Track:1 - Dinah
父親でない、他人の男の手が頭に触れている。そのことが少年にとっては屈辱だった。
バーの地面に組み伏せられ、わし掴みで頭を押さえつけられている。
「さ、まずは脱いでもらおうか……へへっ」
嘲笑、侮蔑、傲慢。少年へ悪意が向けられた。バーの全てのテーブルから。
少年は酒を頼んだが、代わりに出てきたのがこれだった。味方になってくれる大人はいない。
「――っ! うぅ…………」
彼は後悔する。よりによってこれほど悪徳にまみれたバーを選んでしまうとは。
涙を堪えながら、全てを諦めかけた。
視界の端っこに、悠然たる空気をまとった青年を見るまでは。
彼の登場にバーの中はいっせいに静まり返る。
青髪の彼は客たちの注目を集めるものの、彼からはもみ合う少年と男に目もくれない。
「お、おい! なんだテメェ!!」
青年はヘッドホンをつけていた。怒鳴り声はどこ吹く風。彼は素知らぬ顔を続けながら、奥のカウンター席へ向かう足音を響かせた。
ようやくヘッドホンを外したと思えば、店員に向かって一言、呟く。
「ミルク、貰えるかな……」
「プッ――アッハハハハ!!」
堰を切ったように笑いが巻き起こる。たった一言で、向けられていた敵意を侮蔑へとすり替えた。
「おいおい! 今夜は2人ぶんもガキのお守りしなきゃなンねェのかよ!! 何だァ〜! 期待して損したぜ!!」
「フッ、何を期待されてるんだか……」
彼は冷えた牛乳を一口で飲み干す。味わっていなかった。むしろ、飲んだ後の何も入っていないグラスが欲しかったと言わんばかりに、水滴きらめくグラスを見つめている。
「300ジュドルです」
カウンター支払い口に携帯端末をセットし、彼は身体ごと振り返る。カウンターに両肘をつきながら、少年と目を合わせた。
「……もう後がないって顔をしてるな。思った以上だ」
「あァ? 兄ちゃん、何か文句あんのかよ」
少年を押さえつけていた男が青年の前に出てきて、腰のホルスターの銃をちらつかせる。
しかし、青年は臆することなく男の前に立って出た。2人は無言のまま互いの顔を見合ったが、青年のほうが先に口を開いた。
「今から仕事をするんで、邪魔しないでくれるか」
「ンだと? 仕事?」
青年は男をどかして少年に歩み寄る。身をかがめて起き上がった少年と目線の高さを同じにした。彼は胸ポケットから紙切れを取り出す。
たった1文字。『Q』と書かれたカードを。
彼は少年にカードを握らせた。
「あの……何ですか、これ?」
「俺の名前。何でも屋のQだ。お前さんの名前は?」
「り、リオンです」
「いい名前だ……だが、俺の名前のが覚えやすい。違うか?」
リオンは戸惑いながらもQという青年に同意する。彼は微笑んで答えるが、その間に男が割って入ってくる。拳銃を手にしていた。
「『何でも屋』だか何だか知らねぇけどよ。用が済んだらとっとと出て行けよ。迷惑してんだこっちは」
「あらそお? 俺のこと知らないんじゃ張り合いないな。行こうぜ」
「――ちょ、ちょっと待ってください! 彼、他所のマネートークンを使ってます!」
Qがリオンの手を取ったとき、店員が横槍を入れてきた。
その瞬間、彼の耳元で言い表せないほど大きな破裂音がした。
火薬の匂い。リオンは震え上がってしまっている。
「オ~イオイオイオイオイ……兄ちゃん、こいつに手ェ出すんかい。ガキの生の肉体がいくらで売れるか知ってるかよ? テメェも他所モンと分かれば、ただで返せるワケが無ェよなァ……」
「俺の身体のが高ェよバカ野郎。耳が聞こえなくなったらどうすんだよ……ったく」
Qは動じない。ただ耳を抑えるだけ彼に、リオンは消え入りそうな声で呼びかけた。
「――Qさん、助けてください……」
「ん。なら1杯奢ってくれよ」
リオンは何度も頷く。
「……契約成立だ」
立ち上がったQは、銃を向け続ける男に一歩詰め寄った。
男は一歩引き下がる。それが彼の本能が下した判断だった。
「な……ほんとに何なんだテメェ。ミルク離れできてねェくせに……やんのかよ」
「リオン、カウンターの下に隠れてな。ウォークマン貸してやるよ、好きなの聴きな」
Qは首にかけていたヘッドホンをリオンに手渡す。そのときにQはリオンの頭を優しく叩いたが、リオンも悪い気はしなかった。
「テメェが悪ィんだぞ!!」
そんな男の言葉とともに、銃声がバーの中に轟いた。だがQはいたって無傷。彼は呆然とする男より後方の、バーの店員に頭を下げる。
「天井を撃ったのはこいつです。うちじゃないんで」
床には男が持っていた小型拳銃と薬莢が転がっている。だが、リオンの目にはもう1つの拳銃も目に入った。
どこに隠し持っていたのか、いまQがぶら下げている赤色の拳銃だ。その銃の先からは硝煙が漂っていた。
「な……何をしたんだ。“異能力”か……?」
Qは首を横に振りながら、男に選択を迫った。
「そちらさんの身体なんか売れやしねェ……なら、殺してもいいんだな……? それとも俺たちを見逃すか?」
「ヒッ……や、やめてくれ。み、見逃すから、見逃してやりゃいいんだろ……」
今度は男のほうが震え上がっている。
これで終わり。そうリオンが感じたのも束の間だった。
再びバーは銃声に包まれる。しかし、またもやQは無傷。
Qは確かに発砲した。ただし、それは男に向けてではない。Qからは死角であるはずのテーブルに射撃していた。どよめく客たち。
「おたくさん、グラスに映ってんの。やる気? それなら結構、受けて立つぜ……!」
テーブルの客は撃たれていない。しかしながら、痛そうに指を抑えていた。
Qは、何が起きたのか理解が追いつかないリオンの肩を叩く。我に返った彼は、姿勢を低くしながらカウンター席へと走った。
バーは一気に騒がしくなる。
Qのほうは近くのテーブルに飛び乗り、ざっとバーの中を見渡す。彼に再び敵意、殺意が向けられる。
まるでスポットライトの照明を浴びるかのようだった。客たちは皆一様にQを見ている。
20人。このバーはギャングの縄張りで間違いない。
中には自動小銃を持った者もいる。穏やかではないスタンディングオベーション。
テーブルについていた荒くれはQの足元を狙い、ナイフを振るってきた。飛び上がってそれを避け、荒くれの顔を蹴飛ばす。
Qは意を決してバーの真ん中へ飛び降りた。いくら銃を装備した大人数が相手でも、狭い空間で輪の中に紛れれば、相手は迂闊に発砲できない。
何より、接近戦はQの独壇場だった。
Qは荒くれに肉薄し、ナイフを受け流しながらタックルを繰り出す。吹き飛ばした荒くれの背後にいたもう1人に対しては目にも止まらない速さで拳を打ち込んだ。そしてその傍ら、ソラで番号を打ち込み“彼女”に電話をかける。
呼び出し音、タックル、拳銃を奪う、そして“彼女”の間抜けな声。
『あ~い』
「メーデーメーデー。助けてくれ」
発砲音を拾えるように携帯を近づけて、拳銃を撃ち放った。
『あッこれQのじゃない!! ま〜たいつもの“お人好し”!? 後で説教だから!』
「はいはい……ったく。おめーは俺のお袋か、ってのッ!」
手前側にいた荒くれを体当たりで突き飛ばす。すると、その後ろから拳が飛んできた。
「――ッ! ああ、アンタか」
間一髪。受け流したその攻撃は、男の子に話しかけたあの男のものだった。
「ミルク離れできてねえくせに……何でも屋だかなんだか知らねえがよ。ウチのシマ荒らしたんだ。た〜っぷりお返しさせてもらうぜ」
「門限過ぎたら叱られちゃうんでね。折角のお誘いだが、これでも食らいな!」
Qは一瞬のうちに間合いを詰める。
彼のみぞおちに肘。衝撃で突き出した顎に掌を炸裂させた。宙に浮きかけた男の図体を突き飛ばし、短く息を吐く。ノックダウンだ。
「そちらさんこそ牛乳飲んだ方がいいぜ」
Qはすぐさま次の相手に狙いを定める。
3人の男たちに囲まれても、彼の快進撃は止まらなかった。
テーブルや椅子をも駆使し、ギャングどもを蹴散らす。その様子はまさに映画のワンシーンそのものだった。
そんな光景を目の当たりにした者が声を上げる。
「まさか……あれは“映画流拳法”!?」
「な、バカな! “イービルアイ”はずっと前に死んだはずだ!」
たった1人の青年を中心として、バーの中は阿鼻叫喚の様相を呈していた。
しかし、その時はやってきた。Qの右足が衝撃に持っていかれる。
「――――ッ!! ぐ……ぅ……引き際か……ッ!」
間合いの外から撃たれたのだ。幸いなことに骨は外した。
その激痛はQの勢いを止める。アクションスターが格好の的へと成り下がってしまった瞬間だった。
次弾が来ることは分かっている。だが、避けようがないこともまた直感していた。
倒れざまにリオンを見る。彼はカウンターの下で伏せていた。Qを信じていたのだ。最後の最後まで。
Qは床に崩れる。
しかし、その顔は…………ふてぶてしく笑っていた。
「――爆縮っ!!」
入口のほうから声がすると、突如として爆風がギャングたちをなぎ倒した。Qは頭を抑え込み、その爆風に耐える。
瓶が吹き飛び、天井が崩落してくる。空中のある一点に向けて周囲が引っ張られるような、爆発とは逆の現象。
爆縮――それは“彼女”が到着した報せだった。
Qは懐から自身の赤い銃を取り出し、引き寄せられている黄色の缶を撃ち抜く。
銃弾を食らった缶は赤熱し、一瞬のうちに膨れ上がって凄まじい音ともに爆発した。
「何だ!?」「うわあッ!!」
バーの天井には大穴が空き、ギャングたちを巻き込みながら建材が崩落してくる。
その場で意識が残っていたのは、伏せていた男の子、倒れていたQ、遅れてやってきた“勝利の女神”の3人だけ。Qの威嚇射撃で、残党たちは情けなく逃げていった。
「はぁ……遅かったんじゃないか? シュガー」
「Qが“お人好し”を発動させたからでしょ? 漫画、いいとこだったのに……」
仰向けになったQの視界の端で、シュガーが覗き込んできた。キャスケット帽に、短めの黒い髪。彼女は外の明かりに照らされ、その肌がより色白に映った。
視線を少し下に。彼女の“義足”に目を向けた。
「ったく。足の心配するくらいだったら、はじめから自分の心配してよね~。いつもマスターに言われてるでしょ『Qは自分の力を過信しすぎてる』って。いつになったら治るの?」
「……俺が俺じゃなくなったとき」
「はぁ……ダメだねこりゃ」
カウンターへ遠ざかる硬い足音、シュガーとリオンの話し声、そしてライターの点火音。右足が痛む。
好きな銘柄の煙の向こうに、爆縮と爆発で崩れ落ちた天井に――Qは満点の星空を見た。
「楽しい時間はあっという間さ。次、行こうぜ。リオンの奢りでな……」
これは新都市アーデントを縦横無尽に駆け回り、どんな依頼も解決する何でも屋の物語。そして――――
「いーや、Qの奢りで、ね?」
シュガーはいたずらっぽく笑う。
――これは、“若さ”と“自由”を謳歌する少年少女の、希望に満ち溢れた物語でもあった。