14、静かな監獄(後半)
風が、変わった。
甲板に差し込む陽が、少しだけ傾いている。
倫があの扉の向こうへ連れていかれてから、どれくらい時間が経っただろう。
私は何度も、その無機質な扉を見つめた。
でも、そのたびにルーカンが小さく首を振る。静かに。
焦っても、無意味だ――そう言っているように。
今、私たちにできることをしよう。
そう、自分に言い聞かせた。
「ん……よし」
船壁の陰からルーカンが立ち上がった。
静かに深呼吸をして、脚を肩幅に開き、両腕を前に。背筋をぴんと伸ばして――その動きは空気をすっと切り裂くみたいに滑らかで、思わず見とれてしまう。
「なにしてんの、それ?」
レオがひょいと肩を回しながら、からかうように言った。
「剣術の前にやる体操だ。おまえもやってみるか?」
「剣術!? ほんとに!?」
レオの目がまるくなる。
ルーカンは言葉の代わりに、ただひとつうなずいた。
その背中からは、静かでしなやかな強さが滲み出ていた。
肩甲骨の動きひとつで、全身に力が通っているのがわかる。
――かっこいい、なんて言葉じゃ足りない。
「やるやる! オレもやるー!」
レオが先に駆けだして、ニコラも少し戸惑いながらついていった。
私は、少し迷ってから、声を出した。
「私も……見てて、いい?」
ルーカンは振り返って、小さくうなずく。
その仕草に、胸の奥がふわっとなる。
何も言わないけど――優しさが、伝わってくる。
「いいか。剣を持てなくても、体は資本だ。食べられない日があっても、逃げなきゃいけない日があっても――生き残るには、体を動かせるかどうかだ。……特に、ここではな」
その言葉の重みが、少しだけ胸をしめつける。
でも、それ以上に、ルーカンの静かなまなざしが、私たちの背中を押してくれた。
彼は腰を落とし、重心を左右に移しながら、呼吸と動きを合わせていく。
レオとニコラが、それを真似して動く。
何度も転びそうになるけど、ふたりとも、笑っていた。
――そうだ、笑ってる。こんなふうに、笑える時間が、まだここにある。
私は少しだけ離れて、その光景を見ていた。
かつては、体を動かすことすら許されなかった。
だから今、それがまるで夢みたいに輝いて見えた。
「……肩に力、入りすぎ。ほら、こっち」
ルーカンが、ニコラの背に手を添える。
その手つきはとてもやさしくて、ニコラの顔に、ほんのりと自信が宿ったように見えた。
「じゃあ、もう一回、最初から!」
レオが張り切って声を上げる。
ルーカンも、応えるように動こうとして――
そのときだった。
キイィ……と、金属の扉が軋んで、開いた。
場の空気がぴたりと止まる。
皆の視線が、一斉に扉へと向かった。
そこに立っていたのは――倫だった。
彼は黙ったまま、一歩、また一歩と歩いてくる。
足音は静かで、でもどこか、波紋のような揺れを残している。
髪の一部が濡れているように見えた。
水にしては重く、汗にしては少し乾きかけたような、そんな濡れ方。
そして、微かに鉄と煙の混ざった匂いが、ほんの一瞬だけ、私の鼻をかすめた。
肌がわずかに赤くて、唇の色が濃くて――目元には、薄い潤みが残っているようだった。
息を整える間もなく戻ってきたような、そんな様子。
だけど――口元には、どこか見透かすような微笑みが浮かんでいた。
「倫……」
私は小さく名前を呼んだ。
心配と、それ以上に言葉にできない感情が入り混じって、喉が熱くなる。
ルーカンがそっと前に出る。
彼は何も言わずに倫を見つめて――視線を一度だけ、下に落とし、そしてまた戻した。
それだけで、なぜか胸の奥がざわめいた。
「…………軽く、検査された。汗かいたからって、拭かれて。ちょっとだけね」
倫の声は、冗談めいていた。
でも、その響きは乾いていて、今にも壊れそうな柔らかさを含んでいた。
「汗かいて拭かれたって……なんか、変なの!」
レオが笑いながら言って、それにつられるようにニコラも笑った。
私は、笑えなかった。
でも、小さくうなずいて、目を伏せた。
その間に――私は、風のなかに紛れ込んだ異質なものを感じ取っていた。
それは、鮮やかすぎて、目を逸らせない色をしていた。
「なんか……目が潤んでるよ? 泣いてたの?」
私がそっと尋ねると、倫は少しだけ私を見て――ふっと視線を落とした。
「ううん。……ちょっと、目に……煙が入っただけ」
それを聞いたとき、胸の奥がひりひりと痛んだ。
きっと、それは嘘だ。
でも――問い詰めることは、できなかった。
倫の頬は少しだけ赤くて、目元には、まだ微かな湿りが残っていた。
それはまるで、凍える森で偶然見つけた焚き火のように――不器用だけど、確かに温かかった。
そのとき、レオが手を挙げて言った。
「じゃあさ、倫も一緒にやろ! ルーカンの剣術体操! かっこいいんだよ!」
倫は、少しだけ驚いたように目を瞬かせて――ゆっくり、笑った。
「うん……やってみたいな。教えて、ルーカン」
「……ああ」
ルーカンの短い返事に、何かが重なり合った気がした。
それを感じた瞬間、私の胸の奥が、やわらかく、あたたかくなる。
遠くで、カモメの声がかすかに響いた。
風が、また変わっていた。
ほんの少しだけ、春の匂いが混じっていた。




