8、青い蝶の少年(後半)
その夜の食事は、息が詰まるほど静かだった。
スプーンが器に触れる音。パンをちぎる音。椅子が、ほんの少し軋む音。
それだけが、薄暗い部屋の中に、染みこむように響いていた。
誰も、倫のことを口にしなかった。
でも……誰もが感じていた。
どこに行ったのか。なぜ、まだ戻ってこないのか。
胸の奥に、濁った水のように沈んで、動けずにいる問い。
けれど、それを声にしたら、すべてが壊れてしまいそうで――誰も、何も言わなかった。
私は、スプーンを持ったまま手を止めて、部屋の隅を見つめていた。
あの子がいた。
名前も、まだ知らない。
ただ膝を抱えて、顔を伏せたまま、じっとしていた。まるで、時間だけが通りすぎていく人形のように。
明るい金色の髪。どこか濡れたような、暗い湖底のような瞳。その色だけが、脳裏に焼きついて離れなかった。
誰とも目を合わせようとせず、誰とも言葉を交わさず、呼吸の存在すらも感じさせないほど、あの子は――静かだった。
気づけば、ルーカンが私の隣に座っていた。
彼も食事を終えたらしく、皿は持っていなかった。
「……あの子、泣いてるわけじゃないのに、壊れたお人形みたい」
ぽつりとこぼれた言葉。
私の声なのに、少し遠くで聞こえたような気がした。
ルーカンは、そっと目を細めた。
「そう見えるなら、まだ壊れてないのかもな」
「え……?」
「壊れたら、もう何も映らないよ」
その声は静かだった。でもその奥に、刃のような冷たさがあった。
目には見えない何かが、空気の中で震えたように思えた。
私は、何も言えなかった。
――扉の向こうから、きしむ音が聞こえた。
誰もが、一斉に息を止める。
倫だった。
制服の袖が少し乱れていたけれど、あの柔らかな笑みはいつも通りで――まるで、何事もなかったかのように、穏やかに食堂へ戻ってきた。
でも、私は気づいていた。
歩き方が、ほんのわずかに、変わっていた。
足を引きずっているわけでもない。怯えている様子もない。
けれど、どこか慎重で、何かを背負っているような、静かな歩みだった。
「おまたせ」
倫がそっとテーブルに置いたのは、小さな紙パックだった。
オレンジジュース。
食堂の空気が凍りつく。
倫は、ためらいもなくあの子――レオの前にしゃがみこみ、紙パックを差し出した。
「これ、どうぞ」
あの子は動かない。でも、ほんの少しずつ、指先が震えながら動いて――
紙パックを、受け取った。
「……ありがとう」
かすかな声だった。
でも確かに、そこには色があった。
わずかでも、たしかに命の響きがあった。
倫は微笑んだ。
けれど、その笑顔には、何かを削り取られた跡があった。
無理やり繕ったわけじゃないのに、それでも、痛みが滲んでいた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
なにも言えなかった。
彼が、どこにいたのか。
何をされたのか。
どんな代償を払ったのか――考えれば想像できる。
でも、それを想像することすら、彼を傷つけるような気がして。私は、唇を噛んだ。
「ねえ……」
ようやく、声が出た。
「大丈夫なの?」
倫が、こちらを見た。瞬き、一度だけ。
「なにが?」
「……あなたのことよ」
その目が、一瞬だけ揺れた。
でも、すぐにまた、あのやわらかな笑みが戻る。
「僕は、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
そして彼は立ち上がり、静かに、自分の席へ戻っていった。
その背中を、私はただ見送るしかなかった。
その夜、部屋に戻ると、レオは誰とも目を合わせず、ベッドに潜り込んだ。
毛布をきゅっと引き寄せて、背中を向けたまま、動かない。
私は斜め向かいのベッドに座り、その背中を、ただじっと見つめていた。
(あの子も、きっと……)
何かを失って、何かを守って、ここにいるんだ――
そう思ったら、何もできない自分が悔しくて、息が苦しくなった。
「……ねえ、倫」
そっと声をかけると、隣に座っていた彼が、こちらを見た。
「さっきの……本当に、大丈夫だったの?」
倫は、少しだけ首をかしげる。
「何が?」
「あなたのこと。ジュースを持ってくる前……どこにいたのか、聞いてもいい?」
彼は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
それから、肩をすくめるようにして言った。
「いいことは、してない。でも、必要なことはしたと思うよ」
「誰かに……何かされたの?」
声が震えた。抑えられなかった。
倫は微笑んだ。その笑みは、痛々しかった。でも、優しかった。
「されたっていうより、選んだんだよ。あの子が、ただの番号じゃなくなるようにって」
その言葉が、胸に突き刺さった。
うまく呼吸ができない気がした。
すると――
毛布の中から、小さな声がした。
「……レオ」
私は息を呑んだ。
「いま……なんて……?」
毛布がわずかに動いた。そして、もう一度。
「……レオ。オレの、名前」
私は、そっとベッドのほうへ身を乗り出した。
「ありがとう、レオ」
その名前を、大切な宝物みたいに、ゆっくりと口にした。
そのとき――視線を感じて、顔を上げた。
ルーカンが、部屋の隅からこちらを見ていた。何も言わず、ただ一瞬だけ、目を向けて。
その眼差しの奥には、どこか、あたたかい光が揺れていた。
すぐに彼は目をそらし、壁に背をあずけて目を閉じる。まるで、何も聞こえていなかったふりをするように。
でも、私は気づいていた。
あの一瞬の、静かなまなざしに。
きっと彼も、名前の重さを知っている――そう思えてならなかった。




