表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第1章:静寂に沈む船出
11/66

9、鈴の音と薔薇(前半)


 港の空気が、いつの間にか変わっていた。


 昨日まで聞こえていた子どもたちの声が、ずいぶん遠くに感じる。風が吹くたびに、鉄と潮の匂いが肌を刺して、思わず肩をすくめてしまった。

 私は、低く垂れこめた雲の下、錆びた鉄柵のそばに立ち、ただぼんやりと遠くを見ていた。


 その先に、次々と新しい子どもたちが連れてこられてくるのが見えた。


 ある子は、母親らしき人の胸に飛び込み、わっと声をあげて泣いていた。別の子は、白い服を着た大人に手を引かれて、まるで何も感じていないような顔で歩いていく。再会の涙と、別れの沈黙。

 その両方が、ひっそりとこの港に染みこんで、風にさらわれていた。


 だけど――その中に、目を奪われる存在がいた。


 真紅の巻き毛に、薔薇色のドレス。ぬいぐるみをしがみつくように抱きしめて、軍服の男の腕の中にいる、小さな女の子。ドレスの裾は少し汚れていて、首元には小さな鈴が揺れていた。

 …なんだか、壊れそうな飾り人形みたいだった。


「次、D-315、搬送完了」


 無機質で冷たい声が、その子の上に落ちた瞬間――何かが、私の中でぱんと弾けた。


 名前じゃない。番号。


 たったそれだけのことで、喉の奥がひどく痛くなった。震えるような目をして、まだ何もわかっていない顔で、それでもぬいぐるみを守ろうとする手だけが、この場所を必死に拒んでいた。


「ひどい……」


 気づいたときには、私は声に出していた。知らず知らず、足が数歩前に出ていた。


「ミナ」


 背後から聞こえたのは、ルーカンの声。低くて、静かで、でもどこか釘を刺すような響きがあった。


 私は振り返った。でも、彼の目にあったのは咎めじゃなかった。むしろ、私と同じ痛みを抱えている目だった。


「番号で呼ぶのは、この場所のやり方だ。覚えておけ」


「……だからって」


 唇を噛んだ。悔しくて、悲しくて。


「名前があるのに、番号で呼ぶなんて……」


「お前が怒っても、あの子は救われない」


 その言葉は冷たく聞こえた。でも、私は知ってる。この人は、冷たいだけの人じゃない。心の奥に、暗く燃えるような炎を隠していることを。


 私はもう一度、あの子を見つめた。D-315。そんなふうに呼ばれた子は、別の監視官に手を引かれて、鉄のゲートへと向かっていた。あの扉が閉まったら――あの子はもう、誰かじゃなくなってしまう気がした。


 だめ。


 私は駆けた。監視官の死角を縫って、あの子のそばへ。


「……怖くない、大丈夫」


 囁くように、優しく、できるだけ静かに言葉をかけた。


「名前、あるでしょう? それ、大事にして。名前は……あなたがあなたであるってこと。誰にも奪わせちゃだめ」


 あの子は私を見上げた。戸惑ったような瞳。その中に、一瞬だけ、かすかな光が差した気がした。


 私はそっと、その小さな手を握った。白くて細くて、冷たかった。でもその手には、ぬいぐるみの足がぎゅっと握られていて――それだけが、この場所の現実から彼女を守っていた。


「あなたの名前は、あなたのもの。ここでは誰も教えてくれないけど、忘れないでね」


 そのとき、鈴の音が鳴った。高くて、鋭くて――警告音。


 見つかった。


 すぐにルーカンが駆け寄ってきて、私の腕を引いた。静かで迷いのない動きだった。


「もういい」


 そう囁いた彼の声には怒りはなく、ただ真剣な響きだけがあった。


「連れていかれるぞ」


 私はうなずき、あの子の手をそっと離した。そのとき――


「……イザベル」


 かすかな、ほんとうに小さな声。風に紛れてしまいそうな、儚い声。


 でも、私は確かに聞いた気がした。その名を。


(イザベル。忘れない。絶対に)


 それは約束だった。言葉にはしなかったけれど、きっと伝わる。祈りのような、魂の端に灯る約束だった。


  


 その晩、食堂は不自然なほど静かだった。


 古びたテーブルの上に、誰かがそっとトランプを置いた。ボロ切れに包まれていたそのカードが、子どもたちの間に配られていく。勝ち負けなんて、誰も気にしていない。

 ただ、カードを受け取る手が、それぞれにまだここにいると確かめるように動いていた。


 名前を呼ぶことさえ許されないこの場所で。


 トランプは、私たちがまだ人間であることを思い出させてくれる、ただ一つの遊びだった。


「……やっぱりさ、やるんだな、これ」


 隣でルーカンがぼそりとつぶやいた。


「何が?」


「トランプ。ここじゃ、名前の代わりだ。ほら、ハートのジャックとか、スペードのエースとか。勝手に名前つけて、呼び合うんだ」


 私は手元のカードを一枚めくった。クラブの5。その形が、ひどく冷たく感じられた。


「でも……私は、ちゃんと名前で呼びたい」


「そうか」


 ルーカンは短くそう言って、少しだけ笑った。


 ほんの一瞬の、でも確かに温かさのある笑みだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ