10、鈴の音と薔薇(後半)
その夜、眠りは浅く、夢も見なかった。ただ、船の底のような静けさが、頭の中にずっと残っていた。
私は目を開け、そっと体を起こす。まるで水の底にいるみたいな、重たい空気。何かが気になって、ベッドから抜け出すと、あの子のことを思い出した。
――イザベル。
あの子の小さな声。指先の動き。目に浮かんだ涙。
廊下に出て、音を立てないように歩いた。鉄の壁に沿って、扉の隙間からのぞくと、小さな影が座っていた。
「……イザベル?」
名前を呼ぶと、影がぴくんと動いた。振り向いたのは、薔薇のように巻いた赤い髪の女の子。あの子だった。
「ミナ……」
ぬいぐるみを抱いたまま、目がとろんとしている。けれど、起きていた。
「ねむれなかったの?」
「うん……シュヴァルが……かなしいの」
「シュヴァル……?」
私が首をかしげると、イザベルはそっとぬいぐるみを持ち上げた。
「このこ……おなか、いたいの……。シュヴァルが、ないてるの……」
小さな声。ぬいぐるみの耳が少し曲がっていて、毛並みがよれていた。
「そっか……シュヴァル、泣いてるんだね」
私はイザベルの隣に座った。イザベルは私の顔をじっと見て、それからぬいぐるみに向かって小さく「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言い聞かせるようにさすっていた。
「イザベル、シュヴァルって、どんな子?」
「ちっちゃくて、つよいの。まもってくれるの」
「守ってくれるの?」
「うん。まえ、おおきなこえのひとが、こわかったとき……シュヴァル、ギュッてしてくれた」
イザベルは、ぬいぐるみの胸のあたりを小さな手でぎゅうっと押さえた。
「ギュッて?」
「うん。ちいさなきしなの」
私は心の中で少し笑った。たぶん、それは誰かが教えた言葉だ。誰かがあの子に、騎士って言葉をくれたんだ。守ってくれるもの。小さくても、頼りになるもの。
「じゃあ、シュヴァルは、イザベルのヒーローだね」
「……ヒーロー?」
「うん、いちばんたいせつなおともだち」
イザベルは黙って、ぬいぐるみを抱きしめ直した。胸にぎゅっと押しあてるように。
そのとき、扉の奥で足音が止まった。私は反射的に身をこわばらせたが、現れたのは、倫だった。静かに、こちらを見ている。
「起きてたんだね」
倫の声は、とても静かだった。イザベルは、ちょっと緊張したようにぬいぐるみを抱きしめて顔をそむけた。
「こわくないよ」
倫はしゃがんで、イザベルと目の高さを合わせた。
「その子、名前があるんだ?」
イザベルは迷ったあと、小さくうなずいた。
「シュヴァル……」
「いい名前だね。とても強そう」
「つよいの。まもってくれるの」
倫は微笑んで、ほんの一瞬だけ自分の胸に手を当てた。
「そういうものがいるのは、とても大事なことだよ。名前を呼んで、そばにいてくれる。どんなに暗くても、こわくても、その子がいれば大丈夫って思えるよね」
イザベルは、それを全部わかってるかはわからないけれど、なんとなく雰囲気で察しているように、うなずいた。
「わたちね、まえ……なにもしゃべれなかったとき、シュヴァルだけが、ことば、わかったの」
「それって、すごいね」
私は思わず口に出していた。きっとそれは、イザベルにとっての名前よりも深い繋がりなんだ。誰にもわからない声を、シュヴァルだけが聞いてくれた。
倫が静かに言った。
「……ここは、何かを忘れさせようとする場所かもしれない。でも、忘れなくていい。大切な名前や思い出や、こうしてシュヴァルと話したこと、全部、心の奥にしまっておこう」
「シュヴァルと、しまうの?」
「うん。シュヴァルがいてくれれば、だいじょうぶ」
倫は、イザベルのぬいぐるみの頭をそっと撫でた。イザベルはびくっとしたけれど、ぬいぐるみを見て、それから倫を見て、ちいさく笑った。
「シュヴァル、ありがとうって、いってるの」
「そっか。それは、嬉しいな」
私は、そのときふと思った。
きっと、この子は、何もわかっていないわけじゃない。ただ言葉が足りないだけで、心にはちゃんと、痛みも、寂しさも、守りたいものも、全部ある。
私はイザベルの肩にそっと手を添えた。
「わたちも、シュヴァルにありがとうって言いたいな。……イザベルの心を、ちゃんと、守ってくれてありがとうって」
イザベルは私を見上げ、眠たげな目でにこっと笑った。きっと今夜は、少しだけ、夢を見られる気がした。




