9、鈴の音と薔薇(前半)
港の空気が、いつの間にか変わっていた。
昨日まで聞こえていた子どもたちの声が、ずいぶん遠くに感じる。風が吹くたびに、鉄と潮の匂いが肌を刺して、思わず肩をすくめてしまった。
私は、低く垂れこめた雲の下、錆びた鉄柵のそばに立ち、ただぼんやりと遠くを見ていた。
その先に、次々と新しい子どもたちが連れてこられてくるのが見えた。
ある子は、母親らしき人の胸に飛び込み、わっと声をあげて泣いていた。別の子は、白い服を着た大人に手を引かれて、まるで何も感じていないような顔で歩いていく。再会の涙と、別れの沈黙。
その両方が、ひっそりとこの港に染みこんで、風にさらわれていた。
だけど――その中に、目を奪われる存在がいた。
真紅の巻き毛に、薔薇色のドレス。ぬいぐるみをしがみつくように抱きしめて、軍服の男の腕の中にいる、小さな女の子。ドレスの裾は少し汚れていて、首元には小さな鈴が揺れていた。
…なんだか、壊れそうな飾り人形みたいだった。
「次、D-315、搬送完了」
無機質で冷たい声が、その子の上に落ちた瞬間――何かが、私の中でぱんと弾けた。
名前じゃない。番号。
たったそれだけのことで、喉の奥がひどく痛くなった。震えるような目をして、まだ何もわかっていない顔で、それでもぬいぐるみを守ろうとする手だけが、この場所を必死に拒んでいた。
「ひどい……」
気づいたときには、私は声に出していた。知らず知らず、足が数歩前に出ていた。
「ミナ」
背後から聞こえたのは、ルーカンの声。低くて、静かで、でもどこか釘を刺すような響きがあった。
私は振り返った。でも、彼の目にあったのは咎めじゃなかった。むしろ、私と同じ痛みを抱えている目だった。
「番号で呼ぶのは、この場所のやり方だ。覚えておけ」
「……だからって」
唇を噛んだ。悔しくて、悲しくて。
「名前があるのに、番号で呼ぶなんて……」
「お前が怒っても、あの子は救われない」
その言葉は冷たく聞こえた。でも、私は知ってる。この人は、冷たいだけの人じゃない。心の奥に、暗く燃えるような炎を隠していることを。
私はもう一度、あの子を見つめた。D-315。そんなふうに呼ばれた子は、別の監視官に手を引かれて、鉄のゲートへと向かっていた。あの扉が閉まったら――あの子はもう、誰かじゃなくなってしまう気がした。
だめ。
私は駆けた。監視官の死角を縫って、あの子のそばへ。
「……怖くない、大丈夫」
囁くように、優しく、できるだけ静かに言葉をかけた。
「名前、あるでしょう? それ、大事にして。名前は……あなたがあなたであるってこと。誰にも奪わせちゃだめ」
あの子は私を見上げた。戸惑ったような瞳。その中に、一瞬だけ、かすかな光が差した気がした。
私はそっと、その小さな手を握った。白くて細くて、冷たかった。でもその手には、ぬいぐるみの足がぎゅっと握られていて――それだけが、この場所の現実から彼女を守っていた。
「あなたの名前は、あなたのもの。ここでは誰も教えてくれないけど、忘れないでね」
そのとき、鈴の音が鳴った。高くて、鋭くて――警告音。
見つかった。
すぐにルーカンが駆け寄ってきて、私の腕を引いた。静かで迷いのない動きだった。
「もういい」
そう囁いた彼の声には怒りはなく、ただ真剣な響きだけがあった。
「連れていかれるぞ」
私はうなずき、あの子の手をそっと離した。そのとき――
「……イザベル」
かすかな、ほんとうに小さな声。風に紛れてしまいそうな、儚い声。
でも、私は確かに聞いた気がした。その名を。
(イザベル。忘れない。絶対に)
それは約束だった。言葉にはしなかったけれど、きっと伝わる。祈りのような、魂の端に灯る約束だった。
その晩、食堂は不自然なほど静かだった。
古びたテーブルの上に、誰かがそっとトランプを置いた。ボロ切れに包まれていたそのカードが、子どもたちの間に配られていく。勝ち負けなんて、誰も気にしていない。
ただ、カードを受け取る手が、それぞれにまだここにいると確かめるように動いていた。
名前を呼ぶことさえ許されないこの場所で。
トランプは、私たちがまだ人間であることを思い出させてくれる、ただ一つの遊びだった。
「……やっぱりさ、やるんだな、これ」
隣でルーカンがぼそりとつぶやいた。
「何が?」
「トランプ。ここじゃ、名前の代わりだ。ほら、ハートのジャックとか、スペードのエースとか。勝手に名前つけて、呼び合うんだ」
私は手元のカードを一枚めくった。クラブの5。その形が、ひどく冷たく感じられた。
「でも……私は、ちゃんと名前で呼びたい」
「そうか」
ルーカンは短くそう言って、少しだけ笑った。
ほんの一瞬の、でも確かに温かさのある笑みだった。




