始まりの“じ”
放課後。必要最低限の授業を終えた正月休憩と大晦日憩い(おおみそか・いこい)の二人は、駐車場にとめてある赤色のスポーツカーに乗り込む。憩いの愛車は現金一括で買われた。休憩は右側の助手席に乗り、憩いが左側の運転席に乗る。新品の革の匂いが鼻腔をくすぐる。憩いは慣れた手つきで日本車と左右逆のウィンカーを点灯。スムーズに発車する。
クラスとは違う、車内男女二人っきり。命の危険性を感じた休憩は場を持たせるために無理やり言葉を発する。
「なあ、大晦日。高校生が車を運転してもいいものなのだろうか?」
「大丈夫だよ。私、三月に免許を取ったばかりだもん」
憩いはキョロキョロと目を左右に振り、安全を確認してから道路に踊り出す。
休憩はシートを倒して軽い伸びをした。
「不思議なもんだ。僕の同級生が車を運転するなんて」
「別に変じゃないよ。高校を卒業して十八の三月になれば誰でも車を運転できる。まるで空気を吸うように、ね」
大晦日憩い。高校一年生。“十八歳”。彼女は二度目の高校生活を楽しんでいる不良少女だ。
憩いの通っていた高校はそれなりの新学校であり、東京のどこかの私立大学を受けて合格した。しかしながら、受験勉強に嫌気がさした彼女は、大学進学を断念し、再び高校生になることを決意した。周りの友達は進学や就職、中には結婚し、華やかな家庭を築いた若妻までいる。なのに、憩いだけは変なほうに折れ曲がった。一本筋の通った輝かしいレールの上のような人生から脱落し、津波のような押したり引いたりするジグザグな道を選んだ。
休憩の中で憩いに対する敬意はない。よってため口で喋る。憩いなんぞに敬語を使ってたまるものかと躍起になる。
「まるでコスプレだな」
「あはっ言ったな? 私は来年も再来年もセーラー服に身を通さなくちゃならない。十九になっても成人しても高校を卒業するまで合法女子高生だ」
「合法女子高生っていう言葉が面白い」
「どこが?」
「存在そのものが」
「馬鹿にしているだろう?」
「正直馬鹿にしている」
車が急停止する。休憩のシートベルトが彼の腹に食い込み、胃を絞る。胃酸が逆流して口内に甘酸っぱさが広がる。今日食べたたこさんウインナーの味がした。
「うえっ。ひどいじゃないか」
「年上を馬鹿にしたお礼だ」
急発進する車は何事もなかったかのようにコンクリートジャングルに入っていく。道行く人。交差する車。何度目かの信号を過ごし、二人は無言のまま垂れ流しのジャズを聞いていた。
日本は一億とちょっとばかりの人が住んでいる。車を走らせるだけで何百、何千という人にすれ違う。けれども赤いスポーツカーに注目し、さらには車内の二人、憩いと休憩を眺める人はわずかだ。誰も彼らに興味を持ってはいない。大晦日憩いという日本で絶滅危惧種の不良少女に誰も意見を唱えない。
大学進学を諦めて高校に再編入し、十八歳の高校一年生という特異性を持っている彼女に、なろう高のクラスメートも先生も誰もが反対意見を言わない。金持ちの道楽と捉え、授業を受けないのならば勝手に休んでろというスタンスだった。アルバイトもせずにスポーツカーを乗り回す変わり者は、やっぱり、道を外れた変わり者の休憩となんとなく馬が合った。
「なあ、正月。私たちの取るべき道は二つある。一つは歌舞伎町に行く道。適当なホテルに入り、適当な挨拶を済ませて、適当に事をなせばいい。もう一つは帰る。不承不承ながら、私の家に行き、一晩過ごすという方法だ」
憩いは真顔だった。だから休憩も真顔で返した。
「おかしな話じゃないか? そうすると僕と君は恋人になるという選択肢しか残されていない。こんなの宗教か押し売りの美人局だと疑うのが真っ当な考えだ。半月ばかりで知り合って間もないクラスメートと恋人になろうなんてドッキリを疑うよ」
「あははは。思春期には一目惚れなんて言葉がある。それなんじゃないかい?」
「いやいや大晦日。それは一目惚れじゃなくて自惚れ(うぬぼれ)というやつだ」
「ふむ。でもよく考えてほしい。大学受験に失敗し、なろう高に入学するという突飛な行動に出た私が、クラスを抜け出して一人の男子生徒に毎日のように会いに来ている。まるで通い妻だ。それが好意じゃなくてなんだっていうんだい?」
憩いは笑う以外真顔だった。だから休憩もさも興味なさそうに真顔で答えた。
「ただの気の迷いだよ。勉強漬けだった女子高生が受験失敗を機に素行が悪くなっただけだ。そこに僕という概念は存在しない。ただ、授業をさぼりたい、ただ、男と遊びたい。大人ぶってるマセガキと同義だ」
何度目かの信号が赤に変わる。車が止まる。ちょっと考えて憩いは真正面を向いたまま反論する。
「マセガキ。ませた子ども。年齢にそぐわないことをしたがる子供。たしかにその通りかもしれない。私はもうすぐ成人になるというのに毎日のように授業をさぼっている。君とエッチなことがしたいと望んでいる。けれど仕方ないじゃないか。今までそういう経験は皆無だったのだよ。十八の私が性欲を満たそうとするのは当然のことだ」
「だから攫うのか、この僕を? だとしたらとんだお子様だな」
休憩は現在、車という密室に拉致監禁されている最中だった。
事の発端は放課後。帰宅しようとした休憩の背に刃渡り9cm、重さ37gのアウトドア用ナイフを当てて、憩いはこう告げた。
「私についてきなさい。でないと刺す」
言われるがまま休憩は帰宅をやめて車に乗り、いつナイフで刺されるか分からない状況をポーカーフェイスでやり過ごしながら内心冷や冷やしている。
童貞少年が年上女性に脅されて連行。そのままホテルか女性宅で逆レイプされるという同人誌顔負けの展開に、それは二次元だからゆるされるのであって、三次元でやられると恐怖そのものだ。憩いのキチガイじみた行動に休憩の心臓は早鐘を打つ。
「大晦日。この半月、君とお喋りして君が聡明で利己的なのは理解している。君の精神どこかで闇が深い部分があるのも実感した。だから意外だったよ。なぜ君がナイフで僕を脅したのか?」
「あなたが好きだからよ、ってヤンデレっぽく言えば可愛げがあるのかしら」
憩いが横を向いた瞬間、スポーツカーが路側帯の白い線から大きく外れる。対向車からクラクションが鳴る。危うく事故になりかけるところだった。
「前々」
休憩はこのキチガイじみた女の行動原理が理解できなかった。そりゃ、この十五年間、まともに女性とお付き合いしたことはない。しかし、偉人伝を読み、ライトノベルを読み、純文学を読んだ休憩は万能感に満ち溢れていた。女性とはこういったものだという理想像が出来上がっており、であるからして三次元の女は糞だと思っていた。
大晦日憩いはまともな部類の女ではないかと期待したが、やっぱり糞だった。
休憩の未来予想図では、自分は本を読んでいた。
高校に進学したとしても今までの生活と変わらない。朝も昼も夜も自分の好きな本だけを読む生活。
最高の高校生活を送る文学少年は、けれども最悪の不良少女に巻きこまれて、波乱万丈な道に引きずり込まれるのだった。
車は高速道路に乗り、自宅からぐんぐん離れていく。休憩のポーカーフェイスは崩れないが内心を一言で表現する。唖然。ただこれに尽きる。休憩は憩いの奇行になすがままに踊らされ続けた。
「大晦日。僕の心中を三行で表現しよう」
「ええ、何?」
「同級生に、拉致されて、ピンチ。今後僕はどうなるのかな?」
憩いは安直な答えを言わない。代わりに休憩を倣った。
「私も三行で表現しましょう。いいかしら?」
「どうぞ」
「同級生は、エッチで、ビッチ。それが私の答えよ」
「いや、それ全然答えじゃねえから!」
この時ばかりは休憩のポーカーフェイスも崩壊し、物凄い困り顔を見せた。