11、名を持たぬ影(前半)
その音が、船底の空気を変えた。
じゃらり。
乾いた鎖の音が、足元の金属を擦って響く。
私はすぐに目を上げた。鈍い灯りの奥、濡れた鉄の床の向こうから、ひとつの影が現れた。小さな、小さな人影。少年――五歳くらいだろうか。肩は細く、膝は震え、歩くたびに足が水たまりを踏む。
なのに、まるで年老いた人のように、ゆっくりと、確かめるように進んでくる。
腕には鎖が巻かれていた。つながれていた先は、もう解かれていたのだろう、引きずるようにしてその音を鳴らしていた。彼の足音より、その鎖の音のほうがはっきりと聞こえた。
軍服の監視官のひとりが、無表情に言った。
「例のやつだ。降ろすな。部屋に入れるぞ」
例のやつ。それがその子のすべてだった。名も、年も、言葉さえも、そこにはなかった。
誰も、動かない。
ルーカンは目を伏せ、レオは眉をしかめて横を向いた。イザベルは私の腕にしがみついたまま、ひとつも言葉を発さなかった。
私は、その子を見ていた。目が合うことはなかった。彼の視線はどこにも向けられていなかった。ただ前に、ただ地面に、ただ、歩いていた。
「……何かを、なくしてる」
私はそう思った。直感だった。
その子の周りには、沈黙がまとわりついていた。声を失っただけじゃない、何かもっと深い――心の底にある光をひとつ、手放してしまった人のような。
そのとき、静かに歩み寄ったのは倫だった。彼はゆっくりと膝をつき、子どもの目の高さまで身をかがめて、何かを取り出した。
そのとき、静かに歩み寄ったのは倫だった。
彼の動きはいつもより慎重で、少しだけ震えている指先がぬいぐるみを取り出した。
「君の……だと思うんだ」
倫の手のひらには、小さなぬいぐるみがいた。
くたびれた竜。赤い布と銀の糸で継ぎ接ぎされていて、角が折れている。だけど、そこには確かに、誰かの温もりと祈りが縫い込まれているようだった。
倫は少年の目を見つめ、短く息を吐いた。
「名前を、知ってる。君は……レオだよね?」
その言葉に、少年ははじめて動きを止めた。
小さな目が、ふるえる。
「……う……」
かすかな、かすかな音が喉から漏れた。
ぬいぐるみを見つめていた瞳が、次の瞬間――
「うあああ……! うぁ……!」
崩れたように泣きだした。
小さな手が、竜のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。その姿は、もう何も守れないと思っていた命が、最後に掴んだ救いのようで。
私は駆け寄って、その背をそっと撫でた。骨があたるように細くて、肩が熱かった。あまりに小さなその背中が、泣きながらふるえていた。
「大丈夫、大丈夫だよ……」
私はそう言うしかなかった。意味があるのかは分からなかった。でも、言わずにはいられなかった。
そのとき、鎖の音がまた鳴った。
倫が、少年の腕に巻かれた鎖に手を伸ばしていた。
指先はわずかに震えている。
彼の胸の奥で、子どもの頃の痛みが疼くのが見えるようだった。
何度か錠前の仕組みを確かめて、腰から針金のようなものを取り出すと、小さく息を吐いた。
「ちょっとだけ、じっとしてて」
そして、わずかな音だけを立てて、錠を外した。
カチャリ。
鎖が地面に落ちる。金属の音が、乾いた床に響いた。少年は顔をあげない。ただ、腕に巻かれていた金属がなくなったことを、肌で感じていた。
「……もう、いらないよ。そんなの」
倫の声は優しかった。でも、どこか切なさも滲んでいた。
私はその様子を見て、胸の奥が熱くなった。
鎖が外れたからといって、この子の心から重さがなくなるわけじゃない。それでも――それでも、いまこのとき、誰かがそっと外してくれたという事実は、きっとどこかに残る。たとえ言葉がなくても。
倫は少年の顔を見て、そっと囁いた。
「監視官の前じゃ言えないけど……ここでは、名前で呼んでいいからね。話したくなったら、でいいけど」
少年は答えなかった。けれど、ぬいぐるみを抱きしめたまま、泣き声は次第におさまりはじめていた。
私のそばにいたイザベルが、小さな声で言った。
「これ、このこがだっこしてる ぬいぐるみちゃんのなまえは?」
私はうなずいた。
「きっとね、だいじな名前があるんだよ。いまは忘れちゃってても、どこかにちゃんとあるの」
そのとき、レオがふと私たちのほうを見て、視線を少しだけ落とした。言葉はなかったけれど、たぶん彼なりに、何かを理解しようとしていた。
誰も、笑っていなかった。けれど、ここにいた全員が、ほんの少しだけ――冷たさの奥で、あたたかなものを感じていた気がする。
私はその瞬間、ふと昔のことを思い出した。
自分がまだ言葉を持てなかったあの頃。誰にも気づいてもらえず、鎖に縛られているような孤独に押しつぶされそうになっていた。あのとき、もし誰かがミナと呼んでくれていたら……。
だから今、目の前のこの子にも、名前を呼んであげたい。確かにそこにいるのだと思い出してほしい。




