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実戦での「パツィーフィク」第3小隊による誘導兵器の検証を行うはずだったイタリア戦線では、連合軍の動きが完全に停止し、グスタフ・ラインとベルンハルト・ラインを挟んでの小競り合いに終始していた。10月からの雨季に入ったイタリア山岳部の舗装されていない泥濘道は、枢軸軍のグスタフ・ラインを中心としたベルンハルト・ライン、アドルフ・ヒトラー・ラインの建設にも悪影響を与えている。ヴォルトゥルノ川にあった連合軍の前線や後方地域は、降り続く雨とハリケーンで、一夜の内に、浮桟橋も切断される泥の海へと沈んでもいた。
第16機甲軍団に配備された「パツィーフィク」第3小隊は、小さな町カッシーノの南東から北西に抜けてローマに続くルート6を守るべく、第15機甲擲弾兵師団、第一降下猟兵師団への誘導兵器による火力支援が本来の任務である。だが、11月中旬になると、当初の予定とは異なり、第16機甲軍団への防空網の傘を提供していた。ラインメタル社の地対空誘導ロケットは、高度1万メートル以上を飛行する双発のモスキート偵察機や、編隊を組む空の要塞B-17を見境なく撃墜することで、ベルンハルト・ラインとグスタフ・ラインの間を、日中は連合軍の飛行禁止区域に変えていた。
南部弁少佐「谷挟んでまなぐと鼻の先の尾根で、相手のまなぐが見えるどごろで撃ぢ合うなんて、ほんにどうがしてら」
福島弁少佐「それでも、あだ斜面で、迫撃砲大隊砲みだいに直射するどは、大したもんだ。擲弾筒の水平射撃みだいだ」
南部弁少佐「あった石ごろだらげの山じゃ、蛸壺も掘れねすけな。後ろに下がって、敵機落どすだげでいいのぁ、正直助がる」
福島弁少佐「そうは言っても、いづまでもこだ楽はでぎねぇべ。そろそろ、敵の船さロケット撃ぢ込む準備がでぎるごろだ」
南部弁少佐「冗談でね。戦艦の主砲相手じゃ、死ににえぐようなもんだ。海軍さ取られだ奴ぁ、皆んな死んだぞ」
福島弁少佐「皆んな死んだは、言いすぎだべ」
南部弁少佐「そうだべか?」
第16機甲軍団では、連合軍の迫撃砲への対砲兵射撃への対策として、12cm、20cm、30cmの差込型迫撃砲を導入している。誘導兵器の場合、使い捨ての木製の台座に、”ねじ込み式誘導部品”を組み込んだ迫撃砲弾を発射して、即座に陣地転換する戦術が有効だと判断したからだ。グスタフ・ラインを中心とした堡塁による砲兵陣地は、可能な限り隠蔽したままにしておきたい。両軍のパトロール同士による遭遇戦での小競り合いは、ガエータ湾から、アドリア海までの至る所で頻繁に発生していた。
1943年2月20日スターリングラードで抵抗していた最後のドイツ軍部隊が降伏する。同月18日には、包囲されていたドイツ第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥はソ連軍に降伏していた。パウルスの元帥への昇進は、暗に自裁を求められた、その前日のことである。ドイツ軍の捕虜も、最終的に10万人を超える規模になった。ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、フィンランドなどの枢軸側の同盟国にも動揺が走る。半年で終わるはずだった対ソ戦争が、3年目に突入しただけでなく、東部戦線の前線が後退しようとしていたからだ。
その後、日本陸軍による同年3月のビルマからインドに侵攻する”ウ号”作戦と、同年4月の中国華北からフランス領インドシナを突破する”一号”作戦が実施され、順調に推移していたこと。さらに、日本海軍による同年5月の”A”作戦により、イギリス東洋艦隊のインドミタブルとフォーミダブルの正規空母2隻、軽巡2隻が沈没、軽巡2隻が大破、戦艦ウォースパイト中破といった目に見える戦果を上げていたこと。
これらがなければ、政治的理由から、ヒトラー総統は、ソ連軍の突出したクルスクを南北から攻撃する”ツィタデレ”作戦を実施していただろう。5月20日北アフリカのチュニジアで降伏した枢軸軍の捕虜は、27万人にも上る。連合軍が、チュニジアからシチリア島、イタリア南部へと侵攻してくることは、時間の問題だった。ヒトラーが恐れていたのは、枢軸側の同盟国の離反だけではなく、中立国のトルコやスペインの連合国側での参戦だった。