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灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第1章:静寂に沈む船出
3/66

3、霧の檻(前半)

 船内は想像以上に広く、そして冷たかった。


 金属の床に座ると、船体の軋む振動がじわじわと背中に伝わってくる。その微かな揺れは、どこにも寄りかかれない不安を呼び起こす。空気は湿っていて重く、鉄と油の匂いが鼻をついた。


 少し息を吸うだけで、肺の奥にまでその重さが染み込んでくる。まるで、無機質な霧に包まれているような感覚。見えない檻の内側で、息づかいまでもが囚われていく。


 廊下は果てしなく続いていた。壁も天井も灰色一色で、冷たい光を放つ照明が等間隔で並ぶ。その光には、感情も記憶も、なにも映っていない。

 均一に設計された扉たちはどれも同じ顔をしていて、まるでここには逃げ道などないと無言で告げているようだった。


 同じ制服を着た子どもたちが、壁際のベッドや椅子に腰を下ろしていた。

 年齢も性別もばらばらだが、どの顔にも共通して浮かんでいたのは、疲労と不安、それから言葉にしがたい諦めのような色だった。


 窓はない。今が昼なのか夜なのか、わからない。時間の流れすら、どこかへ置き去りにされたような空間。監視官が少なくとも五人、通路の両端に銃を構えたまま立ち、ほかは無言で巡回している。


 その足音だけが、冷たい空気にぽつりぽつりと波紋を描いていた。その音は、耳で聞くというより、心のどこかに直接落ちてくるようだった。


 誰も話していない。話せないのではない。話すことそのものが罰になる——そう思わせる雰囲気が、この空間の隅々にまで染み込んでいた。視線すら交わされない。

 この沈黙は、ただの音のない状態ではなく、身を守るための皮膚のようなものだった。言葉を捨てることで、私たちは自分を隠しているのだ。


 私はそっと背筋を伸ばし、ひとつ深く息を吸った。


 ……まず観察する。どんな場所でも、冷静に、静かに。それは父の教えだった。


 医師だった父は、人を救う者の基本姿勢だと、繰り返し語っていた。

 感情に呑まれれば、誰も救えなくなる。だから私は、心のなかでその言葉をもう一度、噛みしめるように繰り返した。


 そのとき、不意に気配を感じた。

 誰かがこちらを見ている——そう思って、目だけを動かす。


 いた。斜め向かい、少し離れたところに、黒い影のような少年が座っていた。

 私と同じ制服。だが、何かが違っていた。


 姿勢は自然だった。無理に姿勢を正している子たちと違って、彼はまるで、金属の椅子すら彼の一部であるかのように溶け込んでいる。腕は膝の上に置かれ、脚も無駄に緊張していない。

 かといって、怠惰さもない。ただそこに、静かに在るという印象。呼吸が音にならず、気配が目立たない。まるで影のように。


 少年は、私を見ていた。

 目が合った。鋭い灰青色の瞳。冷たくもなく、熱を孕んでいるわけでもない、けれどどこか深く沈んだ湖のような色。すぐに目を逸らすわけでもなく、見つめ続けるわけでもなく


 ——その視線は、私を測っていた。


 声も、言葉も、交わしていないのに、何かが伝わった気がした。

 あれは、観察者の目だ。

 私の中の何かを、彼が測っている。目の前の表情ではなく、もっと奥にある、反応や判断の速度や、声にならない感情の動き……そういうものを、彼は探っているのだ。


 けれど、それは敵意ではなかった。

 むしろ、無用な摩擦を避けるための確認。

 たとえば、獣が他の獣の縄張りを確かめるような。

 いや、もう少し穏やかだった。……たとえば、静かに火のそばに近づこうとするときのような。


 私は、その視線を受け止めた。まっすぐに返すことはしない。だが、怖れるでも拒むでもなく、静かに、肯うように。

 彼はほんのわずかにまぶたを伏せ、それから目を逸らした。


 それだけのことだった。

 名前も、言葉も、何ひとつ知らない。

 でも私は、今のやり取りを、どこか忘れがたいものとして受け止めていた。


 彼のような人間が、この空間にいる。

 その事実が、理由もなく、少しだけ私を安心させた。


 誰にも気づかれないように、私はそっと、指先を緩めた。

 ほんの少しだけ。

 そう、ほんのわずかに。


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