始まりの“は”
真の芸術家は妻を餓えさせ、子供をはだしにし、七十歳になる母親に生活の手助けをさせても、自分の芸術以外のことは何もしないのだ。
バーナード・ショーより。
高校一年生になり、晴れて部活動に入ろうかと思い悩む青年がクラスに一人。彼の名前は正月休憩。地味な文学少年だ。小学生の時に偉人伝を嗜み、中学生の時にライトノベルにどっぷり浸かり、高校受験をきっかけに国語の教科書に出てくるような純文学に興味を持った。そんな普通な少年。進学、就職に興味はなく、ただ面白いかな、という理由だけで通信制の高校に入学した。その高校は、なろう高校といって元は小説投稿サイトが教育関連に進出し、サイト内の有識者のボランティアを得て完成した、大学のような教育が受けれると話題になった高校だ。
校風は自由。高卒認定が取れるかもしれないし取れないかもしれない。みんながみんな、通常の授業よりも専門性の高い授業を受けにやってくる。パソコンがあればだれでも講義を受けれる、テストさえクリアすれば単位が取れる、そんな圧倒的自由を前に、クラスメイトのうんぬんは登校せずに自由気ままに家で授業を受けて、そのまま青春を自宅で過ごし、みんな、やりたいことを両立しながら一生懸命やっている。
だから浮いたのかもしれない。休憩は家から高校まで通学し、きちんとクラスで先生の授業を受けている。先生の授業はネットで放送されているので、家で受けることもできるのだけれど、なぜか休憩は通学を選んだ。だからクラスにただ一人、休憩の居場所は芸術クラスであり、かつ芸術クラスには休憩しかいなかった。
芸術クラスは将来芸術大学を受ける人もしくは独立する予定の人で構成されたクラスで、詩人、小説家、戯曲家、批評家、画家、音楽家、彫刻家、芸術上の素人などが集まる。授業方針は自由。高校の勉強なんて芸術に意味をなさないので、高卒認定のためのカリキュラムを受け、後は自由に芸術を高めてくださいねといった一風変わったクラスだった。
四月。桜の花が舞い散る季節。休憩を驚かせる出来事があった。クラス担任の第一声が、「アインシュタインの言葉を引用します。『私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である』とのこと。つまり、高校の教育は無意味。みなさんの芸術に常識なんて通用しません。だから高卒認定がもらえる必要最低限の授業だけを受けて、あとは自宅で研鑽を積んでください」だった。
これには休憩も驚いた。なにせ彼は漠然とした理由で高校に来たわけで、最低限、引きこもりながらパソコンで授業を受け、あとは自分の好きなように生きなさい、と言われてもとどのつまり芸術の素人なのだ。自宅でやりたいことなんて何もない。
「バーナード・ショーは言った。成功の秘訣は、多数に逆らうこと。僕は親の反対を押し切り、中学の友を裏切ってこの学校に来た。なろう高校ならば、何かとてつもない芸術家になれる気がしたからだ。しかし、いかんせん、ここは独学が強すぎる。文学が好きなだけの僕に、文学とはなんぞや、を何も教えてくれない。自由すぎやしないか?」
四月半ばの昼休憩。己の主張を、休憩は誰もいない教室で語り掛ける。そう、芸術クラスは誰もいない。しかし、反応する声が一つ。
「バーナードを引用するのはいい。しかし、正月。あなたは決して芸術クラスに入るべきではなかった。私のように一般進学クラスに来るべきだった」
女の名前は大晦日憩い(おおみそか・いこい)。一般進学クラスのくせに変な計画を立て、なぜか芸術クラスに頻繁にやってくる変わり者だ。
どこぞの組織にも馴染めないやつ、孤立するやつはいる。けれでも憩いの方は少々特殊で奇妙なものだった。彼女は言った。大学受験における三年間は少なすぎやしませんか? と一般進学クラスの理念を真っ向から否定した。
休憩が芸術クラスで普通に授業を受ける模範生になったのに対して、憩いは一般進学クラスで授業を受けないという選択肢を選んだ。今では休憩のさぼり仲間であり、話し相手だ。何せ芸術クラスはほとんど授業をしない。本当に必要最低限のカリキュラムで出来ているのだ。
「大晦日。そうはいっても僕は悲しんでいる。文学について学べるばかりと思っているのに、先生が言うのは三点のみ。読むこと、書くこと、できるだけ毎日続けること。これだけだぞ? こんなんで芸術家になれれば誰も苦労はしないし、世の中は芸術家だらけで兼業のオンパレードだ」
休憩の愚痴は正鵠を射ている。なろう元年と称された今作のウェブ小説事情により、誰もかれもが小説家として一応のデビューはできるのだ。もっとも、そこで独自性を売り出し読者を獲得できるのは、ごく少数の天才と一部の努力家だけで、あとは趣味として無収入でウェブ小説を執筆している。
休憩にも小説家に憧れる時期があった。しかし、何をやったらいいのか分からなかった。だから、親や友の反対を押し切ってなろう高校に来たのに、来たら来たでこの有り様である。授業は真面目でも芸術関連のものはぶん投げっぱなしだった。
「僕が思うに自由すぎる」
「まあ、自由のおかげで私は堂々とさぼれるんだけどね」
憩いは舌を出してお茶目な顔をする。
休憩は呆れて会話を止め、机の上にある祖母が作ってくれた弁当の具を摘まむ。
四月半ばのある教室でのシチュエーション。真面目な男子と不真面目な女子の会話劇。
この会話劇を楽しむには、大晦日憩い(おおみそか・いこい)という少女のある特殊性を知っておくに越したことはない。特殊性。他と異なっている特別の性質。
異質な通信制の高校、なろう高において、憩いほど一風変わった女子高校生は存在しなかった。
憩いの打ち立てた計画では、高校生は勉強するな、というものがある。
元来、学徒というものは学校で勉強する人を指す。高校生ならば大学受験のための勉強がこれに当たる。しかし、憩いは学徒という言葉を別の意味で捉えた。それは学問・研究をする人。学者。研究者。
憩いは、高校生を、大学受験を勉強する人ではなく、好きな分野を勉強する人と認識した。その結果なのだが、大学受験は社会人になってからでOK。数少ない青春の三年間を大学受験で使うのは非常にもったいなく、もっと好きなことに触手を伸ばそうとした。
「じゃあ、いつ大学の勉強をするんだよ?」
と休憩が興味本位で聞いてみると、憩いは能天気に、
「明後日」
と言い出す始末。休憩が追及すると、憩いは、大学受験なんて二十代になってからやればいい、と適当に答えた。いや、彼女本人にとっては大真面目なのかもしれない。何せ、憩いは、授業を全部さぼり、休憩と一緒に芸術クラスで授業を受けている変わり者なのだ。芸術クラスの担任も憩いを肯定的に捉えている。
バーナード・ショーのように芸術とは妻、子ども、老後の母を飢えさせても、多大な犠牲を払っても芸術に惚れこむ者を指すのだ。芥川のような芸術至上主義とまではいかないまでも、今の憩いは、まさに、芸術クラスの先頭を走っていた。毎日のように奇行を繰り返していた。
「大晦日。一般進学クラスの君が授業を受けずに全部を捨てて、極めたい好きな学問って何だい?」
休憩がたこさんウインナーをもぐもぐさせながら尋ねる。
すると、憩いは宙を見つめて、首を半回転させ、窓の方を見やり、自分の鼻にかかった長い髪を手で払いのけて、こう答えた。
「分かんない。今から決める」