18、生き残るための備え(後半)
扉の向こうから響いていた足音が、ぴたりと止まった。
その瞬間、私は息を詰めた。――たぶん、みんなも同じだったと思う。
空気が凍りついて、喉がぎゅっと締めつけられる。声を出すのが、怖い。
「……やば……」
レオが小さくそうつぶやいて、口を押さえた。でも、遅かった。
扉の取っ手が、ギリ……と、嫌な音を立てて動きはじめた。
灯りは消してある。だけど、気配だけで――私たちが起きてることなんて、すぐにわかってしまう気がした。
不安が、肌の下を這うみたいに、ぞわっとした。
「倫……」
そう呼びそうになった。けど、私が声を出す前に、もう倫は動いていた。
「伏せて。寝てるふりして」
その声は小さくて、落ち着いていた。――まるで、ほんとうの指揮官みたいだった。
私は慌てて枕に顔をうずめる。ニコラもニコラも、言われたとおりに身体を丸めて動かない。
レオは固まっていたけど、ルーカンがそっとその体をかばうようにして、覆った。
暗闇の中でも、その優しさはちゃんと伝わってきた。
倫は静かに立ち上がった。
そして、一瞬、自分の手のひらを見つめた。――何を思ったんだろう。
そのあと、彼はまっすぐに扉へ向かって歩き出した。
ガチャン――
扉が開いた。
そこに立っていたのは、背の高い監視官。銀縁の眼鏡の奥、冷たい目が倫をまっすぐに捉える。
「何をしていた?」
「……皆の寝言がうるさくて、眠れませんでした」
倫の顔は少しも崩れない。
声は冷静で、でもわざとらしい冷たさはなかった。
私は気づいた――あれは研究室で見たときの顔。
大人に合わせて正しい答えを言うときの、倫の顔。
監視官の目が、部屋の中を探るように動く。
「騒ぎ声がした。反応が遅い。何を隠している?」
「……たぶん、誰かの寝言です。誰のかはわかりません。みんな、寝言を言っていましたから」
「証拠は?」
「ありません。必要でしょうか」
倫の言葉には挑発はなかった。
むしろ、あなたには権力があると認めてみせて、自分が従順な子どもだと思わせようとしている――そんなふうに、私は感じた。
沈黙が落ちた。
張り詰めた空気が、私たちの肩にじりじりとのしかかる。
やがて、監視官が鼻を鳴らす。
「……今後、再発した場合は処罰対象とする。眠れない者には、薬を与える選択肢もある」
「ありがとうございます。気をつけます」
倫の返事は、穏やかで少しも揺れていなかった。
彼が一歩下がると、監視官はもう一度室内を見回し、扉を閉めた。
――がちゃん。
その音とともに、部屋の空気が一気に動いた。
誰かが息を吐き、レオがへたりと座り込む。
「り、倫……すごかった……」
「よくやった」
ルーカンの低い声が響いた瞬間、私はもうがまんできずに駆け寄っていた。
「怖くなかったの? だって……」
倫の手が、私の肩にそっと触れた。
その手のひらは、少し汗ばんでいた。
「……もちろん、怖かったよ。でも、僕が怖がったら、みんなが捕まるかもしれなかった。だから、怖いって思う時間がなかっただけ」
その声は、静かだった。でも、静かさの奥に、芯が通っていた。
私の胸の中に、あたたかい何かが、そっと灯った。
「これから、また怖いことが起きると思う。でも――誰かが気づいて、誰かが守って、誰かが支えてくれたら……きっと乗り越えられる」
「……ほんとに?」
私は思わず聞き返してしまった。心のどこかで、信じたくて。
「うん」
その短い答えに、迷いはなかった。
ニコラが小さな声でつぶやいた。
「ちっちゃいことでも、ちゃんと役に立つんだね……。ぼく、もうちょっと考えてみる。楽しい暗号のつづき」
「わたちも! ミナだけにわかるサインとか、つくりたい」
ニコラが笑ってくれる。
ルカはまだ目を閉じたままだったけど、小さな手が寝返りの拍子に倫の方へ伸びていた。
ルーカンは黙ったまま、壁にもたれて目を閉じている。でも、その静けさが、頼もしく見えた。
倫が、皆を見回して言った。
「生きるって、たぶん……苦しいことなんだと思う。理不尽なこともあるし、痛いこともある。でも――」
そこでいったん言葉を切り、みんなの目を一人ひとり、ゆっくり見た。
「でも、小さなよいことを重ねていくのも、生きるってことなんだ。名前を守ること、合図を作ること、誰かのために勇気を出すこと。そういう全部が、希望になる」
私は、うん、と頷いた。
「……それが続けば、いつか自由って言える日が来るんだね」
「うん。だから、焦らなくていい。できることを、毎日ひとつずつやっていこう。そうすれば――」
彼はふっと、笑った。
「いつか道が開ける。……もしかしたら、僕たちの生き方が、檻の外まで届くかもしれない。誰かがそれを見て、壊そうと思ってくれるかもしれないから」
外はまだ、夜の海。
だけど、胸の奥には、たしかに明日って名前の火が灯った。
それは、小さな、小さな光だった。――でも、消えないって、私は思った。
私はそっと、倫に言った。
「……でも、一人で前に出るのはダメ。危ないよ。もしバレてたら……」
自分の声に驚いた。
そこには、心配と戸惑いと……隠しきれない怖さが混ざっていた。
倫は黙って私を見て、ほんの少しうつむいてから、静かに言った。
「怖いのは、当然のことだよ。僕だって、本当はこわかった。でも――」
彼は、まっすぐに私の目を見た。
「なにがあっても、ぜったいに守る。……だから、どうか耐えてほしい。つらいときも、さみしいときも、僕がいるって、忘れないで」
私は、息を呑んだ。
その言葉は、強がりじゃなかった。ごまかしでもなかった。
ただ、まっすぐで、あたたかかった。――私の胸を、そっと照らしてくれた。
「僕は、皆を見捨てない。どんなときでも、最後まで、いっしょにいる」
その静かな誓いが、深く胸に染みていった。
私は、小さく、でもしっかりと頷いた。
「うん……わかった。私、ちゃんと……がんばる」




