【第1話】仮想《バーチャル》と現実《リアル》、俺の選択
「いらっしゃいませー、ポイントカード、お持ちですかー?」
口から滑り出る言葉は、もう15年、この口から、ほぼ変わらない形で紡ぎ出されている。目の前の客は、慣れた手つきでスマートフォンのバーコードを差し出す。ピッ、と軽快な音が響く。壁の時計を見やれば、午後10時を回ったところ。今日廃棄になる弁当の準備が始まり、深夜に向かうにつれて客足もまばらになる。俺、佐藤健一、45歳。しがないコンビニバイト歴15年のベテランだ。ベテラン、と言えば聞こえはいいが、要は惰性だ。この単調な繰り返しの毎日の中で、唯一、俺を俺たらしめているものが一つだけある。
薬草だ。
休日の俺は、決まって近くの山に向かう。目当ては、ありふれた雑草の中に隠された、様々な薬草たちだ。ヨモギ、ドクダミ、ゲンノショウコ……。陽光の差し込む山道を歩きながら、俺は手馴れた動作でそれらを丁寧に採取する。根を傷つけないよう、葉の薬効成分を損なわないよう、一株ずつ心を込めて。
家に持ち帰ってからが、俺だけの研究の日々の始まりだった。まずは「煎じ(煮出し)」。薬草を水に入れて沸騰させ、弱火で煮詰めて成分を抽出する。煮詰める時間や火加減で、抽出される成分の種類や量が変わってくる。この微妙な調整こそが、薬草の真髄だ。
次に「浸出」。薬草を水やアルコールに浸し、室温で放置して成分を抽出する手法だ。熱に弱い成分には「冷浸法」、早く抽出したいなら「温浸法」と使い分ける。この辺りの見極めには、長年培った経験と勘が欠かせない。
最近特に凝っているのは「チンキ」だった。エタノールに薬草を浸すんだが、エタノールの保存安定性も良いし、水じゃ抽出できない有効成分も採れる。琥珀色に変わっていく液体を眺めながら、俺は薬草の奥深さを再確認する。
抽出方法だけでなく、どの調味料を入れると美味しい飲み方ができるか、なんてのも試したりする。薬草そのものの風味を活かしつつ、飲みにくさをどう克服するか。これは、まるで化学実験であり、同時に芸術でもある。周りには、とんだ変わり者だと思われているだろうな。しかし、俺にとって、これは単なる趣味ではない。それは、探求であり、実践であり、尽きることのない好奇心を満たす、唯一の道だった。薬草を煎じながら本を読む時間、それが俺の至福の時だ。
そんな俺の単調な日常に、突如として降って湧いたのが「VRMMO」という奴だった。最近よく聞く単語ではあったが、正直、俺には縁のないものだと思っていた。なにせ、最後にやったMMOは、キーボードとマウスで操作する、もう10年以上も前のものだ。VRなんて、そもそもヘッドセットを持ってもいないし、どこでどう買うのかも知らない。
だが、成人した甥からの電話が、その平穏を打ち破った。
「健一おじさん、今度出るVRMMO、『アルネシア・オンライン』のβテスト当たったんだけど、一緒にやらない? めっちゃリアルらしいよ! おじさん、昔MMOやってたって言ってたじゃん!」
甥の熱意のこもった声が、受話器から溢れんばかりに伝わってくる。そういえば、正月の集まりで昔のMMO体験を語ったことがあったな。
「いや、でも俺はもうそんな歳じゃ……」
「大丈夫だって! βテストだから無料だし、操作も直感的らしいよ。それに、おじさんの薬草の知識、ゲームでも活かせるかもしれないじゃん!」
薬草の知識。その言葉に、俺の心が僅かに動いた。現実で培った知識が、仮想世界でも通用するのだろうか。もしそうなら……。
甥の熱意に、俺は半ば押される形で、断り切れずにIDを受け取ってしまった。甥はすぐにヘッドセットと必要な機材一式を送りつけてきた。妙に手回しがいい。これも、ゲーム好きの性というやつだろう。
数日後の休日、俺は送られてきたヘッドギアを恐る恐る装着し、起動ボタンを押した。
まず、視界いっぱいに広がるは、SF映画で見たような、青を基調とした未来的なインターフェースだった。耳元からは、女性の合成音声が流れてくる。
『ようこそ、アルネシア・オンラインへ。まず、プレイヤー登録を行います』
慣れない操作に戸惑いながらも、音声の指示に従って、なんとかキャラクター作成画面へと辿り着く。指先が宙を彷徨う。まるで、そこに実体があるかのように、手が勝手に動かされる感覚に、ひどく違和感を覚える。マウスやキーボードでの操作に慣れ親しんだ俺には、この直感的な操作は、まさに未知の領域だった。
目の前には、五つの種族の姿が立体映像で浮かび上がっていた。ヒューマン、エルフ、ドワーフ、フェルーナ、ノクターン。それぞれに詳細な説明が付いている。昔のMMOの知識で言えば、種族ボーナスは後々大きく響いてくる。だが、今の俺にはそこまでの計画性はない。どうせなら、一番無難な「ヒューマン」でいいか。ステータス補正がない分、後から何をしても後悔はしないだろう。
次に、初期職の選択肢が豊富に表示された。戦士、盗賊、魔術師、僧侶、狩人、拳闘士、召喚士、鍛冶師、料理人。
正直、戦士とか盗賊とか、肉体的な動きを要求されるものは、今の俺には厳しそうだ。魔術師や召喚士も、なんだか派手そうで、俺の地味な性分には合わない気がする。やっぱり俺は、地道な作業が好きだ。採取して、何かを作り出す。それは、現実で薬草をいじるのと同じような感覚だろう。
「料理人」……その文字が、俺の目に留まった。薬草を扱うなら、料理人だろうか?「薬師」なんて職があれば迷うことはなかったんだが、選択肢にはない。もしかしたら、料理スキルを極めれば、薬草を扱うことができるようになるかもしれない。現実で培った知識が、この仮想世界でも活かせるのなら……。それは、想像しただけで、胸が高鳴るではないか。
生産職は確かに、どうしても戦闘職に比べて地味で、人気も低い傾向にある。だが、それが俺には合っている。誰かと熾烈な競争をするよりも、黙々と作業をこなす方が性に合うのだ。山で薬草を採取している時の、あの静寂と集中の時間。それに似た体験が、このゲームでも得られるかもしれない。
よし、決めた。
《初期職:料理人 この職業は戦闘能力が非常に低く、習得スキルに制限があります。それでもよろしいですか?》
システムからの警告メッセージが表示されたが、俺は迷うことなく「料理人」を選択した。
キャラクターの外見は、特にこだわりはない。普段通りの、小綺麗な中年の男、といった感じで設定する。髪型は短め、髭は綺麗に剃って、メガネをかける。昔のMMOでは、奇抜な髪型や派手な装備で個性を出そうとしたものだが、もうそんな気力も熱意もない。ただ、普段の自分に近い姿で、この新しい世界を体験したい。名前は……現実と同じ「ケンイチ」でいいだろう。深く考えるのも面倒だし、本名だから愛着もある。
最後に、キャラクター設定の確認画面が表示される。
**プレイヤー名:ケンイチ**
**種族:ヒューマン**
**職業:料理人**
**年齢:45歳(※システム設定)**
**外見:現実の姿をベースに微調整**
全てを確認し、「決定」ボタンを押す。
『設定が完了しました。アルネシア大陸へようこそ!』
光に包まれ、俺の意識は、VRMMO『アルネシア・オンライン』の世界へと吸い込まれていった。体が浮遊するような感覚の後、足裏に確かな地面の感触が戻ってきた。
これから始まる、新しい世界での生活に、俺の胸は期待と少しの不安でいっぱいだった。だが、それ以上に、この仮想現実で、俺の「薬草」への偏愛が、どこまで通用するのか、それを試したいという強い欲求が、俺の心を占めていた。小さな、けれど確かな成功体験を、この世界で得られるかもしれない。45歳のコンビニバイトが、VRの世界で新たな可能性を見つけることができるのだろうか。
俺は、深く息を吸い込み、この未知なる冒険への第一歩を踏み出した。
【アルネペディア】
・アルネシア大陸: 『アルネシア・オンライン』の舞台となる広大な大陸。五つの地域に分かれている。
・ヒューマン: 『アルネシア・オンライン』における種族の一つ。全体的にバランスが取れており、特定のステータスに特化した補正はない。
・料理人: 戦闘職ではなく生産系に分類される職業。ゲーム序盤では不遇扱いされがちだが、料理によるステータス強化や状態異常対策など支援性能は高い。
・チンキ: エタノールなどのアルコール系溶媒に薬草を浸して有効成分を抽出する手法。水では溶けにくい成分も効率よく抽出できる。
・煎じ(煮出し): 薬草を水に入れて加熱し、煮詰めることで有効成分を抽出する基本的な調製法。火加減と時間の調整が重要。