22、降り立つ地(後半)
霧の濃さが、すこしだけ緩んだ気がした。
それでも視界はまだ白く濁っている。浜辺の先に広がる森は、影のように朧な輪郭をまとい、まるで近づけば消えてしまいそうな幻のようだった。
子どもたちは列を成して進む。
言葉はなく、誰もがそれぞれの沈黙に包まれていた。
足音だけが、砂の上を擦れるように連なっていく。
そのときだった。霧の向こうから、ふいに音がした。
「やっと来たか。」
声――だが、それは職員たちのものとは明らかに違っていた。
若く、男の声。けれど低く、冷えた石のような質感を帯びている。
思わず顔を上げた。
霧が、その声に応じるように、静かにほどけていく。
そして、現れた。
最初に目に入ったのは、ひとりの青年だった。
背は高く、肩幅も広い。その輪郭は霧の中にあってなお、はっきりと浮かび上がっている。
だが何よりも印象的だったのは、彼の存在感だった――まるで、炎。
赤銅色の髪。乾いた葉のような色が、白い霧の中で不思議と温かみを帯びて揺れている。
瞳は琥珀色。こちらを見ているはずなのに、その眼差しはどこか遠く、言葉よりも重いものをたたえていた。
私はこのとき、まだ彼の名を知らなかった。
けれど、その沈黙が語っていた。
この島で長く生きてきた者の重さを、彼は纏っていた。
「おーい、こっちこっち! こわい顔やめなってば!」
明るい声が響いた。
跳ねるような足取りで、女性が霧をかきわけて現れる。
肩まである赤茶の髪が、霧の中で陽光のように揺れていた。
その顔には屈託のない笑顔が浮かんでいる。だが、瞳の奥に張り詰めた光があった。
無邪気なようで、どこか擦れた明るさ。
明るいのに、どこか痛々しい――そんな印象を残す女性だった。
「ふふ、やっと来たね、新しい子たち。見た目はみんな子ウサギちゃんだけど……さて、中身はどうかな?」
その言葉に、イザベルがぎゅっと私の手を握った。
「……誰?」
「さぁね。これからわかるんじゃない?」
私はそう答えてみせたけれど、警戒は解けなかった。
笑顔の奥にあるものが、気にかかっていた。
「落ち着いて。」
やわらかな声が続いた。
今度は、霧の奥から穏やかな気配が近づいてくる。
その声の主は、先ほどの女性の背後から現れた。
彼は先ほどの少年よりも年下に見えた。柔らかな暗めの茶髪が額にかかり、翡翠のような瞳が優しく光っていた。
ほっそりとした体つきで、言葉を選ぶようにゆっくりと前に出る。
「こんにちは。怖がらないで。僕たちは同じだよ――ここで暮らしている子どもたち。」
その声は静かで、でも芯がある。
押しつけがましくないのに、奇妙な説得力があった。
「優しすぎ。警戒するのは当然よ」
女性が肩をすくめると、さらに小さな影がその後ろから顔を出した。
少女――年のころは十歳前後だろうか。
栗色の髪がうなじで結ばれ、小動物のような敏感さでこちらを見つめている。
目が合うと、すぐに視線をそらした。けれど、その頬がほんのり赤くなったのを、私は見逃さなかった。
「……挨拶して?」
暗茶髪の少年に促されて、その少女は小さく首を縦に振った。
「……こんにちは」
まるで葉擦れのような、かすかな声だった。
けれど、それだけで充分だった。
この子もまた、この島の目撃者なのだろう。
私はそっとイザベルの背中を押した。
彼女は私の手を握ったまま、小さな声で「こんにちは」と返した。
ふと、視線を感じた。
最初に現れた青年が、こちらをじっと見ている。
――いや、私を、見ている。
その眼差しは、鋭いというより、深い。
深くて、底なしのようだった。
何も語らないのに、その沈黙が問いを投げかけてくる。
(おまえは、なにを見ている?)
(ここで、生きていく気があるのか?)
そんな声が、言葉にせずとも胸の奥に響いた。
私はその視線を受け止め、わずかにうなずいた。
すると彼は、それに応えるように――ほんの一瞬だけ、目を細めた。
微かな動き。
けれど、それはまるで許可のようにも感じられた。
そのとき、背後から職員の足音が近づいた。
仮面の下に顔を隠したその姿は、霧の中からぬるりと現れる。
「これより、居住区に移動する。前の者の指示に従え。」
命令だけを放ち、すぐにまた沈黙へと戻る。
子どもたちは再び列を整え、ゆっくりと歩き出した。
私は最後にもう一度、あの少年を見た。
彼は一歩も動かず、霧の中に立ち尽くしていた。
まるで――自分がこの場所そのものであるかのように。
赤銅の髪が、霧のなかで小さく揺れた。
それは、炎の残り火のように見えた。




