表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯びの系譜ー静寂なる闇に芽吹くもの  作者: 武内れい
第1章:静寂に沈む船出
1/66

1、番号で呼ばれる少女(前半)

 港は、朝の霧にすっぽりと包まれていた。


 冷たい白が、肺の奥まで染み込んでくる。海の匂いに混じって、煤けた金属の気配がじわじわと喉を刺した。目を凝らしても、視界は霞の奥に溶けていってしまう。だけど、私には見えていた。

 黒い船の影が、ぼんやりと桟橋の向こうに浮かんでいるのが。


 まるで、空気ごと沈黙しているようなその姿――。


 名前を奪われてから、世界の色が少しずつ削れていっている。

 ミナ・カリス。

 本当は、そう呼ばれていたはずだった。

 でも今、その音を口にしてくれる人は誰もいない。名前は、自分の中でこっそり唱えるものになった。


「F-283、進め」


 霧を裂くように、冷たい声が響いた。反射的に胸がぎゅっと縮こまる。見れば、黒い軍靴の男が無表情に手を振っていた。その仕草さえ、まるで機械みたいだった。


 私は頷いた。逆らうことはできない。ただ、足を前に出す。


 一歩、また一歩。桟橋の板が靴の裏で鳴るたびに、もう戻れないと何かが告げてくる気がした。


 すでに並んでいた子どもたちは、無言で船へと乗っていく。みんな、私と同じ制服を着ていた。灰色がかった薄手の布、金属のタグ。歳も性別もわからないくらい、すべてが塗りつぶされている。


 それは人間じゃなく、製品に近かった。


 ヘレボルス号――誰かがそう呟いていた気がする。でも、はっきりとは覚えていない。

 ただその名前が、どこか不吉な花の名に重なることを、私の胸は静かに知っていた。


 黒く塗られた船体は、まるで霧の中で静かに息をしているようだった。


 甲板に足を踏み入れると、すでに数人の子どもたちが列を作っていた。誰も目を合わせない。うつむいたまま、背筋を張って、まるで自分を消すように。


 喋るななんて言われていないのに。

 でも、ここではみんながそうしていた。

 言葉を出すだけで、自分が壊れてしまいそうで――。


 私も、沈黙に身を預けた。


 目を閉じて、胸の奥で自分の名をそっと唱える。

 声には出さず、ただ確かめるように。


(ミナ・カリス……私は、ミナ・カリス)


 その響きがあまりにもはっきりと心の中にあって、誰かに聞かれてしまうのではと不安になるほどだった。けれど、それは祈りに近かった。忘れないように。私が、私であることを。


 そのとき、ふと視線を感じて、目を開けた。


 霧の隙間から――列の向こう。

 甲板の端に、ひとりの少年がいた。


 同じ制服。同じタグ。けれど、彼だけはどこか、違っていた。

 空気の密度すら変わるような気配。静けさをまとう黒い影。


 長い手足。無駄のない動き。座っているように見えて、背中には緊張が張りつめていた。

 黒に近い茶の髪。小麦色の肌。目は細く開かれ、霧の彼方を見つめている。


 名前……なんていうのだろう?


 そう思って、すぐに打ち消した。

 ここでは、名乗ることは許されていない。誰もが番号しか持っていない。


 だけど――彼だけは、番号でくくられる存在じゃないように思えた。


 彼の呼吸はとても静かだった。

 まるで、空気の層そのものが彼を包んでいるような。

 他の子どもたちは誰も彼を見ていなかった。もしかしたら、見ないようにしていたのかもしれない。


 でも、私は……目が離せなかった。


 霧の中に灯った、ひとつの黒い星のようだった。

 名前じゃなく、存在そのものでここにいると訴えかけてくる、確かな気配。


「動くな」


 監視官の声で、思考が切り裂かれた。

 列がぴんと張り詰める。

 息が止まる。すべてが静止した。


 船はまだ動かない。霧が晴れるのを待っているのだろうか。あるいは、何かの準備があるのか。何も教えられないまま、ただ時間だけがすり減っていく。


 私は、また彼を見た。


 彼は――動かない。目も、指先も、唇すら。


 それでも私にはわかる。

 彼は、他の誰とも違う。

 何かを見ている。その奥に、光のようなものを宿している気がする。


 言葉にならない問いが、霧のように胸に浮かぶ。


(あなたは……何を知っているの?)


 声にはならない。ただ、心の奥でその問いが響いた。


 名前じゃない。だけど、それでも。

 誰かを気配で覚えてしまうことがあるのだと、私はこのとき初めて知った。


 霧の中。

 番号しかない場所で。

 呼び名のない絆が、たしかに息をしていた。


 船は、音もなく霧の奥へと進んでいく。

 やがて見えてくるだろう。名のない島の影が。


 けれど今は――ただ、沈黙のなかに立っている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ