おてやわらかに 【8】
“分かっとるやろな”
タツローは自分に言い聞かせた。命懸けの自制である。一時の気の迷いに流されたら首が飛ぶ。
今この瞬間にも、言葉にしがたい不可解な一時が、言葉を出し得ない二人の間を流れているように思われた。
不快と言う訳ではないのだが、タツローにとってもチェレミーにとっても身の置きどころも無いような、息詰まるような不可解な沈黙がその場に蟠っていた。
気まずいとも何とも言い難い、にもかかわらず不思議と心地よい時間がのんびりと流れた。
「タツロー様……」
暫しの間を置いてから、チェレミーが、ただならぬ雰囲気を漂わせながらタツローに声を掛けた。
「は、はい__」
タツローも、無礼があってはならぬとばかりに辞を低くして答える。この時何故かタツローは、チェレミーの切ない響きに彩られた言葉に非常な警戒心を抱いたのであった。
「__申し訳ございません」
「な、なにを__」
チェレミーの、出し抜けとも言える言葉にタツローは戸惑いながら応対する。今の一件は別にチェレミーに何か落ち度があった訳でもない。彼女がわびる必要などないのだが__或いは、間が持てなくなってチェレミーから何かを言わずにはいられなかったのかも知れない。
「折角、お屋敷にお越し頂いたお客様に対して、わたくしの様な者が身の周りのお世話を……」
タツローとは目を合わせず、呟くような声音でチェレミーは言った。何かを、告白するような、切迫感にも似た響きを感じさせる口調であった。
「いえ、そんな__」
最初タツローはこの言葉を、一介の武芸者風情が主の娘などという高貴な身分の接待を受けてと言う風にとらえた。
「今まで、正式にメイドとして働いた事も無い自分が、大切なお客様の接待を申し出るなど、普通では有り得ない事は重々承知しております」
が、チェレミーの言いたい事は少し違うようである。
「失礼を承知の上で僭越な事を願い出たのには……理由がございますの」
「わ、理由……?」
チェレミーが頷いた。
「聞いて……頂けますか?」
「御伺い致します」
何も拒否する理由とて無い。しかし、チェレミーは、恰も決意を促すような意気込みでタツローに念を押した。
我知らず、足元から踏み応えが抜けるような感覚が伝わってくるような想いのタツローだった。
今一度、チェレミーは息を呑んだ。
「__もし、お客様がタツロー様で無ければ……わたくしもこのような、無理なお願いは致しません」
チェレミーが何を言いたいのか、この期に及んでもタツローは理解できない。否、彼にもチェレミーの言いたい事は充分に把握できてはいる。だが、それを認めるのが何となく恐ろしかったのである。
暫しの沈黙が、その場に流れた。
「タツロー様__」
タツローは無言であった。
「タツロー様」
答えの無いタツローに、返事を促すかのように、チェレミーが再度彼の名を呼んだ。
「え……あ……は、はい……」
どのような言葉をもってチェレミーへの答えにすれば良いのか分からぬタツローは、独り言のように意味の無い言葉を口から漏らすのみであった
「タツロー様」
今一度、チェレミーはタツローの名を呼んだ。その声音には、決心とでも言うべき何やら強固な意思が込められているように感じられた。
「__はい」
タツローも、何やら気押されるような、及び腰とでも言うような気色でチェレミーの呼び掛けに呼応した。
「どうか……いつまでも、御屋敷に……これからも、ずっと……」
その一言を耳にした途端、タツローは何故か意識が遠のいて行くような感覚に捕われていた。
「……ずっとここに__わたくしの、そばに……」
やっとそれだけを口にしたチェレミーは、重大な告白を成し遂げたように一息付いてそのまま口ごもった。
タツローも、全身に冷水を浴びせられたような感覚のまま、しばし呆然とそこに座り込むだけであった。
「誠に、恐れ入ります__」
漸く口を衝いて出た答えは筋の通らない言葉であった。今や己を見失い、もう何を答えて良いのか分からぬタツローは意味の無い、と言うより支離滅裂な、頓珍漢な言葉を発するのみであった。
“__いつまでも__ずっと__”
霞がかかったような精神状態のただなかに、今しがたチェレミーが口にした言葉が何度もこだましている。
ここまで追い込みを掛けられて尚、タツローの理性、或いは分別と言うのだろうか何なのか、意識の一部は認める事を拒んでいる。
その言葉の意味する所を認めてしまうのが心底恐ろしい想いのタツローであった。