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灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第1章:静寂に沈む船出
2/66

2、番号で呼ばれる少女(後半)

 港の鐘が、低く鳴った。

 金属を打つような音が霧の向こうから微かに聞こえ、それに応えるように、船体がきしりと小さくうなった。

 その振動が足裏に伝わったとき、私ははっとして息をのんだ。


 ――もう、出てる。


 いつのまにかヘレボルス号は、音もなく海へと滑り出していた。


 誰の声もしなかった。

 泣く子も、叫ぶ子もいない。

 甲板には監視官たちの冷たい視線が並び、その上空を、灰色の鳥がひとつ、音もなく円を描いている。

 まるでこの世界から、音という概念が取り払われてしまったみたいに。


 私はそっと柵へ近づいて、霧に沈んだ海をのぞき込んだ。

 波は重たげに揺れ、灰色の水面は空をそのまま映していた。

 朝なのに、夜のようだった。


 どこへ向かっているのか、私たちは知らない。

 知らされていないし、訊くことも許されていない。

 けれど、それでも――ひとつだけわかることがある。


 この足が、もう二度と戻れない場所へ向かっているということだけは、確かだった。


「見張ってろ。動くな」


 すぐ近くの監視官が、別の者にそう言った。

 それは囁きにしてはやけに大きな声で、まるで誰かに聞かせるために用意された芝居の台詞みたいだった。


 ――この船で交わされる命令のほとんどは、そういうものだった。

 誰かに見せるためのもの。

 従うことで、自分がまだここに存在していると証明する、儀式のような――。


 そのとき、私のすぐ隣にいた小柄な男の子が、ふらりと身体を揺らした。

 眠気のせいか、緊張のせいか、それとも冷え込んだ空気のせいか。

 けれどその、一歩にも満たないぐらつきが、列を乱してしまった。


「C-284!」


 空気を切り裂くような声が甲板に響いた。

 監視官の警棒が、風を切って少年の脇腹へ叩きつけられる。

 乾いた音。

 彼は声を上げず、ただ短く息を呑み、その場に崩れ落ちた。


 誰も動かなかった。

 誰も、目を逸らさなかった。

 むしろ、目を逸らしてはいけないと、そう言われているようだった。


 監視官は顔を上げ、列に並ぶ私たちをひとりずつ睥睨した。

 その目は無表情で冷たく、けれど単なる見張りの目じゃなかった。

 感情を殺せるか。

 恐れを呑み込めるか。

 そんなことを、ひとりひとり試すような――ひどく人間じみた視線。


 私は身をこわばらせた。けれど、目は逸らさなかった。

 怖くても、見続ける。

 それがまだ、自分が私でいられる証だった。


 やがて少年は、ゆっくりと立ち上がった。何も言わず、ただ目を伏せて、元の列に戻った。

 誰も手を貸さない。

 貸せば、次に倒れるのは自分になる。

 ここでは、それが鉄則。


 ……だけど、そのときだった。


 ほんの一瞬、彼の肩に視線が触れた。

 視線――そう、声も言葉もなく、ただ目で、誰かが彼を見ていた。


 甲板の隅に座る、黒い静けさをまとったあの少年。

 感情のない仮面のように見えるその顔が、ほんのわずか、彼に向けられていた。


 何も言わず、何も動かず、ただ――見るだけ。


 でも、私は感じた。


(見ていたんだ……)


 それだけのことなのに、心の奥がふるえる。

 誰かが見ることで、誰かがここにいることを証す。

 それだけで、ひとつの魂が崩れるのを、ほんの少しだけ止められることがある。


 監視官の目が離れたとき、彼もまた、静かに視線を外した。

 私は、その横顔を見つめた。


 霧に沈みかけた灯火のように、かすかに光る沈黙。

 消えそうで、それでも消えない何かが、そこにあった。


 エンジンの音がわずかに強くなる。

 霧が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。

 けれど、まだ何も見えない。

 どこまでも深い奈落へ、私たちは進んでいるような錯覚におちいる。


「この船は、選ばれた者だけが乗る船だ」


 芝居じみた声で、別の監視官がそう言った。

 選ばれた?

 誰が、誰を?

 そして何のために?


 その言葉が、胸の奥にじっとりとした影を落とした。

 選ばれることに、希望も誇りもない。

 私たちはただ、何かを失った代償としてここにいる。

 それだけのことだ。


 風が吹いた。冷たい潮のにおいが鼻を刺す。


 私は唇を噛んだ。

 父が亡くなる直前、最後にくれた言葉が蘇る。


 ――泣くな。

 泣くな、ミナ。何があっても。愛しているよ。


 その声が、胸の奥に触れた瞬間、目の奥が熱くなった。

 でも、泣かなかった。泣きたくなかった。


 泣いたら、自分という存在が、音もなく崩れてしまいそうで――怖かった。


「到着まで待機」


 監視官の声が響く。

 再び、世界が沈黙に沈んだ。


 霧のなかを、船は静かに進み続ける。

 灰色の空と海のあいだを、まるで音も光もない深海のように。


 私はもう一度、あの少年を見た。

 彼は変わらない姿勢のまま、霧の向こうを見つめている。


 まるで、すでにその先を知っている者のように。


(あなたは……何を知っているの?)


 声にはならない。

 けれど、その問いは、確かに私の中に落ちていった。


 名も知らない、でも、名よりも先に心が覚えた“気配”。


 名前を奪われた場所で、私たちは名ではなく、感覚で誰かを識る。

 それはこの霧のなかにしか存在しえない、

 とても静かで、けれど確かな――魂の結び目。


 船は、ゆっくりと霧の奥へ進んでいく。


 やがて、島が見えるだろう。

 けれど今はまだ――名もなき霧のなか、

 沈黙だけが、すべてだった。


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― 新着の感想 ―
静かで淡々としているのに、ずっと胸の奥がざわついていました。
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