20、孤島への対策(後半)
もうすぐだという気配が、空気の粒ひとつひとつに染み込んでいた。
船の揺れは静かだったけど、それがかえって不気味だった。海の底に沈んでいくような、逃げ場のない感覚。
私は、指先をそっと自分の膝に置いた。あたたかい。けれど、このあたたかさはいつまで続くだろう。
私たちは今、船というひとつの囲いのなかで、かろうじて守られている。けれど、その先には――わからない世界がある。
レオがまた、折りたたんだ紙を手の中で広げた。
「これ、ちゃんとまとめておこう。島に着いたら、見返せるかわからないし……」
倫がうなずいて、壁の影から一歩踏み出した。目が合った。彼は、ふっと笑った。
その笑みはやさしいけれど、どこか遠い。眠っていない目は、何かを抱えたまま、まばたきもしない。
「もう一度、最後の確認。名前は言わない。言いたくなっても、口に出す前に一回、考える」
「うん」
「わかってる」
「わたち、なまえ、ないもん」
イザベルの声に、皆が思わず笑った。緊張した空気が少しだけほぐれた。
ルーカンが彼女の頭を軽く撫で、レオがそっと紙の隅に「ぱちぱち=誰かきた」と書き添える。
「合図は……生きるための言葉だ」
倫の声が落ち着いて響く。
「僕らには、声を奪われることがあるかもしれない。でも、意思までは奪わせないようにしよう」
私はそれを聞きながら、胸の奥にひとつ、光をしまい込んだ。
怖いけれど、前を見なきゃ。私は――見ていたい。みんながここで生きている姿を。
船が揺れた。音はなかったのに、全員が一瞬、身を固くした。
それは、波ではなかった。舵が切られた音。誰かの意志が、船の向かう先を変えた気配。
ルーカンが窓のほうにすっと立ち上がる。その動きが早すぎて、私は息をのんだ。
「……霧、うすくなってきてる」
彼の声に、レオも立ち上がる。
「見える?」
「まだ。でも……もうすぐ見えるはずだ」
私は立ち上がれなかった。膝に置いた手を少しだけ握って、座ったまま、みんなの後ろ姿を見つめる。
イザベルは、レオの袖をつまんでいる。レオはその小さな手をそっと握り返していた。
倫が、そっと私の隣に腰を下ろした。
「見たくない?」
私は、首を横に振った。
「見たい。でも……たぶん、こわい」
「そっか」
彼は笑わなかった。ただ、前を見たまま言った。
「こわいままで、いいよ。僕らが行く場所は、こわいが正しいんだと思う」
船の軋む音。霧の向こうに、何かがかすかに見えた気がした。
暗い影。突き出した岩の尾根。崩れた柵。風のない場所に吹く風。
私は立ち上がった。足が震えるのがわかったけど、それでも窓に近づいた。
レオが振り返り、目を細めて言った。
「見えた。あれが……島」
そこに、あった。
島は、まるで時の止まった獣のようだった。
断崖に囲まれたその輪郭は、灰と墨のあいだを彷徨うような鈍い色で、上空から垂れ込めた雲が、そのまま地面に溶け落ちたかのようだった。
中央には、古い研究棟のような建物がいくつか、苔むした背骨のように並んでいる。
崩れかけた煙突、色の剥げた金属扉、斜めに傾いた監視塔。
島の奥には林のようなものが見えたけれど、木々の枝はどれも枯れていて、まるで腕を伸ばして誰かを呼んでいるかのようだった。
その全体が、高い柵と鉄条網で何重にも囲まれていた。
柵の向こうには、黒く染まった土と、風に動かない草が広がっている。
灰色のシルエット。それは、施設という言葉より、墓場に近かった。
けれど――それでも、そこは、生きる場所なのだ。
私たちが、これから生きていく場所。
もう、引き返すことはできない。
「ねえ」
私は声を出した。自分でも驚くくらい、静かな声だった。
「行こう、ちゃんと。誰もひとりにしない。……名前がなくても、家がなくても。ここにいるみんなで」
沈黙。
でも、それはたった数秒のことだった。
「当たり前だろ」
レオの言葉に、ルーカンが頷く。
「ここで終わらせるためじゃない。始めるために来た」
「わたちも、いるよ!」
倫が笑った。今度は、ちゃんと笑っていた。
そのとき、船の警告音が鳴った。
低く、濁った、鉄のような音だった。
「着岸準備……だな」
ルーカンの声が乾いていた。
私たちは一人ずつ、荷物を確認する。といっても、ポケットの中の折れたスプーン、紙片、小さな布の切れ端。
でも、それでいい。名前じゃない。肩書きじゃない。
これが、今の私たちなんだ。
そして、扉の外から、重たい足音が近づいてくる。
私は息を吸った。
匂いが変わっていた。昨日の朝とも、今朝とも違う。
島の匂い――何かが終わり、何かが始まる気配。
目を閉じた。
こわい。でも、大丈夫。私は、ここにいる。
そう、心の中で何度もつぶやいた。
私たちは、行く。
ひとりじゃないから。




