2、番号で呼ばれる少女(後半)
港の鐘が、低く鳴った。
金属を打つような音が霧の向こうから微かに聞こえ、それに応えるように、船体がきしりと小さくうなった。
その振動が足裏に伝わったとき、私ははっとして息をのんだ。
――もう、出てる。
いつのまにかヘレボルス号は、音もなく海へと滑り出していた。
誰の声もしなかった。
泣く子も、叫ぶ子もいない。
甲板には監視官たちの冷たい視線が並び、その上空を、灰色の鳥がひとつ、音もなく円を描いている。
まるでこの世界から、音という概念が取り払われてしまったみたいに。
私はそっと柵へ近づいて、霧に沈んだ海をのぞき込んだ。
波は重たげに揺れ、灰色の水面は空をそのまま映していた。
朝なのに、夜のようだった。
どこへ向かっているのか、私たちは知らない。
知らされていないし、訊くことも許されていない。
けれど、それでも――ひとつだけわかることがある。
この足が、もう二度と戻れない場所へ向かっているということだけは、確かだった。
「見張ってろ。動くな」
すぐ近くの監視官が、別の者にそう言った。
それは囁きにしてはやけに大きな声で、まるで誰かに聞かせるために用意された芝居の台詞みたいだった。
――この船で交わされる命令のほとんどは、そういうものだった。
誰かに見せるためのもの。
従うことで、自分がまだここに存在していると証明する、儀式のような――。
そのとき、私のすぐ隣にいた小柄な男の子が、ふらりと身体を揺らした。
眠気のせいか、緊張のせいか、それとも冷え込んだ空気のせいか。
けれどその、一歩にも満たないぐらつきが、列を乱してしまった。
「C-284!」
空気を切り裂くような声が甲板に響いた。
監視官の警棒が、風を切って少年の脇腹へ叩きつけられる。
乾いた音。
彼は声を上げず、ただ短く息を呑み、その場に崩れ落ちた。
誰も動かなかった。
誰も、目を逸らさなかった。
むしろ、目を逸らしてはいけないと、そう言われているようだった。
監視官は顔を上げ、列に並ぶ私たちをひとりずつ睥睨した。
その目は無表情で冷たく、けれど単なる見張りの目じゃなかった。
感情を殺せるか。
恐れを呑み込めるか。
そんなことを、ひとりひとり試すような――ひどく人間じみた視線。
私は身をこわばらせた。けれど、目は逸らさなかった。
怖くても、見続ける。
それがまだ、自分が私でいられる証だった。
やがて少年は、ゆっくりと立ち上がった。何も言わず、ただ目を伏せて、元の列に戻った。
誰も手を貸さない。
貸せば、次に倒れるのは自分になる。
ここでは、それが鉄則。
……だけど、そのときだった。
ほんの一瞬、彼の肩に視線が触れた。
視線――そう、声も言葉もなく、ただ目で、誰かが彼を見ていた。
甲板の隅に座る、黒い静けさをまとったあの少年。
感情のない仮面のように見えるその顔が、ほんのわずか、彼に向けられていた。
何も言わず、何も動かず、ただ――見るだけ。
でも、私は感じた。
(見ていたんだ……)
それだけのことなのに、心の奥がふるえる。
誰かが見ることで、誰かがここにいることを証す。
それだけで、ひとつの魂が崩れるのを、ほんの少しだけ止められることがある。
監視官の目が離れたとき、彼もまた、静かに視線を外した。
私は、その横顔を見つめた。
霧に沈みかけた灯火のように、かすかに光る沈黙。
消えそうで、それでも消えない何かが、そこにあった。
エンジンの音がわずかに強くなる。
霧が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。
けれど、まだ何も見えない。
どこまでも深い奈落へ、私たちは進んでいるような錯覚におちいる。
「この船は、選ばれた者だけが乗る船だ」
芝居じみた声で、別の監視官がそう言った。
選ばれた?
誰が、誰を?
そして何のために?
その言葉が、胸の奥にじっとりとした影を落とした。
選ばれることに、希望も誇りもない。
私たちはただ、何かを失った代償としてここにいる。
それだけのことだ。
風が吹いた。冷たい潮のにおいが鼻を刺す。
私は唇を噛んだ。
父が亡くなる直前、最後にくれた言葉が蘇る。
――泣くな。
泣くな、ミナ。何があっても。愛しているよ。
その声が、胸の奥に触れた瞬間、目の奥が熱くなった。
でも、泣かなかった。泣きたくなかった。
泣いたら、自分という存在が、音もなく崩れてしまいそうで――怖かった。
「到着まで待機」
監視官の声が響く。
再び、世界が沈黙に沈んだ。
霧のなかを、船は静かに進み続ける。
灰色の空と海のあいだを、まるで音も光もない深海のように。
私はもう一度、あの少年を見た。
彼は変わらない姿勢のまま、霧の向こうを見つめている。
まるで、すでにその先を知っている者のように。
(あなたは……何を知っているの?)
声にはならない。
けれど、その問いは、確かに私の中に落ちていった。
名も知らない、でも、名よりも先に心が覚えた“気配”。
名前を奪われた場所で、私たちは名ではなく、感覚で誰かを識る。
それはこの霧のなかにしか存在しえない、
とても静かで、けれど確かな――魂の結び目。
船は、ゆっくりと霧の奥へ進んでいく。
やがて、島が見えるだろう。
けれど今はまだ――名もなき霧のなか、
沈黙だけが、すべてだった。