彼のその表情が、ずっと心に引っかかった。
感情を捨てろ、と言われて。
それでも、ルーカンは。
彼は、ちゃんと、心を持っているのだ。
私も。きっと、私たちも。
バラカンの怒号が響き、恫喝を浴び続けた訓練が終わって、私たちは静かに訓練室を後にした。
その日の夜、夕食を終え、部屋に戻ったあと。
レオが私の隣にそっと寄ってきた。
「なあ。ちょっと、面白い場所、見つけたんだ。」
彼は声をひそめる。イザベルとニコラ、そしてルーカンにも、こっそりと耳打ちをした。
「監視の目が届かないところがある。今夜、みんなで集まろうぜ。」
レオの瞳は、どこか嬉しそうに輝いていた。
彼の言う面白い場所"が、私たちの夜を少しだけ自由にしてくれることを、私はまだ知らなかった。




